控室の怒号 笑うタヌキ
控室の前。
怒りは、静かな日常をたやすく踏みにじる。
自分が怒鳴られた訳ではないのに、思わず身を縮こませた。
ゼンシの怒声は止むことがない。
ーー相当、怒っているようだ。
シリは、少しだけドアを開けて控え室をのぞいてみた。
明日の結婚式のために、シュドリー城に集まった領主達が見つめる中で、
ゼンシがビルを見下ろしている。
「お許しください」
重臣のビルが床に平伏している。
シリはビルとの面識はあまりない。
なぜなら、シリが嫁いだ後にビルが重臣になったからだ。
「あれだけ準備を整えるようにと再三言っただろう」
ゼンシの青い瞳は怒りで渦巻いている。
ーーどうやら、ビルは失態をしたらしい。
「申し訳ありま・・・」
その後のビルの言葉は途絶えた。
ゼンシに殴り飛ばされたからだ。
床に倒れ込んだビルのみぞおちを、ゼンシは足で蹴り続ける。
ーーひどい・・・
シリは息をのんだ。
ゼンシは、些細なことで怒り出すことは百も承知だ。
けれど、この3年の間に少しだけ柔らかくなったような気がしていた。
こうして、多くの領主が見守る中で重臣に暴力を振るうとは・・・。
ビルにとって屈辱だろう。
やっぱり、ゼンシの本質は変わってないのだとシリは実感した。
遠巻きに領主達は憐れむように、その様子を見ている。
ゴロクは何度も声をかけようとした躊躇っている。
息子であるタダシとマサシは、顔を青くしながら呆然としている。
キヨだけが澄ました顔で座っている。
ーー誰も助けないのだろうか。
それならば私が・・・
シリが勢いよくドアを開けようとした瞬間、
「ここは私にお任せください」
落ち着いた声が後ろから聞こえた。
慌てて後ろを振り向くと、西領の領主 ジュンだった。
最後にジュンにあったのは、シリが嫁ぐ前だったので8年ぶりになる。
人の良さそうな顔、少しだけ目尻が下がった目はタヌキのようにも見える。
ジュンは躊躇なくドアを開けた。
「これは、これは皆さん、お揃いで!」
ジュンの明るい声が室内に響く。
ジュンの登場に、場の雰囲気が一気に変わった。
部屋の皆が一斉に見る。
ジュンは、ゼンシにむかって頭を下げた。
「ゼンシ様、ビルは私に丁重に招待状を届けてくれたのです。どうか私に免じて……」
その言葉に、ゼンシはやっと足を止めた。
冷たい目でビルをひと睨みしてから言い放った。
「ジュンに感謝しろ」
ビルはゼンシに深く一礼をすると、ジュンに支えられて立ち上がり、奥の重臣席によろよろと座った。
ーーすごい・・・。
シリは思わず声に出しそうになった。
怒号と恐怖で場を支配する兄とは正反対に、ジュンは柔らかな力で人を動かしていた。
ーーこんな領主もいるのだ。
このまま、ここにいるとゼンシに気づかれてしまう。
シリは、静かにその場を立ち去った。
目に焼きついたのは、ジュンの背中だった。
怒声でも命令でもなく――穏やかな声と微笑で、人を動かす男。
ああいう背中もあるのだと、胸の奥に小さな灯がともる気がした。
次回ーー
亡き夫が贈ったピンクのドレスをまとい、甥の婚礼に立ったシリ。
その背を見つめるのは、穏やかに微笑むジュン――そして、狂おしいほどに執着するキヨだった。
忘れられたはずの“包み”が、数年後すべてを変える火種となるとも知らずに。
薔薇色の遺言




