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忘れられぬ人

シュリがマナトの館に身を置くようになって、五日が過ぎようとしていた。


朝は稽古、昼はマナトから重臣の務めについて学ぶ時間が設けられていた。


政務の流れ、文書の取り扱い、兵の管理や戦時における配陣。


それまで見たことのない世界に、シュリは静かに胸を躍らせていた。


「ここの配置は、崖を背にしてますね。伏兵の可能性は?」


そう尋ねると、マナトは少し目を見開いてシュリを見た。


「・・・詳しいな」


「ユウ様と・・・よく話していました」


一拍の沈黙のあと、シュリは少しだけ目を伏せて答えた。


戦術の書を読むのがユウの癖だった。


彼女が問いかければ、自然と口を開いていた。


考えを重ねる彼女の横顔を、ただ黙って見つめる時間が、好きだった。


そうして得た知識だった。


マナトは何も言わなかったが、静かにうなずいた。


一緒に過ごしているうちに、シュリは気づいたことがある。


マナトは常に首に何かをぶら下げていた。


正装のときは見えないが、屋敷の中でくつろいでいるとき

――ときおり、襟元からちらりと覗く、紐のようなものがあった。


ある晩、ふたりきりの勉強の時間。


少し迷った末、シュリは思い切って口を開いた。


「・・・マナト殿。お首に下げていらっしゃる、それは?」


マナトは一瞬、きょとんとした顔をした。


「・・・これか」

声は変わらなかったが、その目の奥に、誰にも見せたことのない痛みが走った。


首元からそっと取り出したのは、小さな布に包まれた物だった。


手のひらに収まるほどのその包みは、時間の経過を感じさせる、くたびれた風合いだった。


「お守りか何か・・・ですか?」


シュリが尋ねると、マナトは少しだけ笑みを浮かべた。


「そう・・・だな」


包みの口を少しだけ緩めると、中から見えたのは、鳶色の髪の毛。


「これは・・・」


「シン様の髪の毛だ。処刑前に私に渡してくれたのです」


マナトの声には、悲しみと辛さがこもっていた。


シュリは黙ってその手元を見つめた。


重臣という肩書の裏にあるその顔。


普段は紳士的で温厚な彼は、父を戦で失い、祖父は領主と共に死に、

託された領主の子供を庇いきれなかった過去がある。



「私と・・・シン様は兄弟のように育ちました」

シュリの声は掠れる。


「あぁ。シン様も離れた土地で姫様達や・・・シュリのことを恋しがっていた」

マナトの瞳は揺れていた。


「そう・・・なのですか・・・」


それは初めて知ったことだった。


「シュリは、シン様の乳母子だったのだろう?」


「はい・・・誰よりも近くにいました」

シュリの胸の奥に熱く切ない気持ちが込み上げる。


「まだ5歳・・・シュリ・・・そして、特にシリ様のことをよく語っていた。

恋しかったのだろう・・・」

マナトは辛そうに目を伏せた。


「はい・・・」


「最後まで、ご立派だった」


ゼンシの命により、串刺しにされたシン。


その最期を見守ったマナトの気持ちを考えると、

胸が痛んだ。


「シン様のことを1日でも忘れたことはない」

マナトは、その布をそっと握りしめる。


「私もです。忘れたことはありません」


瞼に浮かぶのは、屈託がなく笑う鳶色の髪の毛の少年、


ーーいつの間にかその人より大人になってしまった。


「それは、シリ様も、ユウ様も・・・皆一緒です。大切な方です」

シュリは力を込めて話す。


マナトは優しく微笑んだ。


「・・・明日も、朝稽古がある」


そう言って、マナトは包みをしまい、立ち上がる。


「早く休め。・・・お前はまだ、学ぶことが多い」


「はい。ありがとうございました」


頭を下げるシュリに、マナトは軽く背を向けて去っていった。


胸の奥に、ほんの少しだけ、温かさが残っていた。


1人になった時、窓辺に顔を寄せてシュリは夜空を見上げた。


ーー大切な人。守るべき人。


そう思うと、すぐに浮かぶ顔がある。


金色の髪、青色の瞳、気高く美しい少女。


――自分は、あの人の何になりたかったのだろう。

守る者? 支える者?


・・・それとも、もっと違う何か?


望んではいけないと知りながら、それでも――そう思ってしまう自分が、いた。


思考のどこかに、いつも響いてくる声がある。


「迷うときこそ、遠くを見なさい」


かつてシリ様が、まだ自分が幼かった頃にかけてくれた言葉。


ーーあの人は、今も変わらず、自分を見ているだろうか。


ユウ様が望むなら、自分は立派な重臣になるべきなのか。


でも、自分は本当に重臣になりたいのか? 


その問いだけは、まだ胸の奥に刺さったままだった。



「今日は、リオウ様とのご面談です」


エマが意気揚々と声を弾ませる。


けれど。


「・・・そうなの」


ユウの返事は、まるで息が抜けるような声だった。


力がこもっていない。


目も、どこか虚ろだった。


ウイとレイは、そっと目線を交わす。


――姉上の様子が、おかしい。


日に日に、その瞳から力が抜けていく。


かつては何を言ってもくるくる変わったその表情が、今ではまるで凍りついたように動かない。


そして、ふとした瞬間に見つめているのは決まって――


シュリが待機していた部屋の隅だった。


もういないと分かっていても、そこにいる気がしているかのように。


エマは、「姫らしく」と願っているのかもしれない。


けれど、その“姫らしさ”こそが、ユウを少しずつ壊しているように思えた。


物静かに、上品に、内に思いを秘める理想の女性像を。


けれど、ウイには違って見えた。


今のユウは、「淑やか」なんかじゃない。


ただの、抜け殻だ。


目の下に隠しきれない青さがあった。


それでも、気丈に背筋を伸ばしている。


ーー妹の私たちには、本音を漏らさない。


漏らすのはシュリだけ。


それが切ない。


ウイはたまらない思いで姉を見つめた。


このままでは、ユウがどんどん遠くへ行ってしまう気がした。


「これで良いのかしら」

小さな声で、ウイはレイにだけ聞こえるように囁いた。


レイは小さくつぶやいた。


「母上も・・・心配している」


ウイの手をそっと握った。


それが、レイなりの寄り添い方だった。


強く握られた手の強さは、まるで、「わかってる」と言うようだった。

次回ーー明日の9時20分  


マナトの館での日々は、シュリに新しい世界を見せていく。

重臣の務めを学び、母ヨシノの言葉に揺れながら、彼は自分の選択と向き合う。

一方、城に残されたユウは、稽古場の隅からシュリの姿を見つめ続ける。

その距離が、こんなにも遠く、こんなにも胸を締めつけるものだと、初めて知った。

そして――その空白を埋めるように、リオウが静かに歩み寄る。


「選べるということは残酷なこと』


お陰様で11万PV突破しました↓

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この物語は続編です。前編はこちら ▶︎ https://book1.adouzi.eu.org/n2799jo/

兄の命で政略結婚させられた姫・シリと、無愛想な夫・グユウ。

すれ違いから始まったふたりの関係は、やがて切なくも温かな愛へと変わっていく――

そんな物語です。

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