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たったひとりを守るために

シリの私室には、柔らかな朝の光が差し込んでいた。

だが、空気は張り詰めていた。

重臣マナトが席につき、その前にシュリが座っている。

ヨシノは壁際に控え、ユウは少し離れた椅子に座っていた。


シュリはまっすぐ座っていたが、わずかに拳が震えていた。

誰の目にも、今日がただの呼び出しではないことがわかっていた。


「・・・マナト」

シリがゆっくりと口を開く。


「この数日、シュリに重臣の務めを教えてくださり、ありがとう。

あなたの申し出には、心から感謝しています」


「光栄です、シリ様」

マナトは深く頭を下げた。


「そのうえで、今日は――本人の意思を聞きに、こうして場を設けました」


部屋の中が、さらに静まる。

シュリは、真っすぐに前を見据えた。


「シュリ」

シリの声が穏やかに、しかしはっきりと響く。


「あなたに問います。

このシズルの重臣となり、マナト家の名を継ぐ覚悟は――ありますか?」


沈黙。


その間、ユウはただ、息をひそめてシュリを見つめていた。

心臓が痛いほど脈打つ。

その答えが、自分の未来を変えてしまう気がして。


しばらくして、シュリが口を開いた。


「マナト殿、今回は本当にお世話になりました」


そう頭を下げるシュリに、マナトは優しく微笑んだ。


「とても勉強になりました。普段は知ることのない世界を知ることができました」


ここまで言い切って、シュリは一度、息を整えた。


「・・・けれど、私は、引き続きユウ様の乳母子としての務めに励みたいと思っています」


場に、静寂が落ちた。


母であるヨシノだけが、微かに微笑を浮かべていた。

まるで、その答えを予期していたかのように。


――かつて、自分も選んだのだ。

誰かを守ると決めて、乳母としての道を進んだ日。

その気持ちは、今でも胸に残っている。


シュリもまた、あの日の自分と同じ顔をしていた。

だからきっと、この結論に至ることを、最初から分かっていたのだ。


だが、他の者たちは動きを止めたまま、呆然としていた。


「シュリ・・・なぜ?」


シリの声が、戸惑いとともに揺れる。


乳母子から重臣の子になる。

それは、規格外ともいえる出世の話だった。


なぜ、断るのか――


マナトも一瞬、驚きを浮かべたが、すぐに落ち着いた声で問いかけた。


「・・・理由を聞かせてもらえるか?」


「はい」


シュリは一礼し、ゆっくりと言葉を選びながら口を開いた。


「重臣の仕事には、大きなやりがいを感じました。領主を支え、民を守り、兵を動かし、領を維持する。

それは、誇り高く、強い責任を伴う仕事です」


一語ずつ、丁寧に。

けれどその瞳には、揺るがぬ意志が宿っていた。


「・・・でも、それでも、私は・・・守りたい人を守れなくなるなら、意味がありません」


一瞬、誰もが息を飲んだ。


「守りたい人・・・?」


シリの声がかすれる。


「はい。私は・・・ユウ様を守りたい。どんなに民や兵を守れても、ユウ様に手が届かないのなら、

それは、私にとって本末転倒なんです」


シュリの心には、昨日の出来事が残っていた。


リオウと向かい合っていたユウの姿。

いつもなら、自分が隣にいたはずなのに――そこに、自分はいなかった。


その距離が、初めて怖いと思った。


「私にとって、ユウ様は“誰か”じゃありません。守るべき、たった一人なんです」


言い終えた瞬間、後ろにいたユウが、まるで何かに打たれたように口を開けた。


ーー自分のために、出世の道を捨てる?


胸の奥が、熱くなる。


「シュリ・・・私のことは、いいのよ」


思わず言ってしまった。


けれど、シュリはまっすぐユウを見つめて、首を横に振った。


「よくありません。私が、そう決めたんです」


その声は穏やかだったが、誰にも折れない芯があった。


「シュリ・・・そこまでして、なぜ?」


シリが疑問を口にした。


乳母子という職は、志してなるものではない。

ただ、たまたま乳母の子として生まれたから、という理由で担う役目だった。


同じく、重臣もまた、世襲によって継がれることが多い。


この時代、仕事は“生まれ”で決まるものだった。


そんな中で、シュリはまっすぐにシリの目を見て答える。


「・・・グユウ様に、頼まれたからです」


その声は、凛として、澄んでいた。


「・・・あの日、最後の別れのときに、グユウ様が私にユウ様を託されたのです。

『ユウを、守ってくれ』と」


部屋が、しんと静まり返った。


その言葉を受けて、シリの胸に鮮やかな記憶が蘇る。


死期を悟ったグユウのそばを離れようとしなかったユウを、

必死に説得して連れ出したのは――シュリだった。


ーーそうだった。


「・・・グユウ様との約束を、私は果たしたいのです」


その言葉は、ただ静かに、部屋に響いた。


ユウもまた、同じ記憶を思い出していた。


父の最期のとき。

引きずられるようにして城を出たあの日。

外に出たあと、シュリの胸にすがって、泣いた。


ーーあの時のことを、まだ・・・。


それはもう、何年も前のことなのに。


「・・・仕方がないな」


マナトが、ぽつりとつぶやいた。

その声には、諦めと、ほんの少しの誇りが滲んでいた。


「グユウ様の名が出たら・・・お手上げだ」


そう言って、名残惜しそうにシュリを見つめる。


「シュリ。気が変わったら・・・いつでも声をかけてくれ」


それは、あり得ないと分かっていながらも、口にした本音だった。


ーー本気で養子に迎えたいと思っていた。

それだけの才と心が、彼には見えていた。


マナトとシリが目を合わせ、ゆっくりと頷く。


「・・・シュリ。あなたがそう望むのなら、引き続き乳母子としての務めを果たしてもらいたい」


シリが話したあと、少し柔らかい声で続けた。


「グユウさんとの約束を・・・守ってくれるのは、嬉しいわ」


その後、シリは部屋にいるひとりひとりを、ゆっくりと見つめた。


「・・・まるで、レーク城のようね。ここにいるのは、あの城にいた者ばかり」


その口調には、どこか懐かしさと、深い慈しみが込められていた。


確かに、この場に集っていたのは、レーク城からシュドリー、そしてノルドを共に渡ってきた者たちだった。


マナト、ヨシノ、エマ、そしてシュリ。


皆が、力強く頷く。


自然と、その視線が、グユウから託された木像へと向けられた。


「レーク城は滅びたけれど・・・確かな絆が、残ったわ」


そう呟いたシリの目に、うっすらと涙がにじんでいた。


やがて皆が部屋を出ていき、エマとふたりだけになったシリは、ぽつりと漏らした。


「・・・予想外の展開だったわ」


「ええ」

エマは、静かに頷いた。


「ユウ様は・・・気持ちが不安定になると、自分を追い込んでしまわれるようで。

ここ数日、ほとんど食事も召し上がりませんでした」


その言葉に、シリの胸の奥がじくりと痛んだ。


――やはり、離れることで崩れていたのだ。


「感情が乱れて・・・兄上のように、それが暴力として外に出るのも困るけれど」


そう口にして、シリは思わず言葉を切った。


ユウの中にある、ゼンシの血。

それが、いつか顔を出すかもしれない。


ーーユウのことになると、どうしても私は冷静でいられない。


領主としては、シュリが傍にいてくれることは有難い。

けれど、母としては、娘には自立してほしいとも思う。


どちらが正しいのか、すぐには答えが出ない。


でも、グユウさん。


あなたなら、迷わず「ユウにはシュリが必要だ」と言ったのでしょうね。


それが分かっているのに、私はまだ揺れている。


・・・どうしたらいいのか、なんて。


あなたに訊けたらよかったのに。


そんな思いを胸に抱えながら、シリは夜の静けさのなか、真冬の星空を見上げた。


星の光は冷たくて、でも、どこか懐かしかった。

まるで彼が、まだどこかで見守っているかのように思えて。


シリは、こぼれそうな問いを胸にしまい込んだまま、ただ空を見つめていた。



次回予告ーー本日の20時20分


城の最上階、誰も来ない見張り部屋。

二人きりで交わされたのは、かけがえのない贈り物と、心に響く言葉。

それは誓いにも似て、冗談にも似て――ただ、忘れられない瞬間となった。

だが、密やかなその時間を見つめる影があった。


「それは、まるで恋の告白のようで」



お陰様で11万PV突破しました↓

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この物語は続編です。前編はこちら ▶︎ https://book1.adouzi.eu.org/n2799jo/

兄の命で政略結婚させられた姫・シリと、無愛想な夫・グユウ。

すれ違いから始まったふたりの関係は、やがて切なくも温かな愛へと変わっていく――

そんな物語です。

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