姫が選ぶのは誰か
ユウが歩くだけで、空気が揺れる。
本人が望まなくとも、多くの視線が彼女に吸い寄せられるのは、美貌のせいだけではない。
凛とした眼差し、揺れる若木のようにしなやかな歩き方──その一挙一動が、見る者の呼吸を奪っていた。
「さて・・・ユウ様は、フレッドかリオウか」
ゴロクは誰にともなく呟き、まっすぐに背筋を伸ばして歩くユウの後ろ姿を見つめた。
「・・・そうですね」
隣のシリが、小さく相槌を打つ。
ユウの歩みに、迷いはなかった。
フレッドとリオウが待つ右側ーーではなく、彼女はふいに左へと向きを変える。
その先にいるのは、シュリだった。
呆然と彼女を見つめるシュリ。
取り巻いていた少女たちは、彼女の気配に気づき、視線を背中に感じて振り返る。
目の前に立っていたのは、無表情のまま、静かに凛とした気配をまとった姫君だった。
「あ・・・」
フィルが思わず声を漏らす。
「・・・邪魔をするわ」
ユウが静かにそう告げると、フィルと少女たちは無意識のうちに身を引いた。
それは、ただ“姫だから”ではない。
触れたら火傷しそうなほどの熱と緊張を、彼女は纏っていた。
そのたった一歩が、場の熱をぐっと引き寄せる。
ユウは静かに、シュリの前へと歩み寄った。
そして、まっすぐに彼を見つめる。
「ユウ様・・・」
その声には戸惑いと、ほんのわずかな震えが混じっていた。
――相変わらず、美しい。
その青い瞳を見るたびに、
心の奥底に閉じ込めたはずの想いが、ふたを開けてあふれ出しそうになる。
ただ美しいだけではない。
その眼差しには、心を掴んで離さない毒のような強さがあった。
「どうされましたか・・・?」
掠れた声で問いかけるシュリに、ユウはわずかに顎を上げて言った。
「私と一緒に、踊ってもらえる?」
その一言に、シュリは息を呑んだ。
婚約者たちを差し置いて、使用人の自分にダンスを――?
信じがたい誘いに、胸が激しく高鳴る。
止めようとしても、頬は熱を帯び、瞳に熱がこもる。
けれど、口からこぼれた言葉は、想いとは裏腹だった。
「・・・踊れません」
その声は、わずかに震えていた。
必死に抑えても、切なさが滲み、表情が歪む。
ユウは表情を変えぬまま、首を少しだけ傾ける。
「どうして?」
その一言に、もしシリがその表情を見ていたら――
「ゼンシそっくり」と叫んでいたかもしれない。
それほどまでに冷静で、強く、美しい問いかけだった。
「・・・命を受けたのです」
シュリの視線が一瞬だけ、エマのほうへと揺れる。
「今日は、ユウ様に近づかないように・・・と」
「シュリ」
ユウの声が静かに重なる。
「あなたの任務は?」
「・・・ユウ様の乳母子です」
その答えに、ユウの瞳がすっと細くなる。
「それなら、あなたの主は?」
「・・・ユウ様です」
「私よりも、乳母の命令に従うの?」
ユウの顎が、さらにわずかに上がる。
その姿には威厳があった。
「・・・いいえ」
思わず、シュリは微笑んでいた。
それは無意識の反応だった。
「ならば」
ユウはすっと手を差し出す。
「私を、エスコートして」
その手のぬくもりに触れるように、シュリもまた手を伸ばす。
「・・・はい」
その瞬間、ふたりの世界だけが、そっと動き出した。
シュリがその手を取ったとき、広間のざわめきが静まり返った。
ユウの指はひどく冷たく、それが彼の胸を強く締めつける。
けれど拒まれているのではない。
張り詰めた静けさの中に、確かな想いがあった。
音楽が始まる。
音楽が静かに流れはじめ、広間の空気が一変した。
その中心に立つ二人――ユウとシュリ。
「・・・シュリ」
名前を呼ばれた気がして、彼はユウをそっと引き寄せた。
ユウの身体が、自分の腕の中に収まる――それだけで、世界が一変する。
フレッドは、片手に残ったグラスを見つめながら目を細めた。
ユウが誰かと踊る姿は見たことがある。
けれど、あんな顔は――。
「・・・あれが、本気の顔ってやつか」
口に出す言葉は悔しさが滲んでいた。
胸の奥がじん、と冷える。
だがリオウは違う感情でその光景を見ていた。
静かに、しかし鋭く、二人の間に流れる空気を測っていた。
シュリが、ユウをリードしている。
それ自体が、場違いなはずなのに――なぜか違和感がない。
むしろ、しっくりと“おさまって”しまっている。
「・・・使用人が、あんなふうに踊るとはな」
リオウは小さくつぶやく。
だが、それはシュリへの軽蔑ではない。
むしろ、痛みを伴った焦燥だった。
ユウの表情が、やわらかい。
誰とも違う笑みを、あの乳母子だけに見せている。
「彼女に、あんな顔をさせられるのは・・・あいつだけなのか」
言葉に出さずとも、その事実は突きつけられていた。
リオウの拳が、静かに握られた。
一方で、フレッドはもうグラスを空にしていた。
くしゃっと髪をかき上げながら、少しだけ笑う。
「なら、負ける気はない。戦いは、これからだろ?」
まるで自分に言い聞かせるように。
◇
ゴロクとシリは黙って、2人の様子を見ていた。
2人のダンスは、まるで、まるで愛の告白のようだった。
今まで見たことのないユウの顔だった。
――あの子は、恋をしている。
見つめるその瞳は、かつて自分も誰かを想ったときのように、愛おしさに満ちていた。
シリはそっと目を細める。
傍らのゴロクが、控えめに咳払いをした。
仲が良くても、相性が良くても、使用人のシュリは本来、相手にはなりえない。
それでも。
「・・・似合いのふたりだな」
気づけば、感嘆のように声が漏れていた。
やがて音楽が止まり、二人はそっと手を離した。
けれど見ていた者にとって、その一曲は――剣より雄弁な、想いの交差だった。
「私も、踊るわ」
シリはすっと立ち上がった。
戸惑うゴロクをよそに、椅子に座るウイとレイに声をかける。
「一緒に踊りましょう」
母の唐突な誘いに、ウイとレイは驚きつつも慌てて立ち上がり、その背を追う。
「ユウ!」
シリが笑顔で呼びかける。
「次は、私と踊りましょう!」
思いがけない言葉に、ユウは目を見開いた。
「さぁ!」
手をぐっと引かれ、そのままホールへと連れていかれる。
「あなたたちも!」
ウイとレイもおずおずとホールに出て、姉妹で向かい合う。
音楽が変わり、激しいテンポの曲が流れ始めた。
シリは目を輝かせて、軽やかにステップを踏む。
あの幼かったユウが、いつの間にか自分を見下ろすほどに成長している。
きっと近いうちに、大人としての覚悟を背負うだろう。
――けれど、今だけは。
今この一瞬だけは、まだ子供でいていい。
まだ、娘でいていい。
母娘は笑い声を上げながら、華やかに舞った。
その光景は、眩しいほどに美しく、広間の誰の目にも焼きついた。
――それは、後に語り継がれることとなる、短くも幸福な、奇跡のひとときだった。
だが、その輝きは、ほんの束の間だった。
舞の余韻が冷めぬうちに、静かに動き始める影があった。
キヨ──冷酷にして周到な男が、長き沈黙を破る。
彼の放った一手が、すべてを変える。
あの夜の舞は、戦の始まりを告げる“最後の祝宴”だったのかもしれない。
今日も多くの方に見て頂きありがとうございます。
そしてーーブックマーク、とても嬉しかったです。
ずっと連載を追ってくれる昔の読者様も、新たに発見してくれた読者様もよろしくお願いします。
次回ーー明日の9時20分
雪が解け、街道が開く。
それは、ただの季節の変わり目ではなかった。
「静養」という名の檻に閉じ込められたマサシ。
その報せに、ゴロクとシリはついに決意を固める。
封じる者と、抗う者。
やがて、静かな均衡は破られる。
「もう・・・好きにさせておけないわー戦の幕開けー」
⚫︎お知らせ⚫︎
本日、短編を公開しました。
タイトルは
『無口な領主ですが、初夜の翌日から姫に翻弄されています』
『秘密を抱えた政略結婚』のスピンオフで、無愛想な領主グユウ視点の甘めのお話です。
本編とは違う角度から、二人のすれ違いと仲直りの一幕を描いています。
よろしければこちらからご覧ください。
→ https://book1.adouzi.eu.org/N1000KZ/




