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命の価値を決められるのは、自分だけ

雪がちらほらと降っている。


ノアはひとり、稽古場で家臣たちの動きを見ていた。


目線は彼らを辿っているが、心は違うところをみている。


昨夜もキヨからの密書が届いた。


何度も読み返し、内容はすでに頭に入っている。それでも、手放すことができない。


――まだ二十にも満たぬ頃、雪解けの河原で剣を磨ぎながら、二人で語った。


『正しき領主は、民と兵を飢えさせず、血を流さぬ道を選ぶ者だ』


夕暮れの川面に映るキヨの横顔は、若さゆえのまっすぐさで眩しかった



あの理想は、今も胸のどこかでくすぶり続けている。


「・・・もし、ここで動けば、あの人を裏切ることになる」


小さくつぶやいた“あの人”とは、ゴロクであり、シリであり――それ以上に、自分が仕えてきたこの領そのものだ。


それでもキヨの言葉は甘く、そして鋭い。


「あなたなら、新しい秩序の中心になれる」


その言葉に、心が揺れなかったと言えば嘘になる。


「だが・・・それは、誰かを踏み台にすることだ」


ノアは深くため息をついた。


シリの言葉が、耳に残る。


『命の価値を決められるのは、自分だけ』


ーー自分は、何のためにこの領に仕え、ここまで来たのか。


己の信念のために戦うか、それとも、誰の血も流さないよう、ただ手を引くか。


その問いの答えは、まだ出ない。


出ないまま、時だけが過ぎていく。


――選ばないということが、どれほど多くを失うかを、知っていながら。


目の前では、木剣の打ち合い、汗を流しているシュリやフレッドが見える。


ノアは静かに目を伏せた。


「・・・あの若者たちのように、まっすぐにはなれんか」


――あの子たちのように、まっすぐに理想だけを信じていた頃が、確かにあった。


キヨと語った未来図。


忠義とは、守るべきものを間違えぬことだと信じていた。


そのまま、窓辺に背を預けて静かに息を吐く。


ーー私は選べない。


ゴロク様も、キヨも。


どちらかを選ぶのは無理だ。


「誰の側にも立たない」という決断だけが、今の自分には残されていた。



「ノア殿」


背後から声をかけられ、ノアは肩をぴくりと揺らした。


振り返れば、屈託のない笑みを浮かべたマナトが、木剣を手に近づいてくる。


「マナトか。今朝も見に来たのか?」


「はい。若い者たちが頑張っているのを見ていると、自分も背筋が伸びます。今日も混ざらせてもらいますよ」


そう言って、マナトは軽やかに稽古場へと入っていった。


そして、まっすぐに向かっていったのは――シュリだった。


「シュリ!よければ一本、お願いしたい」


シュリは一瞬驚いたように目を見開いたが、すぐに頷いて構えを取る。


その動作には無駄がなく、''乳母子”という印象はもはやどこにもなかった。


ノアは思わず見入ってしまう。


――上手い。いつの間に・・・こんなに


かつては力頼みで荒削りだった剣筋に、今は確かな技術と読みが加わっている。


マナトの鋭い踏み込みにも一歩も引かず、身体をひねって躱す。


踏み込み一つで風を巻き、引きの構えは水面のように静かだった。


カツン!


木剣が鋭くぶつかり、乾いた音が朝の空気を裂いた。


周囲の若い騎士たちが息を呑む中、ノアはその動きに目を奪われていた。


ーーこれは・・・ただの成長じゃない。覚悟を持って、剣を握っている。


マナトの木剣がシュリの脇を突こうとするが、それすらも読んだかのように下がり、半身でかわす。


そして即座に間合いを詰め、木剣の鍔をマナトの胸元に軽く当てた。


ピタリと動きが止まり、静寂が訪れる。


「・・・参りました」


マナトが笑みを浮かべ、潔く一礼する。


「見事だ。シュリ、まさかここまでとは・・・いや、感服しました」


まわりから、ぱらぱらと拍手が起き始める。


シュリは汗をぬぐいながら小さく頭を下げる。


その横顔には、自信と責任感――そして、かすかな誇りが浮かんでいた。


ノアはその姿をじっと見つめていた。

その表情に、どこか胸が熱くなるのを感じながら。


「・・・もったいないな」


手合いを終えたマナトが、ため息まじりにぼそりとつぶやいた。


その隣にはノアと、同じく重臣であるジャックが立ち、並んで稽古場の熱気を見つめている。


視線の先では、シュリ、リオウ、そしてフレッドが剣を交えていた。


木剣の音が打ち合うたび、空気がわずかに震えるような迫力。

互いに一歩も譲らぬ気迫がぶつかり合い、稽古とは思えぬ緊張感が場に張りつめていた。


「・・・あれほど動けるというのに」

マナトが再び呟いた。


「乳母子だからな」

ノアが静かにうなずく。

「・・・戦場には、連れて行けない」


「それにしても、姫に男の乳母子・・・か」

何度も疑問に思ったことをジャックはつぶやく。


「元々は・・・ユウ様をお守りするために剣技を始めたと聞く」

ノアが遠い記憶をなぞるように話した。



「知っています」

マナトの声には、確かな感情があった。


「私はあの子が、小さかった頃から知っている。ユウ様の前は・・・セン家の長男のお側に仕えていた」


ジャックがちらと目を向ける。


「そういえば・・・お前の家は――」


「はい。代々セン家に仕える家でした」

マナトの瞳が、わずかに陰る。


「長男様を託されながら、私は・・・守れなかった。だからこそ、今も、あの子たちの成長を見守っているのです」


その横顔に、重い悔いと深い責任がにじんでいた。


沈黙が一瞬、三人の間を覆う。


「・・・シュリは、乳母子にしておくには惜しい」

マナトは拳をゆっくりと握りしめた。


「このまま乳母子として終わらせるには、惜しすぎる。力も、心も・・・立派に育っている」


ノアとジャックが、その言葉に黙ってうなずいた。


火花を散らすように動き回るシュリの姿が、朝の光の中に際立っていた。


マナトの拳がぎゅっと握られたのを見て、ノアはふと自分の胸の内に意識を向けた。


――自分は、どうだ。


稽古場の中央で、全力でぶつかり合う若者たち。


その中でも、乳母子としての立場に甘んじず、鍛え、学び、戦い続けるシュリの姿。


あの眼差しには、一切の迷いがなかった。


ーーあの子は・・・もう、覚悟を決めている。


「・・・自分は、どうなんだ」

 ノアは、誰にともなく呟いた。


ノアは視線を稽古場に戻した。


剣を交えるシュリの動きに、迷いはなかった。


リオウもフレッドも、皆が己の信念を貫いている。


ーーお前たちは、いいな。


信じるもののために、ためらわずに剣を振るえる。


そして、自らの命の価値を――自分で決めている。


ノアは、懐の密書にそっと手を当てた。


キヨの言葉、ゴロクへの忠義、かつての理想。


すべてが胸の奥で絡まり、身動きが取れない。


――自分には、まだ選べない。


だからこそ。


小さく、吐き出すように呟いた。


「・・・羨ましいな」

次回ーー20時20分

稽古場で見たのは、武も心も備えた若き乳母子シュリの姿――。

その剣筋と眼差しに、重臣マナトは決意する。

「この子を、我が家に迎えたい」

過去に守れなかった命を悔い、今度こそ託されたものを守り抜くために。

雪舞う城で、ひとりの男が父となる覚悟を胸に、はじまりの一歩を踏み出す――。


お陰様で11万PV突破しました↓

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この物語は続編です。前編はこちら ▶︎ https://book1.adouzi.eu.org/n2799jo/

兄の命で政略結婚させられた姫・シリと、無愛想な夫・グユウ。

すれ違いから始まったふたりの関係は、やがて切なくも温かな愛へと変わっていく――

そんな物語です。

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