誰かを想う、その方法
◇ノルド城・中庭。
フィルは、回廊の影に静かに立っていた。
この場所がシュリのお気に入りだと、彼女は知っている。
ーーいや、正確には違う。
ここは「シュリとユウのお気に入りの場所」なのだ。
それでも、逢いたかった。どうしても。
自分は妾の身。
抱かれている相手は、四十歳以上も年上の領主。
元気ではあるけれど――いずれ、そう遠くないうちに死んでしまうかもしれない。
子どももいない妾など、簡単に捨てられる運命なのだと、誰よりも自分が理解していた。
だからこそ、次に選ぶなら――貧しくてもいい、好いている男と結ばれたい。
そんな打算と切なさが入り混じった想いが、胸の内を占めていた。
だが、好いた男には、すでに想う相手がいる。
どれほど自分が女としての魅力を示しても、彼の心は揺れない。
――けれど、その恋は、きっと報われない。
そう思うことで、少しだけ心が救われる。
なぜなら、シュリの想う相手は「ユウ姫」なのだ。
乳母子と姫、叶うはずもない恋。
だから、いつか自分にも、チャンスが巡ってくるかもしれない――
背後に、足音がした。
ーーまさか、シュリ?
淡い期待を胸に振り返ると、そこにいたのは妃だった。
フィルの胸に、失望と緊張が一度に走る。
「フィル、こんな寒い日に、こんな場所で何をしているの?」
雪の女王のような銀のショールを纏ったシリが、優しく声をかけてきた。
「・・・いえ。特に、何も」
俯いて答える。
会いたかった相手がいる、などと言えるはずもない。
何よりこの妃と自分は、同じ男に抱かれている関係なのだ。
「その格好では風邪をひくわ」
フィルがいつも好んで着ている、胸元の大きく開いたドレス。
豊かな胸を強調するその装いが、今は寒さで赤く染まっていた。
ふわり、と。
シリが自分の肩からショールを外し、フィルの肩にそっと掛けた。
「・・・これは、私が娘時代に愛用していたショールなの。フィルにあげるわ」
「え・・・」
その仕草が、あまりにも母親のようで、フィルは戸惑う。
「寒いでしょ? 風邪をひいたら大変よ」
シリの手が、優しくフィルの胸元を覆った。
触れたショールは、柔らかく、温かく、どこかで彼女の香りがした。
それは、フィルには手の届かないような、上質な布だった。
「・・・どうして、私に?」
思わず口をついて出た問い。
シリは、懐かしさを含んだ声で語り始めた。
「ウイを妊娠していた頃ね。つわりで動けなくなった時があったの。
そのとき、亡き夫がこのショールで私を包んで、外へ散歩に連れ出してくれたのよ」
「そんな大事なものを・・・」
娘に譲ればいいのに、とフィルは思った。
だがシリは微笑みながら続けた。
「あの時の私は、弱っていたわ。だから、このショールが私を守ってくれたの。
あなたの心と身体も、少しでも守れたらと思ったの」
その言葉に、フィルの心が静かに震えた。
ーー母のような声。母のような手。
こんなふうに優しくしてもらったのは、生まれて初めてかもしれない。
妾で、領民出身で、誰からも見下される立場。
そんな自分に――この人は、分け隔てなく触れてくれた。
「・・・ありがとうございます」
涙がこぼれそうになって、フィルはそっと目を伏せた。
◇ワスト領・キヨの城
雪がちらつく城の一室。
火鉢の火がぱちぱちと小さな音を立てる中、二人の影が交差していた。
キヨと弟のエル。
言葉少なに、机に広げた地図を見つめている。
「・・・ゴロクは動けぬ。雪が深い。だが春まで待てば、奴は必ず城から南下してくる」
キヨが指先で、ノルド城からワスト領方面へ線を引く。
「それなら・・・兄者は、どう動かれますか」
エルが、穏やかな声で尋ねた。
「逆だ。こちらが、先に“動いた”ように見せて、実は“動かぬ”」
「陽動、ですか」
「そうだ。ゴロクの耳に、わしがもうシュドリー城を包囲したと入れる。
マサシの首が危ういと思えば、奴は兵を割いて救いに来るだろう」
キヨは、にやりと笑った。
「戦は力じゃない。焦らせて、引きずり出して、切り崩す。それが一番早い」
エルは無言で頷いた。
ーーすごい兄だ。血を流さず、戦わずに敵を煽ってくる。
しばし沈黙が流れ、火がぱちりとはぜる。
「リャク領は味方に付きました。
南領は中立を装いながら、心は既にこちら。ノアは――」
「まだ迷っている。ノアは義に厚い。ゴロクには恩がある。だが・・・情に弱い」
キヨはふと、火の奥を見つめるように呟いた。
「ノアは、わしの“戦友”じゃ。あいつが得意の槍を使わせないように、わしは信じて待つ」
エルは、キヨをじっと見つめた。
「では・・・仮に裏切られた場合は?」
キヨは笑った。
「その時は、その時だ。戦は何があるかわからない。
だがわしは、情を信じておる。・・・情を信じて動かすことこそ、人を使う才よ」
火の光が、キヨの瞳を照らした。
机の上には手紙の束がある。
送り主は、かつてゼンシに仕えた同僚たち。
その奥にあったのは、天下を狙う者の静かな野心と、誰よりも“人の心”に賭ける男の確信だった。
エルは、小さく一礼した。
「では、準備は整いました。あとは、兄者の“芝居”の始まりを」
キヨは立ち上がり、夜の空を見上げた。
「・・・この雪が解ける頃、ゼンシ様の跡目が、決まる」
再び、キヨはペンをとった。
この夜の静寂が終わる頃、何通もの密書が出され、歴史の天秤は静かに傾いていく――
ゴロクが雪に阻まれている間に、キヨは“心”を使って戦っていた。
次回ーー明日の9時20分
雪が降る夜、少女は笑い、少年は心を奪われた。
その瞳が欲しいと願った瞬間から、戻れなくなる。
心も戦も、静かに火を孕み始めていた――
昨日、11万PV達成しました。ありがとうございます。
===================
この物語は続編です。前編はこちら ▶︎ https://book1.adouzi.eu.org/n2799jo/
兄の命で政略結婚させられた姫・シリと、無愛想な夫・グユウ。
すれ違いから始まったふたりの関係は、やがて切なくも温かな愛へと変わっていく――
そんな物語です。
=================




