静寂の国で生まれる恋
シズル領 ノルド城
雪が深く積もり、城外の世界はまるで白い布で覆われたように静まり返っていた。
ゴロクは、地図を広げたまま、机の前で身じろぎもせず座っていた。
その目は険しいというより、どこか遠くを見ている。
「雪がやまぬな。・・・これでは兵を動かせん」
呟きに、シリがそっと話す。
「春は、必ず来ます。焦っても仕方がないわ」
ゴロクはシリを見つめながら、かすかに笑う。
「春を待つ間に、キヨは人の心を奪っている。
奴は剣でなくペンと噂で戦う」
「キヨに負けてはダメよ」
シリの声には、迷いがなかった。
しかし、ゴロクは小さく首を振る。
「強いだけでは、勝てない世が来た。
・・・ゼンシ様がいれば、あの男もここまでのし上がることはなかった」
続けて、ゴロクは弱音を吐く。
「・・・キヨのようには、振る舞えん。
あの男のように、巧みに人の心を操ることなど・・・私にはできない」
沈黙が落ちた。
雪が降って、動けない間にキヨがミンスタ領の家臣たちを味方につけている。
シリは窓から降り続ける雪を眺めた。
ーー焦っても仕方がないと思っていても、焦ってしまう。
9年前も、あの痩せた目だけが大きい男に、追い詰められた。
血を流すことなく、話術と懐柔でワスト領とシズル領は滅びた。
ーーキヨの怖さは誰よりも知っている。
雪の音。
暖炉の薪がはぜる音。
そして、二人の呼吸だけが、雪の間を満たしていた。
「ゴロク、こんな時だからこそ、城内の結束を強める時期よ」
シリが微笑んだ。
「結束を強めるとは・・・何を」
ゴロクは眉をひそめる。
「難しいことは考えなくて良いの。皆で集まって、美味しいものを食べましょう」
シリは微笑んだ。
◇
翌日の夜、城中のものが大広間に集まった。
ゴロク、シリ、重臣、侍女、女中、馬丁、そして、姫たちに妾。
「私たちも呼ばれるなんて」
ドーラが微笑む。
暖かな明かりに包まれた大広間には、色とりどりの料理がずらりと並べられていた。
大鍋で煮込まれた鹿肉のシチューは、香草の香りを漂わせている。
焼き立ての黒パン、蜂蜜と干し果実を添えた温かい麦粥、
そして雪国ならではの塩漬け魚の焼き物。
寒さに備えた濃厚な味わいの品々が、陶器の器に美しく盛られていた。
城の女中たちは顔を赤らめながら料理を運び、
侍女たちは嬉々として姫たちの世話を焼く。
「これ、全部食べてもいいの?」
ウイは目を輝かせて質問をした。
レイは控えめに頷いて、隣にいた馬丁の少年に料理を勧めている。
ユウが会場に入ると、静かなざわめきが広がった。
淡い赤いドレスに身を包んだ少女。
その姿を一目見たウイは、姉の眩しさに息を呑む。
「綺麗・・・」
呟いたものの、その言葉の奥には、届かぬものへの小さな嫉妬が隠れていた。
レイはそんなウイの横顔をちらりと見て、何も言わず、そっと飲み物を勧める。
ーー大丈夫、比べることじゃない。
そう思いながらも、胸の奥で、ユウという“太陽”の強すぎる輝きが、
姉妹それぞれに影を落としていることに、レイは気づいていた。
「妾部屋の料理より、ずっと豪華ね」
フィルが呟くと、プリシアが「しっ」と言いながらも笑っていた。
ドーラは、すでにワインを片手に女中たちと談笑している。
ゴロクは、珍しく笑顔を見せながら重臣たちと盃を交わし、
シリは姫たちの様子を見守りながらも、侍女たち一人ひとりに優しい言葉をかけて回っていた。
やがて、音楽が始まる。
城付きの楽士が笛と太鼓で軽やかな曲を奏でると、若い者たちが歓声を上げて踊り始めた。
ユウも珍しく笑顔を見せ、裾を軽く持ち上げてシュリとともに輪の中へ加わる。
二人の手は触れ合い、握られた。
ーー今夜は身分の差がない。
手を繋ぎ、踊るユウを見て、シュリは恍惚とした表情を浮かべていた。
彼女は、淡い赤のドレスに身を包んでいた。
血ではなく、薔薇の花びらのような、どこか儚い色。
その裾が舞い上がるたび、煌びやかな灯りが刺繍に反射して、まるで舞姫のように輝いていた。
上気した頬と、微笑む唇。
大きく、青く澄んだ瞳は、喜びに揺れていた。
会場にいる誰よりも美しく、誰よりも自由だった。
フレッドは、人々の視線の先を追った。
輪の中心で踊っているのは、ユウ姫だった。
淡い赤のドレスが、舞い上がるたびに光を孕み、
まるで灯りそのものが彼女を祝福しているかのように思えた。
裾に縫い込まれた銀の刺繍は、雪に落ちる陽光のように眩しくて、見ているだけで息をのんでしまう。
ーー笑っている。
少女らしく、けれど気品をまとって。
頬はほんのり上気し、大きな青い瞳は喜びにきらめいている。
その目に映っているのは、今、手を取って踊っている少年――シュリだ。
フレッドは唇を引き結んだ。
眼差しが、違った。
あれほどまでに、優しく人を見つめるユウを、今まで見たことがなかった。
誰よりも近くでその瞳を受け取っているシュリに、少しだけ嫉妬を覚えてしまう。
彼女は、ただ“美しい”のではない。
目が離せなくなる“何か”を持っている。
ゼンシの血を引いているからだろうか。
強さと脆さ、冷たさと熱さ、その両方を抱えたような少女。
まだ若いのに、人を狂わせるような魅力を纏っている。
ーーあの子を、本当に守れる男はいるのだろうか。
その問いが、ふと胸に浮かんだ。
ーーもし、自分が彼女の伴侶に選ばれたなら・・・
思考はそこまでだった。
次の瞬間、ユウがふっと笑って、シュリの手を引いた。
フレッドの胸が、かすかに軋んだ。
ーーああ・・・あの瞳が欲しい。
その瞳を向けられる男になりたい――ふと、そんな願いが浮かび、慌てて振り払った。
そう願ってしまった時点で、もう戻れないのかもしれない。
次回ーー本日の20時20分
踊るユウの手を取り、逃げるようにカーテンの奥へ――
誰にも見せない瞳と触れた頬に、心は静かに震える。
“恋の始まり”が、戦火の夜に、音もなく忍び寄る。
「あなたの瞳が欲しい」
母シリとグユウの話 11万PV突破しました
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この物語は続編です。前編はこちら ▶︎ https://book1.adouzi.eu.org/n2799jo/
兄の命で政略結婚させられた姫・シリと、無愛想な夫・グユウ。
すれ違いから始まったふたりの関係は、やがて切なくも温かな愛へと変わっていく――
そんな物語です。
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