あの人の隣に、なれるなら
ウイは城の回廊の柱の陰に身を寄せていた。
「トイレに行ってきます」と告げて席を立ったのは、ほんの数分前のこと。
けれど、本当の目的は別にあった。
どうしても、見ずにはいられなかったのだ。
ーー今日のリオウ様は、いつもと違っていた。
姉上に声をかけたときの眼差しが・・・熱を帯びていた。
まるで、何かを決意した人のように。
中庭には、姉とリオウ様。
二人が並んで立ち、そして、リオウ様が跪いた。
その瞳が真っ直ぐに姉を見つめ、言葉を紡いでいく。
そして、彼は姉の髪にそっと唇を寄せた。
まるで、壊れ物を扱うかのような、優しく、慈しむ仕草だった。
その瞬間、ウイの足元から何かが崩れ落ちた。
ぐらりと身体が揺れ、柱に手をついてなんとか踏みとどまる。
ーーわかっていた。
初めて出会ったときから、あの人の視線は姉に向いていたこと。
一度だって、自分を見たことなんてなかった。
知っていた。
だから、期待しないようにしてきた。
けれど。
頬をつたう涙は、思いのほか温かく、止まらない。
唇を噛んで、声が漏れそうになるのを必死に堪える。
この感情に、名前をつけることすらできない。
ただ、心が痛くて、悲しくて、悔しくて。
それでも、姉のことが大好きだから。
あの人のことも・・・本当に、大好きだったから。
ウイはそっと、柱の影にしゃがみ込んだ。
こらえきれなかった想いが、ぽたりと床に落ちていった。
◇
同じ頃、
シリとミコが穏やかに言葉を交わすのを確認し、エマはそっと席を外した。
ーー気になっていたのだ。
あのふたりのことが。
窓辺に立ち、外をのぞく。
雪の光が反射する中庭で、ユウとリオウが並んでいる。
その距離がすっと近づいたと思うと、リオウがゆっくりと跪いた。
言葉は聞こえない。
けれど、あの表情と動きは・・・間違いない。
ーー求婚だ。
遠目に見ても、リオウの想いは真剣で、ユウは戸惑いながらも真っ直ぐに受け止めている。
美しい、と思った。
立ち姿も心の在り方も、互いに釣り合って見えた。
けれど、胸の奥にふと、冷たいものが過った。
ーーユウの激しさ。
時に歯を食いしばり、周囲を見返すような目をするあの子は、
まだ柔らかさよりも鋭さを纏って生きている。
強く見えるけれど、本当は脆い。
感情が高ぶれば言葉も涙も止まらず、時には自分自身を傷つけそうになる。
――リオウ様に、その気性が受け止められるのだろうか。
静かに立ち尽くすエマの脳裏に、かつての“あの人”の面影がよぎった。
シリ様の兄、ゼンシ様。
彼もまた、天賦のカリスマ性と、情緒の不安定さを併せ持つ人だった。
ユウには、どこかゼンシ様と似たところがある。
その鋭さが、時に自分をも他人をも追い詰める。
けれど、放っておけないほどに、人の心を惹きつけてしまうのだ。
エマは知らず、窓枠をぎゅっと握っていた。
願わくば、ユウが自分を追い詰める恋ではなく、寄り添える人・・・。
その相手はーー跪くリオウではなく、少し離れた柱の影にいる乳母子 シュリだった。
「どうして、あの子は乳母子なの」
エマの呟いた声は、冬の窓に響いた。
◇
ソリの鈴の音が、雪の静けさにやわらかく響いていた。
リオウと母ミコは、寄り添うようにして館へと戻っていた。
「・・・あれが、兄上の奥方だった方なのね」
ふいに口を開いたミコは、遠くを見つめたままつぶやく。
「噂に違わぬお方。気品があって・・・とても美しい」
「・・・はい。シリ様は、とても聡明で優しい方です」
リオウは静かにうなずいた。
その答えには、初めて会った日の印象も混じっていた。
城の中心に静かに座しながら、誰よりも場を支配している。
――そんな存在感を、リオウは確かに感じていた。
「そして、姫君のユウ様」
ミコはそっとリオウの横顔を見た。
「あなたが“家を捨ててもよい”と思うほどの方なのね。まるで・・・シリ様に瓜二つ」
「・・・はい」
短く返した声には、熱がこもっていた。
ミコは目を伏せ、流れる木々を眺める。
「三人とも、美しいわ。末のレイ様は、兄上に似ているけれど・・・
それでもやはり、シリ様の面影がある」
「・・・セン家の血が一番強く出ていると思います」
リオウは答えるが、目はぼんやりと前を見つめていた。
「そして、真ん中の子。ウイ様」
ミコがそっと名前を口にした。
「ウイ様・・・」
リオウはわずかに首をかしげた。
笑顔が印象的な娘だが、具体的な顔の輪郭がすぐに浮かばない。
「よく笑って、まわりをよく見ている賢い子よ。ああいう子は・・・人を支える器量があるわ」
ミコは淡く微笑んだ。
「・・・そうですね」
リオウはそう言いながらも、心はもう――
あの時、ユウが目を伏せた瞬間の表情、頬を染めた横顔、
そして小さく震える声にすべてを奪われていた。
ーーあの姫君の笑顔を、もう一度見たい。
そんな想いが、胸の奥でふくらんでいくのを、ミコは気づいていたかもしれない。
◇
その日の夕方、ユウは中庭にひとり立っていた。
冬の冷たい空気のなか、空を仰いでいた彼女の背に、淡い西陽が差している。
少し離れた場所で、シュリが黙って佇んでいた。
いつものように。
けれど、今日はどこか、空気が違っていた。
ユウはふっと小さなため息を吐いた。
「・・・シュリ」
呼びかけは、ごく控えめだった。
けれど、それだけでシュリは歩み寄り、静かに立ち止まる。
ユウは振り向かないまま、ぽつりと口を開いた。
「・・・聞いていたでしょう?」
「・・・はい」
頷くシュリの声もまた、静かだった。
「突然で・・・私も驚いたわ」
ユウはそう言って、小さく首を傾ける。
「昔から・・・憧れていたのよ。いつか、誰かに好きだと言われる日が来るのだろうって。
どんな人が、どんなふうに言ってくれるのか、ずっと夢見ていた」
「・・・そうでしたか」
「リオウ様は、とても素敵な方よね。見た目も、立場も、将来もある。
きっと多くの娘が羨むような、理想的な相手」
そう言いながらも、ユウの声に力はなかった。
「でも、実際にその時が来たら・・・思っていたのと違ったの。
天にも昇るような心地になるかと思っていたのに・・・。現実は、ずっと・・・難しいものね」
呟くようにそう言って、ユウは初めてシュリの方を見た。
その青い瞳に、困惑と、痛みと――どこか、さみしさが揺れていた。
「・・・それって・・・」
思わず声を漏らしたシュリに、ユウはそっと微笑む。
けれど、それはどこか諦めを帯びた笑みだった。
「私はまだ・・・姫として、未熟なのかもしれないわ。
何が正しいのかも、どう生きるべきなのかも、わからなくて」
ーー母のように、すべてを受け止められる器はない。
ユウは、小さなため息をこぼした。
母の背中は、いつも遠く、そしてまぶしかった。
「ユウ様は・・・」
そう言いかけて、シュリは言葉を飲み込んだ。
どんな言葉を重ねても、今の彼女の心には届かない気がして。
ユウはふっと息を吐き、視線を外す。
「ごめんなさい、変なことを言ったわね。・・・でも、話せてよかった」
そう言って、また彼に視線を向ける。
「あなたには・・・何も隠せないのね。昔から、そうだった」
彼女の微笑みが、今度はほんの少し、あたたかく緩んだ。
風が吹いた。
ユウの髪が舞い、シュリの頬をかすめる。
「ありがとう、シュリ。いてくれて」
その言葉に、シュリはただ、深く頭を下げることしかできなかった。
ーーその距離が、いつか埋まる日は来るのだろうか。
けれど、今はただ、その背を見つめるだけで精一杯だった。
次回ーー明日の9時20分
雪の午後、揺れる娘の心を前に、母は静かに語りはじめた。
「好いていない人との結婚は、妃の務めでも・・・嫌なものよ」
ユウの迷い、シリの覚悟――そして胸に秘めた、亡き夫との約束。
守るべきもののために生きる母と、まだ答えを出せない娘。
二人の本音が交わるとき、選ぶべき未来が見えてくる――。
『好いてない人と、結ばれる時』
お陰様で11万PV突破しました↓
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この物語は続編です。前編はこちら ▶︎ https://book1.adouzi.eu.org/n2799jo/
兄の命で政略結婚させられた姫・シリと、無愛想な夫・グユウ。
すれ違いから始まったふたりの関係は、やがて切なくも温かな愛へと変わっていく――
そんな物語です。
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