もったいないでは済まぬから
陽が昇る頃、騎士たちはそれぞれの領務へと引き上げていった。
誰もいなくなった土の匂いが残る場に、マナトはひとり立ち尽くしていた。
マナトは手にした剣を持ち直しながら、そっと視線をシュリに向けた。
ーーこの子は・・・ただの武に秀でた若者ではない。
汗を光らせ、控えめに仲間へ頭を下げる姿には、礼節と人望がにじんでいた。
強く、しなやかで、周囲をよく見ている。
だが驕らず、焦らず、確実に力を積み重ねてきた。
そして、
ーー人を守るために戦う覚悟がある。まだ若いのに
マナトは思わず、胸の奥が熱くなるのを感じた。
ーーこの子を、私の家に迎えたい。
そんな考えが、自然に浮かび、心の中にじんわりと広がっていった。
妻はいる。
我が子はいない。
家は続かないと思っていた。
けれど――
ーーシュリならば、家名を託すにふさわしい。
手のひらに残る木剣の感触を確かめながら、胸の奥から、じわりと熱いものがこみ上げる。
妻には、まだ話していない。
けれど、あの人もきっと――あの子を見たら、頷いてくれるはずだ。
――あの動き。あの目の色。
「もったいない、などという言葉で済ませてはならぬ」
マナトは、静かに木剣を腰に下げ直し、くるりと踵を返す。
陽が昇りきり、稽古場から人の姿が消えた。
土の匂いが残る場を後にし、城の回廊へ足を踏み入れる。
城の奥では、シリ様が領地防衛の策を練っているはずだ。
あの方がいる限り、この城は揺るがない――そう誰もが思っている。
その信頼が、マナトの足を執務室へと向かわせていた。
雪がちらちらと舞いはじめていた。
白い冷気の中を、決意を秘めた足取りで進んでいく。
廊下を抜け、石造りの階段を登るたびに、心の奥で問いかけが繰り返される。
――本当に、この申し出が正しいのか。
『シリ様は、あの子をよく見ておられる』
誰が言ったのかは覚えていない。
ただ、その時マナトは黙ってうなずいた。
確かに、あの方は血ではなく、人そのものを見極める目を持っている。
だからこそ、この願いもきっと汲んでくれる――そう信じられた。
目を閉じれば浮かぶのは、シュリの剣筋。
乳母子としての立場を越えてなお、誰かを守ろうとする意志。
育て、見守ってきた年月。
託され、失ったあの日々。
そして――
「もう、同じ過ちは繰り返さぬ」
マナトは立ち止まり、静かに息を吐いた。
扉の前に立つ。
中からは、ゴロクがペンを走らせる音が微かに聞こえる。
戸を叩く手は、震えていなかった。
「マナトです。お時間を、少しだけ――」
その声には、揺るぎない何かが、確かに宿っていた。
「マナトか。入れ」
扉越しのゴロクの声は、いつものように落ち着いていた。
中へ入ると、執務机にはろうそくの灯り。
帳簿と報告書の山を前に、領主はペンを置いて顔を上げた。
「何か、あったか?」
「・・・ひとつ、お願いがございます」
マナトは丁寧に一礼し、ゴロクの前に進み出る。
表情は険しくはない。
だが、内に秘めたものの強さが、言葉の前に伝わるようだった。
「今日、稽古場で――シュリと手合いをいたしました」
「そうか」
「・・・あの子は、ただの乳母子ではありません。武も心も、すでに家を背負うだけのものを持っております」
「それは、私も理解しているつもりだ」
マナトは一歩、前へ出た。
「ですが、“乳母子”という立場のままでは、彼はどこまで行っても、影です。光の中へ出ることは叶いません」
静かに、しかし力のこもった声だった。
「だから、私に――私の家に、あの子を迎えさせてください。名を与え、正式に跡継ぎとする覚悟です」
執務机の向こうで、ゴロクの手が止まる。
しばしの沈黙が落ちる。
マナトは、視線を逸らさずに言葉を続けた。
「セン家の長男様を託されながら、私は・・・守れなかった。いまでも、悔いております」
グユウの子ども、シンを託され、守りきれなかった過去がある。
「・・・」
「せめて今度こそ、守りたいのです。託されたものを、見届ける責を果たしたい」
それは、重臣としてではなく、一人の人間としての願いだった。
ゴロクは、マナトのその眼差しを見つめたまま、やがて静かに口を開いた。
「・・・お前がそう決めたのなら、異論はない。だが、それは“彼”の意志があってこそだ」
「もちろんです。本人と話し、納得を得た上で」
「それと」
ゴロクは目を伏せる。
「シュリはセン家の使用人だ。わしの一任では動かせぬ。話すのならシリ様だ」
「・・・そうでした」
セン家から仕えていたものは、この城では少ない。
乳母、少数の侍女、そして、唯一の男の子はシュリだった。
「・・・シリ様がどう判断なさるかだが、あの方も、きっとお前の想いを汲むだろう」
「はっ。・・・ありがとうございます」
深く頭を下げるマナトの背に、ゴロクは視線を落とす。
長く仕えてきた男の、その背に今、初めて父としての決意が宿っているのを、彼は確かに感じていた。
戦乱の世に必要なのは、血ではなく、覚悟だ。
そんな思いが、ゴロクの胸にも、ふと湧いた。
マナトは執務室を出た。
廊下を進むたび、外から冷たい風が吹き込んでくる。
それが、どこか背を押すように思えた。
「・・・この思いを、まずはシリ様にお聞きいただきたい」
そう言った自分の声に、わずかに震えが混じった。
それは、誰かを守れなかった過去を背負った男が、
もう一度誰かを迎える決意をした。
はじまりの一歩だった。
次回ーー明日の9時20分
マナトがシリに持ちかけたのは、乳母子シュリを自らの養子に迎えるという破格の申し出だった。
武も心も備えた若者を「影」に留めたくない――その想いは真剣だった。
しかし、本人の意志を確かめる場で、ユウは思わず叫ぶ。
「そばにいなきゃ、嫌なの!」
張り詰めた空気の中、飛び出した姫を追うように、シュリもまた部屋を後にする――。
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この物語は続編です。前編はこちら ▶︎ https://book1.adouzi.eu.org/n2799jo/
兄の命で政略結婚させられた姫・シリと、無愛想な夫・グユウ。
すれ違いから始まったふたりの関係は、やがて切なくも温かな愛へと変わっていく――
そんな物語です。
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