選ばなければならない未来
その朝、ゴロクは家臣たちを前に、静かに告げた。
「争いの準備を一時停止する」
「争いは・・・やめられるのですか?」
重臣ジャックが困惑の表情を浮かべる。
「・・・今のところは、だ。これからキヨと交渉を進める」
「承知しました」
マナトが頷いた。
この報告に、誰よりも安堵したのはノアだった。
――これで、キヨと戦わずに済む。
冬のあいだ、尊敬する領主ゴロクと親友キヨとの狭間に立ってきたノアの苦悩は、
言葉に尽くせないものだった。
――助かった。今日は早く帰って、マリーに報告しよう。
ノアは深く、静かに肩の力を抜いた。
◇
シリからも、女性陣に争い回避の知らせが伝えられた。
「針も干し肉も、包帯の準備もしないなんて・・・」
レイがぽつりと呟く。
これまで必死で進めてきた戦支度が、突然不要になった。
「何をすればいいのかしら・・・」
ぽつりと漏れるレイの声に、ウイは刺繍の針を止め、やわらかく微笑む。
「そうね・・・」
ユウは、遠くを見つめたまま黙っていた。
――あまりに急な転換。
その裏に、ジュンの影を感じていた。
母とゴロクが何かを決意したのだと、ユウにはわかっていた。
そのやりとりを、シュリは黙って見守っていた。
◇
午後になり、エマが部屋へ入ってくる。
「ユウ様。シリ様がお呼びです」
その顔には、どこか張りつめた気配がある。
「ヨシノ、シュリ。あなたたちも、と」
エマの言葉に、ユウの胸が静かにざわめいた。
――この二人も呼ばれるということは、きっと・・・。
争いが止まるのなら、次に問われるのは自分の未来だ。
俯いたまま、ユウは囁くように言った。
「すぐに伺います」
◇
シリの私室に入ると、穏やかな空気が満ちていた。
「ユウ、座って」
促されて椅子に腰掛けると、ヨシノとシュリが静かに背後に控える。
「今日は、あなたの気持ちを聞かせてほしいの」
シリの声はやわらかく、けれどどこか決意をはらんでいた。
「リオウとフレッド。どちらと結婚するか、決めた?」
ユウは唇を噛んだまま、ゆっくりと首を振った。
「なるべく早くに決めてほしいの」
「・・・母上、どうして?」
揺れる瞳でユウは問う。
――まだ決めたくない。今は、誰の手も取れない。
「それはね・・・あなたの婚礼を、九月に行おうとゴロクと決めたからよ」
ユウは目を見開いた。
「九月って・・・あと七ヶ月しかない・・・!」
後ろにいたヨシノとシュリも、息を呑む。
「争いが収まった今、次に整えるべきは、この領の未来よ。あなたの婚礼は、その大事な礎になるわ」
シリは答える。
ユウの瞳が急速に色を失っていく。
「あなたは嫁がない。婿を迎える形だから、嫁入り道具は要らないけれど、
婚礼衣装は仕立てないといけない。今から準備を始めないと間に合わないの」
「どうして・・・そんなに急ぐの?」
エマがやわらかく口を添える。
「14歳での婚礼は、珍しいことではありません」
「それは・・・わかってる。でも・・・」
シリは一瞬言い淀んだ後、静かに語った。
「ゴロクが高齢だからよ」
「・・・!」
わかっていた。
ゴロクが年老いていることも、いつか代替わりが来ることも。
でもそれが、こんなに早く訪れるとは思っていなかった。
「ゴロクは、今も元気。でも、永遠じゃない」
シリは静かに続ける。
「だからこそ、婿となる相手には早めに“領主の器”を知ってもらわなくてはならないの」
ユウの胸が、ぎゅっと締めつけられる。
「リオウはかつて領主の子だったけれど、幼い頃に家を失った。
フレッドは重臣の家柄だけど、領主とはまた違う」
「だから、婚礼までのあいだに教育を施す必要がある」
部屋に、重たい沈黙が降りる。
ユウの顔に、深い陰りが差していた。
それを見たシリは、静かに息をついた。
「・・・少し、ユウと二人にさせてもらえるかしら」
エマ、ヨシノとシュリが、黙って部屋を出ていく。
ユウは、母と二人きりになった部屋で、ゆっくりと口を開いた。
「・・・本当に、決めなければならないの?」
その問いに、シリはやさしく頷いた。
ユウは俯いたまま、震える声で問いかけた。
「・・・ゴロク様と母上は、リオウとフレッド・・・どちらが相応しいと?」
シリは少し目を細めて、気まずそうに笑った。
「それがね、どちらも悪くないのよ。礼儀正しくて、人柄もいい。ただ――決め手に欠けるの」
「・・・決め手」
「だからこそ、ユウ。あなたの気持ちが一番大事なの」
ーー私の時代は、選ぶことすら許されなかった。
それがどれほど心を縛るものだったか、今でも覚えている。
だからこそ、娘には・・・選ばせてやりたい。
それは、姫としてはとても恵まれた言葉だった。
顔も知らない男に嫁がされることが常のこの時代、自分で相手を選べるなど、夢のような話。
けれど、目の前の娘はまるで罰を言い渡されたかのような顔をしている。
――選べることが、かえって苦しみになることもあるのだろうか。
シリはふと、若き日の自分を思い出した。
「選べない・・・。どちらも悪い人じゃない。だけど・・・」
ユウの声が震えた。
「でも、選ばなきゃいけないのよね」
「ええ。できれば、二週間後には決めてほしい」
その言葉に、ユウはぐっと唇を噛みしめた。
見えない力が、肩に重くのしかかっている。
そんな娘の姿に、シリはそっと問いかけた。
「ユウ・・・誰か、心に決めた人がいるの?」
ユウの瞳が、わずかに揺れる。
――いる。
いつも傍にいて、自分を守ってくれるあの人。
けれど、その名前を口にすることはできなかった。
言えばきっと、母を困らせてしまう。
叶わないことを知っているからこそ、今さら言うべきではない。
ユウは静かに顎を上げ、少しだけ視線を逸らして言った。
「・・・そういう人はいません」
「・・・そう」
シリは小さく頷いた。
けれど、心の中ではため息をついていた。
――この子は、シュリ以外には決して心の裡を明かさないのね。
「・・・失礼します」
ユウは深く頭を下げ、踵を返して部屋を出ようとした。
扉を開けると、エマ、ヨシノ、そしてシュリが心配そうに立っている。
赤くなった鼻。
今にも涙があふれそうな瞳。
顔を見られまいと、ユウはふと横を向いた。
そこで目に入ったのは、台座の上に置かれた花瓶だった。
控えめに咲いた、小さな赤い花がいけてある。
次の瞬間、ユウの胸の奥に何かが疼いた。
自分では、変えることのない運命の動き、抵抗できぬまま流されることの苦しみ。
考える前に手が動いた。
気がついた時は、衝動的に、花瓶を手で払っていた。
陶器が床に叩きつけられ、鋭い音を立てて砕ける。
花と水が飛び散り、静寂な廊下に冷たい空気が広がる。
「ユウ!」
シリの絶叫が室内から響いた。
ユウは一言も発せず、その場を駆け出した。
背後で、水音だけが、静かに滴っていた。
シュリは動かず、黙ってその様子を見つめていた。
ーー彼女の怒りも、悲しみも、自分にはどうすることもできない。
彼女の感情が乱れる理由を知っていて、知らないふりをする。
それが、何より辛かった。
そして、何も言わず、その背中を追いかけた。
次回ーー本日の20時20分
ユウを縛るものは血か、それとも未来か。
次に問われるのは、彼女の覚悟だった。
「そのままのあなたが好き」
お陰様で11万1千PV突破しました↓
===================
この物語は続編です。前編はこちら ▶︎ https://book1.adouzi.eu.org/n2799jo/
兄の命で政略結婚させられた姫・シリと、無愛想な夫・グユウ。
すれ違いから始まったふたりの関係は、やがて切なくも温かな愛へと変わっていく――
そんな物語です。
=================




