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大切なものを守るために――それでも、進むと決めた

興奮冷めやらぬ大広間で、フレッドがユウにそっと声をかけた。


「ユウ様・・・明日の夕方は、お時間ありますか?」


その声には、いつもの陽気な調子はなかった。


頬はほんのり赤く、潤んだ瞳がせわしなく瞬いている。


「・・・大丈夫よ」


ユウは視線を伏せながら答えた。


ーー出陣前に、何か伝えたいことがあるのだろう。


鈍いユウにも、それは察せられた。


「それでは・・・明日、中庭でお待ちしています」


少し掠れた声で、フレッドはそう言った。


「はい」


ユウの答えのあと、中庭には静かに雪が降り始めていた。


――明日、その場所で、何が語られるのか。


ふと、ユウの胸に重く沈む感情があった。


つい数日前まで、リオウとフレッド、どちらと結婚するのかを決めるよう迫られていた。

それが争いの開始と共に、有耶無耶になった。


ーーそれはそれで、助かったとも言える。


けれど――


フレッドの真剣な目が、ユウの心を、静かに締めつけた。


「何を・・・伝えるつもりなのかしら」


口には出さず、ただ胸の奥で、ユウはそっとつぶやいた。



ーーできた。


ウイはようやく針を手放した。


この数日間、寝不足が続いていた。


その理由は、今まさに手の中にある。


白地に、黒い糸で丁寧に縫い付けられた紋章。


細く長い白布の端には、ほつれ止めに銀糸を縫い込んである。


それは、かつてのコク家の家紋だった。


出陣を控えるリオウのために、ウイが一針一針、夜を徹して縫い上げたものだ。


コク家はすでに滅び、旗も失われた。


だからせめて――


鎧の上に縫い付けられるよう、肩飾りの形でこの紋章を仕立てた。


「・・・姉上の婚約者候補なのに」


小さく、ウイはつぶやく。


姉・ユウに夢中なリオウ。


自分はきっと、視界の片隅にも入っていない。


ーーわかっている。


それでも。


争いが始まるということは、生きて帰れない可能性もあるということ。


ならばせめて。


せめて、出陣の前にこの紋章を渡したい。


想いを形にしてしまうのは、少しだけ怖い。


けれど、この刺繍をしているところを誰かに見られることの方が、もっと恥ずかしかった。


そっと、膝の上の紋章を見つめる。


「・・・喜んでくれるかしら」


ウイは、誰にも聞こえないような小さな声でつぶやいた。



夜明け前の寝室は、深い静寂に包まれていた。

月の光がカーテンの隙間から差し込み、部屋の輪郭をかすかに浮かび上がらせる。


隣では、シリが静かに寝息を立てていた。


かすかに胸が上下し、安らかな表情をしている。


しかし、ゴロクの瞳は閉じられなかった。


眠れぬまま、ゴロクは天井を見つめていた。


不意に、かつてゼンシとともに馬を駆けた戦場の風景がよぎる。


ーーあの頃の自分は、ただ前だけを見ていた。


この数日間、仮眠すらままならない。

戦が近づくにつれ、頭の中が休まらないのだ。


「・・・勝てる要素が、どこにある」

呟いた声は、かすれていた。


ただの戦ではない。


これは“時代”との戦であり、“若さ”との戦であり、

己自身の“老い”との戦いでもあった。


かつての己は、ゼンシの一番槍だった。

誰よりも早く城門に駆け込み、血を浴び、勝利を掴んだ。


だが――今、自分はこうして高みから皆の動きを見ている。


重たくなる胸を押さえるように、ゴロクは拳を固く握った。


誰かの命を、誰かの未来を、自分の判断ひとつに乗せることの重さ。

これほどまでに、自分の老いが憎らしいと思ったことはなかった。


「ゼンシ様・・・」


思わず名を呼ぶように唇が動く。


ゼンシが生きていた頃は、剣を抜けば、敵はひれ伏した。

だが、ゼンシ亡き今、人々の心はあまりに速く変わっていった。


キヨ。


領民出身の兵が入ってきたと言われ、怪訝な顔をしたあの頃。


痩せて、目だけが大きく貧弱な顔をした男。


なぜ、ゼンシ様はあんな男を家臣にしたのか分からなかった。


けれどーー


策に優れ、腕力はないが知恵で敵を落とす、言葉に華がある。


まるで、時代そのものが彼の肩を押しているかのようだった。


見る見るうちに出世をする男。


ゴロクにはそれが、どうにも面白くなかった。


己のような不器用で、言葉少なな武人には決して届かぬ“何か”が、

あの男には確かにある――そう感じざるを得なかった。


「眠れないのですか」

不意に隣から声がかかる。


寝返りを打つと、シリがまっすぐな目でゴロクを見つめていた。


「・・・シリ様」


ゴロクは低く呼びかけた。


「・・・どうしても、勝てぬ気がして・・・」


その言葉に、シリは小さく息を呑む。


「策は尽くしてある。兵の数も、士気も、負けてはおらぬ。・・・それでも、キヨは侮れない」


ゴロクの言葉には、珍しく翳りがあった。


恐れではない。


だが、生涯の多くを戦に費やしてきた男だからこそ察する。


――これは“運”を味方にした者の戦だと。


「・・・それでも、出陣するのですね」


シリが静かに言う。


ゴロクはわずかに頷いた。


「逃げれば、義が死ぬ。モザ家が、そこで終わる。

それを思えば、己の命など惜しくはない」


シリはゆっくりと起き上がるとゴロクの隣に膝をついた。


そして、彼の手を取り、掌で包み込むようにした。


「あなたは、まだ終わってなどいません」


ゴロクは目を見開いた。


「シリ様・・・」


「キヨは勢いがあります。でも、義はあなたにある。

兄上が夢見た天下を、本当に思っていたのは、あなたでしょう?」


「・・・夢など、所詮、勝てぬ者の慰めです」


ゴロクの声は掠れていた。


シリは首を振った。


「あなたは夢で動く人ではない。

現実の重さを知り、それでも義を捨てぬ人。

私は、そんなあなたを心から尊敬しています」


ゴロクの手がわずかに震えた。


それは、武人としてではなく――

ひとりの老いた男として、寄りかかりたくなるほどの、優しい言葉だった。


「・・・申し訳ない。シリ様を不安にさせてしまった」


シリは微笑んだ。


「いえ。こうして、本音を聞けて嬉しいです」


そして、ゴロクの手を強く握った。


「ゴロク、勝敗はまだ決まってないわ」


ゴロクは、かすかに目を伏せた。


「シリ様は・・・いつも・・・強い」


「それは・・・ゴロクが私の大切なものを守ってくれるから・・・」


二人の間に、言葉はいらなかった。


ただ、その静けさの中に、深く確かな絆があった。


ゴロクは起き上がり、シリの手を取り、もう一度強く握った。


ーーこの戦は勝てないかもしれない。


ゴロクは薄々と感じていた。


だが、それでも退くことはできない。


大切なものを守るために。



次回ーー明日の9時20分


ノアを揺さぶるため、キヨは新たな手を打ち始める。

一方、ユウはフレッドとの約束を胸に、中庭へと歩み出していた。

策謀と想いが交錯する時、運命の歯車はさらに速く回り始める。


「出陣直前 幸運を掴んだ男の静かな微笑み」


このお話の前の話。

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寡黙で不器用なグユウと勝気な姫 シリが本当の夫婦になるストーリー


秘密を抱えた政略結婚 〜兄に逆らえず嫁いだ私と、無愛想な夫の城で始まる物語〜


▶︎ https://book1.adouzi.eu.org/n2799jo/

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