そばにいるという選択〜私たちの距離が変わるとき〜
その日の夕食は、久しぶりに穏やかで、あたたかな空気に包まれていた。
「今日は、お腹が空いたの」
ユウが微笑みながら、柔らかな鶏肉を口に運ぶ。
頬に少し赤みが差し、瞳には輝きと活気が宿っている。
金色の髪がランプの光を受けてきらめき、その髪には――青いリボンが結ばれていた。
白百合の刺繍がふと揺れた瞬間、部屋の空気がわずかに変わった気がした。
ユウが部屋に入ってきた瞬間、ウイの胸に小さな喜びがこみ上げた。
ーー姉上が笑っている。
この青いリボンが、その笑顔を連れ戻してくれたのかもしれない。
良かった・・・。
ウイはそっとシュリに目を向ける。
気づいたシュリは、少し頬を染めながら無言でうなずき、礼をした。
ーーどんなふうに、渡したんだろう。
聞きたい気持ちはあったが、嬉しそうに食事をとる姉の姿を見て、それ以上を問う必要はないと感じた。
ーー姉上は太陽のようなお人。
その美しすぎる容姿と気高い人柄が多くの人を虜にする。
ユウが笑うと、その場の空気が華やかになる。
逆に気持ちが沈むと、その周辺も暗く澱む。
良くも悪くも、その場の空気を変える力を持つ人なのだ。
「姉上、新しいリボン?」
ウイは分かっていて、つい尋ねてしまう。
「そうなの。きれいでしょ?」
ユウは少し照れたように笑い、リボンに指を添えた。
「とても、似合っています。姉上にぴったりです」
その言葉に、ユウはふと手を止めて、グラスの水を取る。
顔がほんのり赤く染まっていた。
「気に入っているの。・・・とても」
その小さな声とともに、ユウはちらりとシュリを見やった。
シュリも、静かにその視線を受け止める。
ーー元気になって、良かった。
ウイとレイは無言で視線を交わす。
言葉はなくても、お互いの思いは通じていた。
◇
その少し離れた場所。
廊下の影で、食事の様子をうかがっていたエマが、ふっと安堵の息を漏らした。
「・・・食欲が戻ったようですね」
隣にいたヨシノが、静かにうなずく。
「ええ、本当に・・・良かったです」
その横顔には、安堵と同時に、わずかな寂しさがにじんでいた。
「今回の・・・シュリの件。ユウ様のお気持ちを考えると、良かったのかもしれません」
「・・・そうですね」
エマの返答に、ヨシノの目がわずかに伏せられる。
「感情が乱れたユウ様を、落ち着かせられるのは・・・やはり、あの子しかいませんでした」
それが、確かな現実だった。
「・・・私が、もっとユウ様の心に寄り添うべきだったのに」
ヨシノの声が苦しげに震える。
本来、姫の心の拠り所となるのは、乳母――自分のはずだった。
母の代わりとなり、抱きしめ、支える存在でなければならなかった。
けれどユウは、違った。
その想いを預けたのは、自分ではなく、息子のシュリだった。
それを思うたび、どこか胸の奥が疼いた。
「・・・シュリの隣にいるとき、ユウ様は・・・どこか、素直になれるのですね」
「ええ。・・・本当に、そう思います」
ヨシノは小さく笑いながらも、その瞳には複雑な色が浮かんでいた。
ーーそれでも、乳母として・・・いつか、あの絆を見守ることができるだろうか。
何も言わず、窓の外に目を向ける。
夜の帳が降りていく。
◇
その頃、シリの部屋の扉が軽くノックされた。
「どうぞ」
呼びかけると、ゴロクがゆっくりと入ってくる。
「・・・エマは不在か?」
「ええ。子供たちの部屋に。ユウの様子を見に行ってもらいました」
シリは立ち上がり、椅子を勧めた。
ゴロクは少し黙ってから腰を下ろす。
「・・・マナトから聞いた。シュリが、養子の話を断ったと」
「ええ。本人の強い希望でした」
「なぜ・・・」
ゴロクは眉をひそめ、言葉を噛むように続ける。
「マナトには子がいない。もしマナトが重臣を退けば、席が空く。
シュリなら、申し分ない・・・そう思っていたのに」
その声には、期待していたからこその落胆がにじんでいた。
「マナトは妾を取らず、妻一筋ですから・・・次の重臣候補は、改めて探すしかありませんね」
そう言って控えめに笑ったシリに、ゴロクはちらりと視線を送る。
「・・・マナトの妻って、誰だったか?」
「レーク城にいた侍女です。マナトは、彼女をとても大切にしています」
「・・・そうか」
それきり、しばらく言葉がなかった。
やがて、ゴロクは小さくため息をついて呟く。
「明日の朝、シュリの稽古を見よう」
「お願いします」
そう答えたシリの笑みに、ゴロクはふと手を伸ばした。
そっと、シリの手を取る。
突然のことに、シリは戸惑ったように眉を寄せる。
「・・・ゴロク?」
じっと見つめ返してくるその眼差しに、シリはわずかに狼狽えた。
戸惑いと、微かな拒み。
けれどその手は、ぬくもりを伝えた。
「どうして・・・」
ゴロクの手が、自分の手をそっと包む。
シリは目を伏せ、逃げるように小さく笑った。
「今夜は・・・フィルの部屋に行くはずだったでしょう?」
冬の間、妾たちのもとに通うように命じたのは、他でもない自分だ。
その方が、都合がよかった。
心を鈍くできた。
「・・・気が変わった」
ゴロクの手が、そっと自分の腕を引く。
抵抗しようと思えば、できた。
でも、シリは立ち上がってしまう。
ーー愛しているわけじゃない。
その言葉は、喉の奥に沈んでいく。
けれど、拒む理由も見つからなかった。
それが、彼女の選んだ運命。
ーーこれが、私たちの夫婦の形なのね。
「お前の顔を見ていたら、フィルのところになんて行けなくなった」
真っ直ぐにそう告げたゴロクに、シリは言葉を失う。
ふいに訪れた静寂の中で、心の揺らぎだけが音を立てていた。
シリは静かに寝室の扉の前で立ち止まる。
一瞬だけ、扉を見つめたまま、目を閉じた。
そして、無言のまま、その奥へと歩いていった。
ーー数分後。
エマがノックもせずに扉を開けかけて、空気を察して慌てて退いた。
廊下の灯に照らされるエマの頬は、わずかに赤く染まっていた。
予告ーー本日の20時20分
翌朝の稽古場。
領主ゴロクが自ら木剣を手に取り、シュリに挑む。
亡き主の願いを胸に、ユウを守ると誓う乳母子。
その姿を見つめる者たちの心に、静かな波紋が広がっていく。
「あなたを守ると決めた日」
お陰様で11万PV突破しました↓
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この物語は続編です。前編はこちら ▶︎ https://book1.adouzi.eu.org/n2799jo/
兄の命で政略結婚させられた姫・シリと、無愛想な夫・グユウ。
すれ違いから始まったふたりの関係は、やがて切なくも温かな愛へと変わっていく――
そんな物語です。
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