ふたりだけの世界
ノルド城 見張り部屋
若い男女が、言葉もなく静かに抱き合っていた。
誰にも触れられない、小さな世界のように。
永遠にも思える沈黙のなかで、ユウの呼吸は次第に深く、ゆっくりになっていった。
雪が止み、春が来るように。
時は止まらない。
子供のままでいたいと願っても、大人になってしまう。
――このまま、時が止まってくれたら。
そんな思いが一瞬、シュリの胸をよぎった。
だが──
カタリ、と乾いた音がした。
何かがずれたような、動いたような微かな気配。
シュリはハッと顔を上げた。
けれど部屋には、ユウの穏やかな呼吸音しかない。
現実に戻されたような感覚に、思わず自分の腕を見下ろす。
ユウを抱いていた手が、急にぎこちなくなる。
感情のままに言葉をかけ、触れた自分を思い返して、顔が熱を帯びた。
「・・・すみません」
小さな声でそう呟き、シュリはそっとユウから身を離す。
その動きに合わせるように、ユウも少し肩を揺らした。
「母上のところへ・・・」
ユウがぽつりと呟く。
ーーきっと、花瓶のことを謝りに行くつもりなのだろう。
「ご一緒します」
シュリは微笑みながら応じた。
ふたりで部屋を出ようとしたその時──
再び、音がした。
かすかな気配。
空気が微かに揺れる。
シュリは反射的に振り返る。
しかし、見張り部屋の中はいつも通り。誰もいない。
ほんの少し、空間が「居心地悪く」感じた。
けれどユウが気づいている様子はない。
「・・・?」
疑問だけを胸にしまい込み、扉を静かに閉めた。
◇
「申し訳ありませんでした」
深く頭を下げるユウの姿に、シリは一瞬言葉を失った。
その隣で、エマも思わず目を見張る。
――つい一時間前、怒声と共に花瓶を割った娘とは思えない。
今そこに立つのは、まるで嵐のあとに咲く、静かな花のようだった。
顔には、心の底から申し訳なさそうな色が浮かんでいた。
ーーこの子を、ここまで落ち着かせたのは。
シリは、ユウの後ろに控えていたシュリに目を向ける。
表情は淡々としているが、茶色の大きな瞳が、静かにユウを見守っていた。
「大丈夫、大丈夫よ」
シリはぎこちなく微笑む。
すると、シュリが小さな声で、恐る恐る口を開いた。
「・・・早く、お休みになられた方が」
シリが不思議そうな顔を向けると、シュリは言いにくそうに続ける。
「ユウ様は・・・こういうあと、眠りが必要になります。
まだ時間は早いのですが、早めに休まれた方がよろしいかと」
その言葉に、ヨシノも黙って頷いた。
あらためてユウの顔を見ると、確かに、あの強い瞳からは光が消えていた。
「ユウ、部屋に戻って」
そう声をかけると、ユウはまるで幼い子どものように、黙って頷いた。
ヨシノに付き添われ、ユウはゆっくりと部屋を出ていく。
戸が閉まると、静寂が戻ってきた。
「・・・眠ることで、心のバランスを保っていると思われます」
シュリがぽつりと補足し、深く頭を下げてその場を去ろうとする。
「シュリ、待って」
シリの声が、彼を呼び止めた。
「座って」
シリが静かに命じると、シュリは一瞬ためらい、恐る恐る腰をかけた。
シリのまなざしは、何かを見透かすような、独特のものだった。
その目で見つめられると、多くの者が跪き、心の奥底まで語りたくなる。
――ユウ様に、似ている。
やはり、親子なのだとシュリは思った。
けれど、ユウの眼差しの方が、もっと鋭い。
まるで心の奥を抉るような力がある。
それは、きっと実の父から受け継いだものだ。
「シュリ。あなたは、誰よりもユウの取り扱いが上手だわ」
シリは、静かにそう言った。
シュリは、黙ってうなずいた。
「あんなに心が乱れた後・・・どうやってユウを落ち着かせたの?」
その問いには、母としての切実な思いがにじんでいた。
けれど、シュリはすぐには答えられなかった。
――本当のことを、話すべきか。
・・・できない。
抱きしめて、胸に顔をうずめさせて、呼吸を整えさせた――
そんなこと、とても言えない。
それは、使用人の範疇を超えている。
シリの眼差しが、じっと胸の奥を覗き込むように注がれてくる。
並の者なら、もう白状していただろう。
だが、日頃からユウと対峙しているシュリには、多少の耐性があった。
ゆっくりと口を開く。
「・・・心が乱れた直後は、“ひとりじゃない”と声をかけて。
心の裡を吐き出されたときは、否定せず、ただ静かに受け止めています」
それは嘘ではない。
普段、自分がしていることのひとつだ。
シリの隣で、エマは無言のままシュリの言葉に耳を傾けていた。
その目は、言葉よりも深く、彼の背中に感謝と懸念を滲ませていた。
それを聞いていたシリの表情が、ほんの少しだけ曇ったように見えた。
ーーシュリの語ったことは、あくまで一般的な対応だった。
けれど、それは誰にでもできることではない。
同じようにしようと試みても、真似など到底できぬ。
どうしたらよいのだろう――
シリとエマは、思わず視線を交わした。
そのとき、シュリが言葉を継いだ。
「けれど・・・」
その声に、シリは再び顔を向けた。
「今日は、泣き叫ぶこともせず、自分の心を取り戻しました。・・・少しずつ、落ち着いていかれるかもしれません」
その一言に、シリとエマの表情に、かすかな希望が宿る。
「・・・そうなのね」
「はい」
「シュリ、いつもありがとう」
シリは感謝を込めて、まっすぐ彼を見つめた。
「いえ・・・」
シュリは短く答え、そっと目を伏せる。
胸の内に、言葉にできない感情が渦巻く。
主の娘に向けた思いが、忠誠と越えてはならぬ一線を、曖昧に染めていく――。
――ユウに抱いている想いに、言いようのない罪悪感が胸をかすめた。
やがてシュリが部屋を辞すと、シリは深く息を吐いた。
「・・・他の者に、シュリの代わりは務まらないわ」
ぽつりと、独り言のように呟く。
「ユウ様がご結婚されたとしても・・・あのような関係性だと・・・」
エマが、ためらいがちに言葉を紡ぐ。
「そうね。ユウが、リオウやフレッドに心を許せば・・・」
シリはそう答えながら、眉根を寄せた。
――果たして、あの二人にできるのだろうか。
ユウの繊細な心を、扱えるのか。
不安が、静かに胸を満たしていく。
「とにかく、婚礼に向けて進めなければならない」
シリは自分に言い聞かせるように話す。
「・・・はい」
エマの声には、かすかな切なさがにじんでいた。
「エマ、考えがあるの」
沈黙のあと、シリがふっと視線を上げて言った。
シリの目には、母としての憂いと、妃としての決意が宿っていた。
どこから作品にたどり着いてくださったのか・・・本当にありがとうございます。
175話を超えて、初めて感想をいただきました。(涙)とても嬉しいです。
ブックマークも入りました。励みになります。
読んでくださる方がいて、言葉を届けてくださる方がいる。
そのことに、心から感謝しています。
また、シリとグユウの短編も書きました。
もしよろしければ、そちらもお楽しみいただけたら嬉しいです。
次回ーー本日の20時20分
「私は、あなたたちを大切に思っています」
その言葉は、優しさと共に、静かな別れの鐘を告げていた。
「さよならを言わない別れ 〜同じ男に抱かれた女たち〜」
短編を更新しました。
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内容は――グユウ視点で描いた、シリとの出会いから初夜までの物語です。
無口で不器用な領主グユウと、美しすぎる姫シリ。
二人が少しずつ惹かれていく過程を、不器用な彼の目線で追っています。
もしご興味がありましたら、こちらからどうぞ。
→ 『結婚に向いていない領主ですが、美しすぎる姫が嫁いできました』
https://book1.adouzi.eu.org/n6998ky/




