怖い・・・でも、進めなくては・・・
シリが去ったあと、ウイはその場にへなへなと崩れ落ちるように椅子に腰を下ろした。
「ウイ・・・」
ユウがそっと背中に手を添える。
その優しいぬくもりに、ウイは堪えきれず、姉の胸にすがりついた。
「姉上・・・私、怖いの・・・怖い・・・争いが始まるのが、怖いの・・・!」
震える声で縋る妹を、ユウはぎゅっと抱きしめた。
「大丈夫よ・・・ゴロク様は戦に強い方だわ」
そう言いながらも、ユウの声もまた、かすかに震えていた。
「でも・・・!」
ウイは涙をこらえきれず、首を振る。
「ゴロク様がいくら強くても・・・誰かが傷つくのよ。死ぬかもしれないのよ・・・
姉上だって、わたしだって・・・!」
声をあげて泣くウイを抱きしめながら、ユウもまた、喉の奥が熱くなった。
言葉にできない恐れが、二人の間を満たしていく。
その様子を、末の妹・レイはじっと見つめていた。
激情型の姉ユウに比べて、ウイはおとなしく、場の空気を柔らかく包むのが得意な姉だった。
姉妹の中では、いつもムードメーカーとして明るさを絶やさない存在。
そのウイが、感情が乱れている――。
胸の奥がざわついた。
どうしたらいいかわからず、レイは救いを求めるように乳母たちへ視線を向けた。
けれど、遠巻きに見守っている乳母たちは、表情をかたくして首を振るでもなく、黙して立っていた。
――大人たちも、もうどうにもできないのだ。
そのことを悟ったレイは、ふと視線を隅にやった。
そこには、静かに二人を見つめているシュリの姿があった。
彼の表情は複雑で、ただの“使用人”ではない心の揺れが滲んでいた。
「姉上たち・・・どうしたらいいの・・・?」
レイがそっと近づき、横に立って声をかける。
「・・・そのままにして差し上げてください。
ウイ様のことは、ユウ様にお任せになった方が・・・」
シュリは低く、しかし優しい声音で答えた。
「シュリ・・・私は、記憶がないからよくわからないけれど・・・
争いって、やっぱり・・・怖いものなの?」
レイの問いに、シュリは目を伏せて、しばし沈黙したあと、小さく頷いた。
「・・・とても、残酷です。特に・・・敗者にとっては」
その声は、どこか自分自身の傷を思い出すような響きがあった。
彼にも、語れない過去があるのだろう――と、レイは感じた。
「姫様方は・・・過酷な経験を乗り越えておられます。
今、心が乱れてしまうのは・・・当然のことかと」
「ウイ・・・このまま争いを避ければ、私たちの身柄は・・・キヨのものになるわ」
ユウの静かな声が、部屋に響いた。
「そんな・・・! そんなこと、考えられない!」
ウイはかぶりを振る。
だが、ユウは淡々と続けた。
「キヨはじわじわとシズルの領地を削っている。
前の争いでも・・・レーク城を陥とすまでに、三年もかけたのよ」
ユウの説明に、ウイは次第に涙を止め、黙って耳を傾けるようになった。
「争うなら、今がいいわ。ゴロク様が、まだお元気なうちに」
その言葉に、ウイが顔を上げる。
「・・・そう・・・なのね」
「ええ。ゴロク様は高齢よ。
彼が弱った時に攻め込まれたら・・・その時こそ、シズルは滅びるわ」
ユウの声は冷静だった。
けれど、その表情の奥には、震えるような不安がにじんでいた。
――さすが姉上だ。
レイはじっとユウの顔を見つめる。
不安な時に、かけて欲しい言葉をちゃんと選べる。
状況を正確に見ているユウの言葉には、自然と説得力が宿っていた。
けれど、彼女の瞳の奥が揺れていることを、レイは見逃さなかった。
――姉上も、怖いのだ。
そっと、レイはシュリに目をやった。
彼はただ静かに、ユウを一身に見つめていた。
その視線に、何か強くて、あたたかいものがあった。
――シュリなら、きっと姉上を守ってくれる。
それがただの希望であっても、今の自分には、それを信じるしかなかった。
ウイの気持ちがようやく落ち着いた頃を見計らい、ユウは乳母に静かに命じた。
「カモミールティーを・・・エマがブレンドしたもので。ウイに」
「はい、ただいま」
乳母たちが慌ただしく動き始める。
その様子を確認してから、ユウは振り返り、シュリに声をかけた。
「シュリ、付き合って」
「・・・はい」
ユウとシュリが部屋を出ていく後ろ姿を、レイはじっと見送った。
一見、いつも通り落ち着いているように見える姉の背中。
けれど、今日は・・・いつもより小さく見えた。
――ああ、姉上はまた、あの部屋でシュリに話すのだろう。
◇
見張り部屋に入るなり、シュリが口を開いた。
「ユウ様、見事でした。ウイ様もレイ様も、落ち着かれたと思います」
「・・・シュリ。私も、怖いのよ」
ユウの声は、かすかに震えていた。
「知っています」
シュリはすぐに頷いた。
「それを、あの二人には見せなかった」
「・・・私は長女よ。騒ぐわけにはいかないの」
ユウは少しだけ顎を上げる。
――強がる時の癖だ。
侍女や女中から見れば、それは冷たく傲慢な仕草に見えるかもしれない。
けれど、シュリにはそれが、とても人間らしく、いとおしかった。
「・・・これから、どうなるのかしら」
ユウは遠くを見つめるように呟いた。
「情勢は・・・明らかにキヨが優勢だわ」
「なぜ、そう思われますか」
「キヨは叔父上の仇を取った。それだけでモザ家では発言力が増すわ」
「はい」
「そして、雪で動けないシズルを横目に・・・彼は他の領と水面下で連携を取っていたはず。
一方的に不利な戦になる」
シュリはゆっくりと頷いた。
――やはり聡いお方だ。
母シリ譲りのその聡明さが、ユウを守りもするが、同時に苦しめてもいる。
「ゴロク様は、不利な戦と分かっていても戦う。モザ家のために」
「素晴らしい方です。信義を貫き、退くことを選ばない」
「・・・ゴロク様の決断は正しい。けれど・・・けれど!」
ユウの目から、涙が溢れた。
「母上は・・・どうするのかしら」
震えながら、ユウはその言葉を吐き出す。
「どうする・・・とは?」
シュリの声は、静かに掠れた。
「敗れたら・・・母上が、キヨの元へ行くとは思えない」
ユウの声は、痛みを伴っていた。
「女性には・・・命の補償があるので・・・」
シュリが一般的な常識を伝えようとしたその時、
「そんな道を・・・母上が選ぶとは思えない!」
ユウが叫んだ。
「ユウ様、どうか・・・落ち着いてください」
シュリはそっとユウに近づき、その肩を抱きしめた。
「・・・私は、大丈夫じゃない」
ユウは小さな声でつぶやいた。
その震えも、涙も、言葉も――
シュリはただ、そっと受け止めた。
「勝てば良いのです」
震えるユウを抱きしめながら、シュリはそっと呟いた。
その低く穏やかな声に、ユウは驚いたように顔を上げる。
不安げなその瞳を、シュリはやさしく、まっすぐに見つめ返した。
「争いは・・・何があるか、わかりません。机上の計算通りには、決していかない」
ユウは何も言わず、ただ頷いた。
その横顔に吹きかかるように、木々の香りを思わせるシュリの匂いが立ち上る。
抱き寄せられた胸元から、穏やかな心音が伝わってくる。
それはユウの荒れていた呼吸を、少しずつ落ち着かせてくれた。
「・・・ゴロク様を、信じましょう」
シュリの声は、いつもと変わらぬ静けさを保ちながら、どこまでも真っ直ぐだった。
「・・・そうね」
ユウは目を閉じ、シュリの胸元に額をそっと寄せた。
そのぬくもりが、今の彼女にとってのすべてだった。
それが永遠ではないと、どこかでわかっていても。
新章のタイトルは「終わりの始まり」。
穏やかだった時間は少しずつ崩れ、避けられない戦いと別れが迫ってきます。
けれど、その中でも光を見つけて歩んでいく人々を描いていきたいと思います。
今日もブックマークをつけてくれた方がいます。
励みになります。ありがとうございます。
ぜひ、次の展開にもお付き合いください。
次回ーー明日の9時20分
春――。
キヨは「シリの部屋」を描いた城を夢見、
ゴロクは「進発」の書状で応える。
友情か、忠義か。
揺れるノアのもとに届いたのは――『こちらに来い』。
戦の幕が、今上がる。
「春の争い 心を裂く」




