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そのままのあなたが好き

床に散った花びらと、砕けた陶器の破片が、冬の光を鋭く反射していた


部屋には、重い沈黙が降りた。


呆然と、その場を見つめていたシリは、やがて小さく息を吸う。


――あの振る舞い。まるで兄ゼンシのよう。


ユウとゼンシの影が重なる。


ゼンシは感情が昂ると、目の前のものを壊す癖があった。


燭台、茶器、書簡、棚の品々・・・。


思うままに、放り投げ、踏み潰し、粉々にしていく。


そして、その度に部屋の空気は凍りつき、周囲の人々は言葉を失った。


彼の周囲にいた人間は、いつ怒りの発作が出るか、常にビクビクしていた。


あの時と似たような光景が、今、目の前で起きたのだ。


「・・・怪我はない?」

シリは、そっとヨシノとエマに尋ねた。


「はい・・・」

ヨシノが震える声で答える。


「女中を呼んでまいります」

気を取り直したように、ヨシノがその場を離れる。


ーーきっと、私とエマを二人にするため。


気の利く乳母だ、とシリは思った。


「シリ様・・・」

エマがそっと呼びかける。声は心許ない。


「感情が昂ると、物に当たるようになったのね」

シリは静かに呟いた。


「・・・そのうち、人に向かなければいいけれど」

思わず漏れた本音に、すぐ慌てて付け加える。


「ユウは兄とは違う。あんな風にはならない」

そう言い聞かせるように、自分に重ねるように。


「・・・あの乱れ、どうすれば」

エマの声は切実だった。


心から、あの姫の苦しみに寄り添おうとしている。


「シュリがいれば、大丈夫よ」

シリの瞳が窓辺へ向く。


「彼は、ユウの感情を誰よりも理解している。・・・あとで、彼に訊きましょう。

どうすれば、あの子の心が落ち着くのか」


「・・・このような状態で、本当に婚礼を進めるのですか?」

エマの問いには、理があり、そして情もあった。


「進めるしかないのよ」

シリは、淡々とした声で答える。


「ゴロクは言っていた。ユウには、人の上に立つ器があると」


「婿を迎える形ならば、家臣たちも納得する。・・・あの子がシズルを継ぐなら、ここで婚礼を迎えるのが一番いい。他領に嫁がせることは、考えられない」


窓の向こうに、まだ雪を抱えた庭が広がる。


「予定通り、婚礼を進めましょう」


「・・・はい」

エマは深く頷いたが、その目には迷いが宿っていた。


「・・・あの子には、乗り越えてもらわなければならない。――姫なのだから」



「ユウ様!」


シュリは、息を切らしながら叫んだ。


――こんなとき、声をかけてもユウは振り返らない。

それは、もう何度も経験して知っていた。


けれど、それでも呼び続けるしかない。

呼びかけなければ、彼女は感情のままに、どこまでも遠くへ行ってしまう。


彼女をつなぎ止める唯一の術が、「ユウ様」という名を呼ぶことだった。


ユウは、ものすごい勢いで走っていく。

シュリはその背を追い、必死に足を動かす。


廊下にいた侍女や女中たちは、姫とその従者の姿に驚き、思わず足を止める。


ふたりは疾風のように駆け抜け、階段を一気に駆け上がる。


ユウがたどり着いたのは、見張り台の部屋――


重い扉を開けると、そこには静寂が広がっていた。


一見、誰もいないように思えたその部屋で、ユウは床にしゃがみ込み、肩を震わせていた。


小さく、細く、まるで傷を負った獣のように。


「ユウ様・・・」


シュリは戸口で立ち止まり、一瞬だけ迷った。


そして静かにそばへ歩み寄り、そっとその背に手を添える。


その指先には、ただ一つの想いがこもっていた。


――落ち着いて。大丈夫。


しばらくして、硬い床に涙の雫が一つ、ぽたりと落ちた。


「・・・同じ」


耳を澄まさねば聞こえぬほどの声。

シュリはそっと問いかける。


「何が、ですか?」


「・・・あんなことをするなんて・・・止められなかった・・・」

かすれるような声。


それだけで、あの花瓶を割ったことを、シュリは悟った。


次の瞬間、ユウが顔を上げ、まっすぐにシュリを見た。


その目は涙に濡れていても、美しかった。

けれど、その瞳の奥には激しい怒りが宿っていた。


「まるで、あの人と一緒じゃない・・・」


「・・・大丈夫です」


「何がよ? 私にはあの人の血が流れている。濃く、濃く!」

ユウは叫ぶように言った。


「・・・私も、あの人のようになるのかもしれない・・・」


「そんなことは、ありません」


「父上との子供として産まれていたら・・・きっと、もっと普通だった」

再び涙が頬を伝う。



その姿がたまらなくなり、シュリは静かにユウを抱きしめた。


「・・・ユウ様には、私がいます」

ユウの耳元で囁く。


「・・・シュリがいたって、何になるの・・・?」

ユウの声は頑なだった。


シュリは少しだけ腕の力を緩めて、彼女の顔を覗き込む。


「ゼンシ様には、私のような存在はいませんでした。

だから、あの方は孤独だった。だけど――ユウ様には、私がいる」

その目には、どこまでも真っすぐな想いがこもっていた。


ユウはその言葉に、また涙をこぼす。

それなのに、胸の奥は温かくなる。


「・・・私、母上と父上の子供だったらよかったのに・・・」


ずっと胸に抱えていたその苦悩を、ようやく口にする。


「ウイとレイが羨ましい。私も・・・あんな風になりたい」ユウは静かに涙を流す。


「けれど、それなら――今のユウ様ではない」



「・・・どういうこと?」


「シリ様と・・・あの方の子だからこそ、今のユウ様がある。だから――」


シュリは一瞬だけ目を伏せた。


けれど、すぐに視線を戻す。


「私は・・・今のユウ様を、大切に想っています。立場を越えて、ずっと」


シュリの声はわずかに震えていて、それを隠すように深く息を吸った。



ユウは目を見開く。


「・・・大切に?」


――立場を越えて。


その言葉が、胸の奥でやさしく震える。


愛ではない、と言われたほうがよほど楽だった。


けれど、シュリが今、確かにそう言った。


「好き」と言わずに、でも、それよりも強く。


シュリは一瞬だけ視線を逸らし、それから静かに微笑んだ。


「はい。だから、今のままで、いいんです」


その言葉は、主への忠誠とも、恋慕ともつかない曖昧さを帯びていた。


だがユウの胸には、確かに届いた。


「・・・今の私で、いいの?」


「はい」


「感情が乱れていても?」


「はい」


「物に当たっても?」


「・・・はい。でも次は止めます」

シュリは少しだけ眉毛を下げた。


ユウも、わずかに笑ったようだった。


そのまま、彼の胸に顔をうずめる。


聞こえてくる心音が、次第に彼女の呼吸を整えていく。


――この心音に、何度救われただろう。


怒りや悲しみを爆発させずに済んだのは、初めてだった。



・・・落ち着いた呼吸のなかで、ユウはふと現実に引き戻された。


「・・・私、あの二人のうちのどちらかと結婚しなければならない」


背中を撫でていた、シュリの手が一瞬だけ止まる。


けれど、すぐにまた動き始める。


どこかぎこちなく。


「・・・それでも、あなたは傍にいるの?」

問いかけるような、試すような声。


シュリはゆっくりとうなずく。


「私は乳母子です。ユウ様が望む限り、傍におります」


その言葉に、ユウは静かに目を閉じた。


――たとえ、愛していない人と結ばれたとしても。


それでも、自分を見ていてくれる存在が、ここにいる。


「シュリだけだわ。・・・私のままで、いていいって言ってくれるのは」

ユウは目を閉じたまま、つぶやく。


その声は甘く穏やかだった。


「・・・そうかもしれませんね」

シュリは言葉にできない分、愛おしげにユウを抱きしめた。


ーーあなたがどんなに怒っても、泣いても。


私は、あなたのすべてが好きなのです。


そう心の中で告げた。


次回ーー明日の9時20分


見張り部屋で交わされた抱擁は、誰にも触れられない秘密だった。

だが、その静けさを裂くように、婚礼の足音は近づいていた――。


「二人だけの世界」


ーーーー

短編を更新しました。

内容は――グユウ視点で描いた、シリとの出会いから初夜までの物語です。

無口で不器用な領主グユウと、美しすぎる姫シリ。

二人が少しずつ惹かれていく過程を、不器用な彼の目線で追っています。


もしご興味がありましたら、こちらからどうぞ。

→ 『結婚に向いていない領主ですが、美しすぎる姫が嫁いできました』


https://book1.adouzi.eu.org/n6998ky/


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