もう子供ではないと、気づいた日
ユウは部屋を飛び出していった。
開け放たれた扉を見つめながら、シリは不思議そうに眉をひそめた。
「・・・喜ぶと思っていたのに」
思わず口をついて出た言葉。
自分のときは違った。
ゼンシに「結婚しろ」と一方的に告げられ、相手の顔も知らず、
何もわからないまま見知らぬ地に嫁いだ。
不安でいっぱいだったあの頃を思えば、ユウの縁談ははるかに恵まれているはずだった。
「どうして・・・」
小さくつぶやくと、そばにいたエマとヨシノが困ったように顔を見合わせ、苦笑した。
ーーこの人は、どうしてまた、こう鈍いのだろうか。
エマは心の中でため息をつく。
「今は気持ちが乱れているだけです。・・・でも、シュリがいれば、きっと大丈夫です」
エマの言葉に、シリは頷く。
感情の高ぶったユウを宥められるのは、もはやシュリしかいない――
それが、この屋敷にいる誰もが抱く共通認識だった。
ユウの気性は激しい。
それはどこか、かつてのゼンシを思わせる激しさでもあった。
成長して、もしもシュリがそばにいなかったら――
彼女を抑えることができる者など、いないのではないか。
そんな小さな不安が、いつも乳母たちの胸の奥に渦巻いていた。
雪は静かに降り続けている。
けれど季節は、わずかに春へと近づいていた。
シリとエマは裁縫室へ向かう長い廊下を歩いていた。
ふと、薄暗い中庭に目をやると、回廊の下にユウとシュリの姿が見えた。
「あの二人は、仲が良いわね」
シリはふっと微笑む。
「少しは機嫌が直ったかしら・・・」
そう言いながら、ユウの表情に目を凝らす。
ユウは笑っていた。
けれど、それはただの笑顔ではなかった。
その顔を目にした瞬間、シリは立ち止まった。
――あの子、あんな顔で笑うのね。
それは、妹たちにも、自分にも、乳母にも見せたことのない表情だった。
どこか戸惑いを含みながらも、ふいにこぼれたような微笑。
視線の先には、シュリ。
シリは息を呑んだ。
それは、恋を知っている者が見せる、あまりにも繊細な“揺れ”だった。
ユウも、そして――
その視線を正面から受け止めているシュリもまた、同じ“揺れ”の中にいる。
胸の奥が、そっと締めつけられる。
愛しい娘が、誰かを想い始めている。
けれど、その相手が、決して簡単には結ばれぬ存在であることに。
シリは目を伏せた。
「・・・あんな顔、初めて見たわ」
シリがぽつりと呟くと、エマは横目で彼女を見つめる。
「ユウ様は、もうお子さまではないのですね」
シリは何も答えなかった。
けれど、胸の奥で何かが静かに揺れていた。
グユウに嫁いだとき、シリには好いている男性などいなかった。
だからこそ、グユウと出会い、恋をして、心を通わせることができた。
ーーけれど今は違う。
シリの胸には今も、恋い焦がれた人の影が残っている。
その想いを抱えたまま、再婚相手であるゴロクに身を預けているのだ。
ーー自分はもう、いい。
この年齢で、愛した人と想いを重ねられただけでも幸せだった。
けれどユウは、まだ始まったばかり。
好きな人がいるのに、他の男に嫁ぐ。
想像するだけで胸が締めつけられる。
どんなに好いていても、姫である限り、使用人であるシュリとは結ばれない。
その現実が、あの子をこれから、何度も傷つける。
「・・・グユウさんは、どうしてシュリをユウの乳母子に任命したのかしら」
シリがふと呟くように言うと、エマは静かに首を振った。
「・・・わかりません」
「姫に男の乳母子・・・」
あのとき、自分に向かって語ったグユウの顔が忘れられない。
――『ユウは特別な子だ。強い光を持つ者は、同時に深い影を抱える。
だからこそ、万が一のときにそばにいる者には、誰よりも信頼できる者を。
シュリなら、命を懸けてユウを守る』
それが、グユウの判断だった。
確かに、ユウは特別な子だ。
美しい容姿に、ゼンシを彷彿とさせる強さと毒を秘めている。
年端もいかないその身に、すでに男たちの視線を惹きつける危うさがある。
けれど、今、シュリとユウは――お互いに想い合ってしまっている。
その現実を、どうすれば良いのだろう。
「・・・グユウさん。私は、どうしたらいいの?」
思わず、シリは胸の内の問いを、声に出していた。
次回ーー本日の20時20分
フィルは恋に気づき、
シュリは傷つきながらも、まっすぐに想い続ける。
そして、キヨは戦わずして勝つための一手を打つ――
雪に覆われた世界の下で、
心と策略が交錯し始める。
次回、「芝居はすでに始まっている」
昨日、11万PV達成しました。ありがとうございます。
===================
この物語は続編です。前編はこちら ▶︎ https://book1.adouzi.eu.org/n2799jo/
兄の命で政略結婚させられた姫・シリと、無愛想な夫・グユウ。
すれ違いから始まったふたりの関係は、やがて切なくも温かな愛へと変わっていく――
そんな物語です。
=================




