秘密の贈り物
城の稽古場に響く木剣の打ち合う音が、朝の静けさを断ち切るように続いていた。
フレッドとリオウ。
そして、その間に割って入るシュリ。
三人はそれぞれの剣を交えながら、言葉少なに、しかし確実に火花を散らしていた。
少し離れた場所で、重臣ノアはその様子をじっと見つめていた。
――若い、というのは、こうもまっすぐに熱を帯びるものか。
剣の音がまたひとつ、乾いた空に響く。
ノアの懐には、昨夜届いたばかりの小さな密書がある。
誰にも見せぬまま、胸に秘めている。
送り主の名は、キヨ。
友であり、かつて剣を交え、共に戦場を駆けた者。
そして今は、ノアの思い描く道とは違う未来を選ぼうとしている男。
ーーキヨの考えは、わからなくもない。だが――。
届いた手紙には、婉曲な言葉の裏に、はっきりとした「圧」があった。
ゴロクを裏切り、自分と共に新しい世を作ろう。
そう書いてあった。
ーー敬愛している領主、仲が良い友。
どちらも好きだからこそ、顔を立てたい。
ノアの視線が再び稽古場へと戻る。
フレッドは勢いで攻め、リオウは静かに間を詰め、そしてシュリはその隙を読むように立ち回る。
重責と理想、その狭間で揺れる心を、誰にも言えないまま、ただこの朝の光の中で黙って見つめ続けるしかなかった。
ノアがふと目を上げると、雪に覆われた城壁のそばに人影が見えた。
その背は、凛とした冷気の中にまっすぐ立ち、片手には鋭利な木の杭が握られている。
ーーシリ様?
「シリ様、おはようございます」
静かに声をかけると、妃は夢から覚めたように顔を上げた。
「おはよう、ノア」
表情に、ほんのわずかな驚きと、少しの照れが混ざっていた。
「・・・ここは冷えます。こんな場所で、何を?」
ノアは眉をひそめる。
妃が一人で立つには、あまりにも寒く、危うい場所だった。
「この雪の下に、落とし穴を掘ったの」
そう言って、シリは手にした杭を軽く持ち上げて見せた。
「これを隙間なく並べておきたいの。でも、雪が邪魔で・・・」
口元に苦笑が浮かぶ。
「雪が溶けるには・・・まだ一月ほどはかかるでしょうか」
「ええ、そうですね」
ノアは頷きながら、手にした杭の先端に目を落とす。
鋭く削られたその形に、ふとした戦慄を覚えた。
人を、確かに殺せるための形だ――そう思った。
それに気づいたように、シリが小さく笑う。
「この杭が命を奪うものであるなら、それは“最後の手”としてよ。・・・けれど、春になれば、争いは避けられない。間違いなく、誰かがこの城を狙うわ」
言葉は静かだったが、その瞳には強い意志の光があった。
ノアは、何も言えなかった。
ただ、心の奥でざわめきが広がる。
ーーこの人は・・・命を張って守ろうとしている。
自分はどうだ。
密書を前に、決断を引き延ばしているだけではないか――。
遠く、朝稽古の木剣の音が、まだ続いていた。
「・・・どうして、そんなにお強いのですか」
思わず口にしたノアの問いに、シリは一瞬だけ瞬きをした。
まるで、何かを問われるとは思っていなかった――そんな顔だった。
「・・・え?」
「先の戦で・・・多くのものを失われたはずです。それでも、こうして、戦の準備をして・・・。争うことは・・・お嫌ではないのですか?」
ノアの声は真摯だった。
彼の胸には、キヨからの密書のこと、家臣として、友としての自分の立場――
様々な思いが絡まり、答えを出せずにいる苦悩があった。
だからこそ、目の前で揺らがぬ意志を持ち、戦の準備を淡々と進めるシリの姿が、あまりにも強く見えた。
シリはゆっくりと、雪の上に杭を立て、その手を膝に置いた。
「・・・強くなんて、ないわよ」
「しかし・・・」
「怖いと思うこともある。夜になって眠れなくなる日も、いまだにあるの」
雪がふわりと舞う。
「それでも、止まるわけにはいかないの。守りたいものがあるから」
ノアは黙って聞いていた。
「私にはね、娘たちがいる。・・・ユウ、ウイ、レイ。あの子たちには幸せになってほしい。それが私の役目」
ふと、シリの声が柔らかくなった。
「それに――自分の命の価値を決められるのは、自分だけだと思っているの」
「・・・命の、価値を」
「ええ。誰かに強いられてではなく、自分で選ぶの。生きるために戦うのか、誰かのために立つのか。どちらでもいいの。でも、自分の意思で決めなければ、何かを守ることなんてできないわ」
静かな、しかし揺るぎない言葉だった。
ノアは、胸に重く何かが降りてきた気がした。
ーー自分は、どうだ?
戦うべきか、従うべきか――ずっと迷っているだけだったのではないか。
「・・・ありがとうございます」
それだけを告げて、ノアは深く頭を下げた。
シリはただ、穏やかに彼を見ていた。
◇
同じ頃、城の一角の静かな部屋で――。
「・・・できた!」
ひとり、ウイが小さく声を上げた。
胸の奥からこみ上げるような達成感に、ふっと息を吐く。
ついに完成したのだ。
シュリがこっそり買っていた、あの深い青のリボン。
それに白百合の刺繍を施すと、自分から言い出したのはいつだったか。
ーー報われない恋。
それは、シュリと自分の姿を重ねたがゆえだった。
そして――姉の気持ちが、確かにシュリに向いていると気づいている。
姫と乳母子。
結ばれぬ関係なのは、わかっている。
けれど。
ーー束の間でも・・・姉が、シュリが幸せであれば。
そんな思いが、手を動かす原動力だった。
刺繍は得意だ。
けれど、姉に気づかれぬように仕上げるのは、至難の業だった。
「・・・喜んでくれるかしら」
呟きながら、包みを抱いて稽古場へ向かって走る。
少しでも早く、彼の手に渡したかった。
稽古場には若い騎士たちの声と汗の匂いが満ちていた。
「ウイ様・・・?」
リオウが怪訝そうに眉を寄せる。
その端正な顔に一瞬だけ心が揺れた。
ーー早く忘れたいのに。忘れられない。
曖昧に微笑み、ウイは気持ちを断ち切るように小さく頭を下げ、その場を通り過ぎる。
「シュリ!」
汗に濡れた額をぬぐうシュリが、驚いたように振り返る。
「これ・・・できたの」
そっと布で包んだものを差し出す。
「・・・あ」
白い包みから透けて見える、深い青。
布を開くと、そこには見事な白百合の刺繍があった。
「・・・すごい・・・」
目を見開くシュリに、ウイは声をひそめて言う。
「これ、私が縫ったってこと・・・秘密にしてね」
「え・・・どうして?」
「・・・姉上」
そこまで言って、ウイは咳払いをひとつ。
「・・・もし私が縫ったと知ったら。きっと・・・身につけなくなるから」
誰とは言わない。
けれど、姉のことだ、自分の気持ちに気づいたと知ったら、
きっと――距離を置く。
それが、いちばんつらいのだ。
「ウイ様・・・その、ほんとに・・・」
言葉に詰まりながらも、シュリは静かに頷いた。
「・・・ありがとう」
「喜んでくれると、いいね」
ウイの微笑みに、シュリも小さく、けれど確かに、頷き返した。
次回ーー明日の9時20分
雪舞う稽古場で火花を散らす、リオウ、フレッド、そして乳母子シュリ。
その動きを見つめながら、ノアは懐の密書と己の迷いに囚われていた。
「命の価値を決められるのは、自分だけ」――妃の言葉が胸を刺す。
まっすぐに剣を振るう若者たちを前に、なお決断できない自分。
羨望と葛藤の狭間で、ノアは密書に手を添える――。
『お盆に50万文字突破!』
連載開始から3か月、お盆中に総文字数が50万文字を超えました。(下書き含む)
1日2話更新を続けながら、ここまで来られたのは皆さんのおかげです。
最後までお付き合いいただけたら嬉しいです。
小説裏話エッセイはこちら → https://book1.adouzi.eu.org/N2523KL/




