このまま、連れて逃げられたなら
ユウは無言で部屋を飛び出した。
階段を駆け上がる足音が、廊下に響いていく。
――嫌だ。結婚なんて。
私はまだ、子どもでいたいのに。
だが、それは叶わない。
ーー自分は姫なのだ。逃げ出すことなど許されない。
それでも――。
たどり着いたのは、城の一角にある見張り台の部屋だった。
中庭では人目がある。
けれどここなら、誰にも聞かれずに済む。
窓の向こうには、ノルド城の城下町が広がっていた。
自分がこの街を背負う立場になる――そう思うと、胸が重くなる。
「・・・ユウ様」
そっと扉が開き、シュリの声が聞こえた。
ユウは振り返らず、窓の外を見たままつぶやいた。
「・・・私は恵まれているのよね」
それは誰に向けたというわけでもなく、まるで自分に言い聞かせるような声だった。
「年頃になったら、どこかの領地に嫁ぐのだと覚悟していたわ。
知らない人のところへ行くのだと。・・・それが、当然だと」
「・・・はい」
「でも今、ここに残れるって言われた。母上も、妹たちもそばにいる。
フレッドもリオウも、知っている相手。優しい人たち。選べる立場にある・・・」
そこまで言って、言葉が途切れる。
「幸せなはずなのに・・・どうして、こんなに苦しいのかしら」
知らぬ間に、頬を伝っていた涙に気づき、ユウは口元を押さえた。
「知らない相手に嫁ぐ方が、まだ覚悟ができたかもしれない。
でも・・・知っている相手に、抱かれることを想像すると・・・怖いの」
その言葉を聞いた瞬間、シュリの胸の奥で何かが弾けた。
喉の奥が焼けるように熱い。
息が詰まった。
目の前にいるのに、決して手を伸ばしてはいけない存在――
そう、分かっていたのに。
「・・・誰かに抱かれるのが、怖い?」
声が震えていた。
自分でもわかるほどに。
「優しい人たちなのよ。フレッドも、リオウも。なのに・・・」
ユウがぎゅっと腕を抱える。
「どうして、こんなに、怖いの・・・」
その瞬間、身体が勝手に動いた。
思考より先に、ユウを抱きしめていた。
反射でも、理性でもない。
それは、どうしようもない「欲」だった。
誰かに抱かれる――
その言葉が、他の誰かを思い浮かべて放たれたことが、胸の奥を焼いた。
その言葉を聞いた瞬間、シュリの身体が自然に動いた。
気づけば、ユウを抱きしめていた。
自分でも驚くほどに、強く。
これが最初で最後でも構わない。
たとえ罰されようと、この腕だけは、いまこの瞬間、
彼女を放したくなかった。
肌越しに伝わる震え。
驚きに固まったユウの身体の細さ、温度。
腕の中にあるのは、ずっと遠いと思っていた存在――
けれど、確かに、いまここにいる。
「シュリ・・・?」
かすれた声が、耳元で揺れた。
その瞬間、時間が動き出した。
ハッとして顔を上げる。
ユウと目が合った。
まっすぐに自分を見つめるその瞳に、ようやく現実が押し寄せる。
ーーしまった。
自分は何をしているんだ。
乳母の子にすぎない自分が、こんなことをしていいはずがない。
「・・・すみません」
慌てて腕を離そうとしたその瞬間、今度はユウが、彼の身体にしがみついた。
「・・・やっぱり、嫌。私は母上のようにはなれない!」
その声は、張り裂けそうな叫びだった。
政略結婚。跡取り。子作り。
それはずっと幼いころから、体に染み込むように教えられてきたことだ。
フレッドもリオウも、良い人だとわかっている。
嫌いではない。
話していて楽しいと思う。
――けれど、それは違う。
“愛せる”かどうかとは、まったく別の話だった。
シュリは戸惑いながらも、そっとユウの背に手を回す。
泣いている子どもをあやすように、ゆっくりと撫でる。
「嫌よ・・・! いやぁっ!!」
ユウはしゃくりあげながら、なおも強く抱きしめてくる。
「・・・わかります」
その声は低く、かすれていた。
ただ、優しく、確かにユウの心に寄り添おうとする声だった。
この気持ちが落ち着くなら――この子が救われるなら。
そしてーー
ーーこのくらいは許してほしい。
誰に謝るわけでもなく、シュリはそっと彼女の髪に口づけた。
けれど、その唇をさらに下ろすことだけは、どうしてもできなかった。
越えてはならない境界線が、胸の内に燃えるように浮かんでいた
自分の立場も、越えてはいけない一線も、すべて理解している。
けれど、どうしても抑えられない想いが、確かにあった。
――このままユウ様を連れて逃げられたら。
そんな、見なくてもいい夢を見てしまう。
どれくらいの時が流れただろうか。
外の空は、ゆっくりと夕闇に染まり始めていた。
「ユウ様・・・そろそろ、下に戻りましょう」
ユウは黙ったまま、首を横に振った。
「皆が、心配しています」
それでもユウは返事をしない。
「・・・泣き顔を見られたくないのなら、中庭に行きましょうか?」
その言葉に、ユウはようやく顔を上げた。
目元は赤く腫れていたけれど、その表情はどこかすっきりして見えた。
「・・・ひどい顔、でしょう?」
「大丈夫です」
ーーそんな顔も愛おしい。
「シュリの前だと、泣いてしまうわ」
「・・・それでいいんです」
そう言って、名残惜しそうに身体を離す。
その仕草があまりにも切なくて、もう一度抱きしめたくなる。
けれど、シュリは堪えた。
「・・・中庭に、行きましょう」
その声には、ほんのわずかな震えがあった。
ユウは黙ってうなずくと、ふたりはゆっくりと扉を出ていった。
足音が遠ざかっていく。
――ふたりは、気づいていなかった。
部屋の片隅、石造りの柱の影で、息を潜め、
その場を離れられずにいた少女がいたことに。
いつもお読みいただき、ありがとうございます。
第6章では、シリ、そして、ユウとシュリの関係を軸に、さまざまな人物の葛藤を、織物のように丁寧に編んでいきたいと思っています。
選ばれた立場にある者たちが、それぞれの愛や責任に揺れながら、何を選び、何を諦めていくのか――
彼らの小さな想いの揺れが、やがて大きな流れに繋がっていきます。
どうか、この一歩一歩を、見守っていただけたら嬉しいです。
次回ーー明日の9時20分
たとえ、触れ合えたとしても――
姫と乳母子の恋は、罪でしかない。
それでも心は、もう戻れない。
「グユウさん・・・どうして?」
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この物語は続編です。前編はこちら ▶︎ https://book1.adouzi.eu.org/n2799jo/
おかげさまで累計10万9千PV突破!
兄の命で政略結婚させられた姫・シリと、無愛想な夫・グユウ。
すれ違いから始まったふたりの関係は、やがて切なくも温かな愛へと変わっていく――
そんな物語です。
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