あなたに、もう泣いてほしくない
シリの案内を受けて、ジュンはノルド城へと足を踏み入れた。
厚い雪に耐える石造りの城。
高い天井を見上げて、思わず口を開いた。
「・・・立派な城ですな」
「この地は雪が多いのでな。頑丈に作らねば、雪に潰れてしまう」
ゴロクが穏やかに応じる。
ジュンの目が、廊下に無造作に積まれた兵の布団、慌ただしく行き交う女中たちに向けられる。
広間の奥には多くの人の気配があり、城内は異様なほど活気づいていた。
「城の方々は・・・何かされているのですか?」
「ちょっとした準備です」
シリは微笑むが、その答えは曖昧だった。
ーー準備。それは戦の準備に違いない。
先ほど見かけた落とし穴。
冬の最中とは思えぬ熱気。
ジュンは後ろに控えていた家臣・マサに、そっと目配せをした。
ーー間違いない。争いの支度だ。
「ご無礼を承知の上でまかり越しました。
どうしても・・・お二人にお伝えしたいことがありまして」
応接の間へと通され、ひととき形式的な挨拶が交わされた後、ジュンはゆっくりと口を開いた。
「――ようやく世は、ゼンシ様の死から立ち直り始めております。
ですが、今ここで争いが起これば、ようやく芽吹いた民の心も、たちまち吹き飛んでしまう」
ゴロクは無言で、静かに耳を傾けていた。
やがて、シリがそっと視線を上げる。
「ジュン様・・・それは、我らに剣を収めよということでしょうか」
「その通りです。私は、ゴロク殿の義を疑う者ではありません。
しかし、この先にあるのは消耗。そして、未来への禍根です」
その言葉に、ゴロクが重く口を開いた。
「キヨを見逃せば、モザ家の名は潰れる。それでも・・・止まれというのか」
ジュンは一瞬、目を伏せた。
だが次の瞬間、真っ直ぐに顔を上げた。
「――ゼンシ様の名を残すこと。それこそが、争いよりも重いと、私は考えております」
部屋に沈黙が落ちた。
窓の外では、淡く舞う雪が静かに空を覆っていた。
やがて、シリが両手を組み、そっと言葉を継いだ。
「・・・ジュン様。私も、本当は戦など望んでおりません。
けれど・・・キヨの振る舞いには、もう耐えられないのです」
「キヨ殿は、狡猾です。私のもとにも、調略めいた手紙が届いています。
モザ家の家中争い――多くの領主が、いま不安に駆られております。争いは、損にしかなりません」
ゴロクの視線が揺れた。
「挑発に乗らず、耐えて、ただ時が過ぎるのを待つ。
・・・それが、最も険しくとも、道を切り開く手ではありませんか」
ジュンの声には熱がこもっていた。
シリがふと目を細めた。
彼がこれほどの言葉を、なぜ、今ここで投げかけてくるのか。
「・・・ジュン殿。なぜ、そこまでして?」
ジュンはゼンシと同盟を組んでいたが、臣下ではない。
モザ家の争いには関わらない一領主だ。
峠は雪に閉ざされている。
街道も封鎖され、ここに辿り着くのは命がけだったはずだ。
ジュンは、静かに目を伏せた。
「・・・もう、シリ様には悲しい思いをさせたくないのです」
顔を上げたジュンの眼差しは、まっすぐで、澄んでいた。
「グユウ殿を失われて、ようやく落ち着かれたではありませんか。
姫様のためにも・・・争いは、避けるべきです」
その言葉に、シリは胸を突かれたように目を伏せた。
ーーそうだ。私たちは、ずっと前ばかりを見ていた。
でも・・・ユウも、ウイも、レイも――娘たちは、私の手の中にいる。
ーー守らねばならない。
戦で何かを得る前に、まず、失わぬように。
「・・・ジュン様。ありがとう」
「・・・いえ。少しでもお気持ちが和らげば、来た甲斐がありました」
「今夜はゆっくりお過ごしください。夕餉の支度も、すぐ整います」
ゴロクがようやく頷いた。
◇
夕餉の席。
温かな灯のもと、湯気の立つ料理と赤いワインが静かに卓を彩っていた。
ジュンは杯を傾けながら、ふと思い出したように口を開いた。
「・・・あの、使用人のことですが」
使用人ーーシュリのことだと、二人にはすぐに伝わった。
「ジュン様、来て早々・・・本当に申し訳ありませんでした」
シリが頭を下げる。
「誠に、無礼をいたしました」
ゴロクも深く頭を垂れた。
客人に剣を向けるなど、本来であれば決して許されぬ非礼だ。
ましてや、それが自分たちの大切な家臣であればなおさら、胸が痛んだ。
だが、ジュンは軽く首を振った。
「構いません。むしろ、見事な腕前でした」
そう言って微笑む彼の声には、驚きや怒りではなく、純粋な感嘆が滲んでいた。
「もし・・・このまま使用人として仕うつもりであれば、私が引き取ってもかまわぬとすら思っております」
その言葉に、背後に控えていた家臣・マサがうなずき、口を添える。
「誠に。あの年頃であれほどの剣捌き、敵意を向けた相手に臆さず剣を突きつける胆力。
いずれ必ずや、立派な家臣になりますぞ」
ジュンも杯を置き、しみじみと口にする。
「欲しい。西領でも欲しい人材ですな」
シリは、すまなそうに笑んだ。
「そのように言っていただけるのはありがたいのですが・・・」
続く言葉を、ゴロクが引き取る。
「我らも彼に、重臣としての道を勧めました。
剣だけでなく、心構えも申し分ない。だが、彼は選ばなかったのです」
「・・・なぜです?」
ジュンの目が、驚きと興味にわずかに見開かれる。
「彼は、“乳母子”としての道を望みました。・・・ユウを守るために」
ジュンの手が止まる。
ワイングラスを見つめたまま、信じがたいように言葉を繋いだ。
「乳母子? 姫の乳母子に、男を・・・?」
「なぜ・・・そのようなことを」
マサも声を漏らす。
シリは少し目を伏せたあと、静かに語った。
「それは・・・亡き夫、グユウの意向です」
その名が出たとき、室内に少しだけ空気の張りが走った。
ジュンは、昼間に見かけたユウの姿を思い返す。
ーーまだ若い娘だというのに、あの静かな佇まい。
どこか人を惹きつける何かを宿した眼差し。
「・・・ユウ様は、シリ様に瓜二つ。しかし、何かが違う。
強さと気高さが、あの年齢であれほどに・・・。只者ではない」
低く呟くような声。
ジュンの分析に、シリもゴロクも否定はしなかった。
むしろ、どこか誇らしげなようにも見える。
「グユウ様が男の乳母子を選んだのは・・・ユウ様を“守る”ためだったのでしょうな」
誰に向けたでもないその言葉に、シリは小さく息を吐く。
ーーこの客人は、やはりただ者ではない。
まだ到着して数時間。
娘とも一言、二言交わしただけで、ここまで見抜いてくる。
ーーあのゼンシすら一目置いた男。
西の辺境にあっても、世を見通す眼は曇っていない。
シリは静かに杯を持ち上げ、ジュンの方を見た。
――この人のような者こそ、世の潮を変えるのだろう。
剣ではなく、言葉と眼で。
・・・けれど、それが“味方”であるうちに済めば良いのだが。
次回ーー明日の9時20分
「・・・その“欲張り”を、貫いてみたいの」
シリの願いに、ゴロクが頷く。
戦か、穏やかな暮らしか――決断の夜が、静かに更けていく。
「欲張りな夜」
◇お知らせ◇
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