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ふたりだけの世界

ノルド城 見張り部屋


若い男女が、言葉もなく静かに抱き合っていた。

誰にも触れられない、小さな世界のように。


永遠にも思える沈黙のなかで、ユウの呼吸は次第に深く、ゆっくりになっていった。


雪が止み、春が来るように。


時は止まらない。


子供のままでいたいと願っても、大人になってしまう。


――このまま、時が止まってくれたら。


そんな思いが一瞬、シュリの胸をよぎった。


だが──


カタリ、と乾いた音がした。


何かがずれたような、動いたような微かな気配。


シュリはハッと顔を上げた。

けれど部屋には、ユウの穏やかな呼吸音しかない。


現実に戻されたような感覚に、思わず自分の腕を見下ろす。

ユウを抱いていた手が、急にぎこちなくなる。


感情のままに言葉をかけ、触れた自分を思い返して、顔が熱を帯びた。


「・・・すみません」


小さな声でそう呟き、シュリはそっとユウから身を離す。


その動きに合わせるように、ユウも少し肩を揺らした。


「母上のところへ・・・」

ユウがぽつりと呟く。


ーーきっと、花瓶のことを謝りに行くつもりなのだろう。


「ご一緒します」

シュリは微笑みながら応じた。


ふたりで部屋を出ようとしたその時──


再び、音がした。


かすかな気配。


空気が微かに揺れる。


シュリは反射的に振り返る。

しかし、見張り部屋の中はいつも通り。誰もいない。


ほんの少し、空間が「居心地悪く」感じた。


けれどユウが気づいている様子はない。


「・・・?」

疑問だけを胸にしまい込み、扉を静かに閉めた。



「申し訳ありませんでした」


深く頭を下げるユウの姿に、シリは一瞬言葉を失った。

その隣で、エマも思わず目を見張る。


――つい一時間前、怒声と共に花瓶を割った娘とは思えない。


今そこに立つのは、まるで嵐のあとに咲く、静かな花のようだった。


顔には、心の底から申し訳なさそうな色が浮かんでいた。


ーーこの子を、ここまで落ち着かせたのは。


シリは、ユウの後ろに控えていたシュリに目を向ける。


表情は淡々としているが、茶色の大きな瞳が、静かにユウを見守っていた。


「大丈夫、大丈夫よ」

シリはぎこちなく微笑む。


すると、シュリが小さな声で、恐る恐る口を開いた。


「・・・早く、お休みになられた方が」


シリが不思議そうな顔を向けると、シュリは言いにくそうに続ける。


「ユウ様は・・・こういうあと、眠りが必要になります。

まだ時間は早いのですが、早めに休まれた方がよろしいかと」


その言葉に、ヨシノも黙って頷いた。


あらためてユウの顔を見ると、確かに、あの強い瞳からは光が消えていた。


「ユウ、部屋に戻って」

そう声をかけると、ユウはまるで幼い子どものように、黙って頷いた。


ヨシノに付き添われ、ユウはゆっくりと部屋を出ていく。


戸が閉まると、静寂が戻ってきた。


「・・・眠ることで、心のバランスを保っていると思われます」

シュリがぽつりと補足し、深く頭を下げてその場を去ろうとする。


「シュリ、待って」

シリの声が、彼を呼び止めた。


「座って」

シリが静かに命じると、シュリは一瞬ためらい、恐る恐る腰をかけた。



シリのまなざしは、何かを見透かすような、独特のものだった。


その目で見つめられると、多くの者が跪き、心の奥底まで語りたくなる。


――ユウ様に、似ている。


やはり、親子なのだとシュリは思った。


けれど、ユウの眼差しの方が、もっと鋭い。

まるで心の奥を抉るような力がある。

それは、きっと実の父から受け継いだものだ。


「シュリ。あなたは、誰よりもユウの取り扱いが上手だわ」

シリは、静かにそう言った。


シュリは、黙ってうなずいた。


「あんなに心が乱れた後・・・どうやってユウを落ち着かせたの?」


その問いには、母としての切実な思いがにじんでいた。


けれど、シュリはすぐには答えられなかった。


――本当のことを、話すべきか。


・・・できない。


抱きしめて、胸に顔をうずめさせて、呼吸を整えさせた――


そんなこと、とても言えない。


それは、使用人の範疇を超えている。


シリの眼差しが、じっと胸の奥を覗き込むように注がれてくる。


並の者なら、もう白状していただろう。


だが、日頃からユウと対峙しているシュリには、多少の耐性があった。


ゆっくりと口を開く。


「・・・心が乱れた直後は、“ひとりじゃない”と声をかけて。

心の裡を吐き出されたときは、否定せず、ただ静かに受け止めています」


それは嘘ではない。

普段、自分がしていることのひとつだ。


シリの隣で、エマは無言のままシュリの言葉に耳を傾けていた。


その目は、言葉よりも深く、彼の背中に感謝と懸念を滲ませていた。


それを聞いていたシリの表情が、ほんの少しだけ曇ったように見えた。


ーーシュリの語ったことは、あくまで一般的な対応だった。


けれど、それは誰にでもできることではない。


同じようにしようと試みても、真似など到底できぬ。


どうしたらよいのだろう――


シリとエマは、思わず視線を交わした。


そのとき、シュリが言葉を継いだ。


「けれど・・・」

その声に、シリは再び顔を向けた。


「今日は、泣き叫ぶこともせず、自分の心を取り戻しました。・・・少しずつ、落ち着いていかれるかもしれません」


その一言に、シリとエマの表情に、かすかな希望が宿る。


「・・・そうなのね」


「はい」


「シュリ、いつもありがとう」

シリは感謝を込めて、まっすぐ彼を見つめた。


「いえ・・・」

シュリは短く答え、そっと目を伏せる。


胸の内に、言葉にできない感情が渦巻く。


主の娘に向けた思いが、忠誠と越えてはならぬ一線を、曖昧に染めていく――。


――ユウに抱いている想いに、言いようのない罪悪感が胸をかすめた。


やがてシュリが部屋を辞すと、シリは深く息を吐いた。


「・・・他の者に、シュリの代わりは務まらないわ」

ぽつりと、独り言のように呟く。


「ユウ様がご結婚されたとしても・・・あのような関係性だと・・・」

エマが、ためらいがちに言葉を紡ぐ。


「そうね。ユウが、リオウやフレッドに心を許せば・・・」

シリはそう答えながら、眉根を寄せた。


――果たして、あの二人にできるのだろうか。

ユウの繊細な心を、扱えるのか。


不安が、静かに胸を満たしていく。


「とにかく、婚礼に向けて進めなければならない」

シリは自分に言い聞かせるように話す。


「・・・はい」

エマの声には、かすかな切なさがにじんでいた。


「エマ、考えがあるの」

沈黙のあと、シリがふっと視線を上げて言った。


シリの目には、母としての憂いと、妃としての決意が宿っていた。



どこから作品にたどり着いてくださったのか・・・本当にありがとうございます。

175話を超えて、初めて感想をいただきました。(涙)とても嬉しいです。

ブックマークも入りました。励みになります。


読んでくださる方がいて、言葉を届けてくださる方がいる。

そのことに、心から感謝しています。


また、シリとグユウの短編も書きました。

もしよろしければ、そちらもお楽しみいただけたら嬉しいです。



次回ーー本日の20時20分  


「私は、あなたたちを大切に思っています」

その言葉は、優しさと共に、静かな別れの鐘を告げていた。


「さよならを言わない別れ 〜同じ男に抱かれた女たち〜」


短編を更新しました。


===================

内容は――グユウ視点で描いた、シリとの出会いから初夜までの物語です。

無口で不器用な領主グユウと、美しすぎる姫シリ。

二人が少しずつ惹かれていく過程を、不器用な彼の目線で追っています。


もしご興味がありましたら、こちらからどうぞ。

→ 『結婚に向いていない領主ですが、美しすぎる姫が嫁いできました』


https://book1.adouzi.eu.org/n6998ky/


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