選べることは、幸せですか?
作業部屋には、以前とは違う、ほんの少しだけ穏やかな空気が流れていた。
その理由は、フィルが変わったからだ。
ユウに謝ってからのフィルは、どこかしら柔らかくなった。
その視線には、かつての刺々しさはもうない。
かといって親しみがこもっているわけでもなく、ただ黙々と、手を動かしている。
「気の強い姫様だわ」
稽古を終えたシュリに、フィルは言った。
「フィルの方から・・・話しかけてみては?」
シュリがそっと言うと、
「とんでもないわ。頭から噛まれちゃう」
フィルが肩をすくめるようにして言う。
その言葉に、シュリが吹き出した。
思わず漏れたその笑いに、フィルが目を細める。
「・・・笑うと、可愛い顔をするのね。シュリ君」
「揶揄わないでくれ」
気恥ずかしそうに視線を逸らしたシュリに、フィルは笑う。
「いつも、そういう顔をしていればいいのに。そんな、思い詰めた顔ばかりじゃなくて」
その言葉に、シュリは目を伏せた。
ーー悩んでいる――間違ってはいない。
ユウへの想いに胸を焦がしているのは、
もしかすると誰の目にも明らかになっているのかもしれない。
そんな不安が湧き上がる。
その日の夕方、シリはユウを自室に呼んだ。
ユウだけではない。乳母のヨシノ、そしてシュリも呼ばれていた。
「・・・なんの話だろう」
ユウがぽつりとつぶやく。
声には、かすかな不安の色がにじんでいた。
「なんでしょう・・・ね」
シュリは曖昧に笑う。
「・・・今日は、ずいぶんと機嫌が良さそうね」
ユウがふと、凍りつきそうな冷たい眼差しを送る。
「えっ?そうですか?」
「ええ。朝の様子を見ていたの。フィルと、楽しそうだったけれど?」
その問いに、シュリが小さく肩をすくめた。
「いえ、普通の話を・・・」
「普通の話って?」
ユウがまっすぐにシュリを見つめた。
その瞳はまるで、心の内を見透かそうとするように、真剣だった。
「いえ、その・・・」
シュリは口ごもった。
――ユウにフィルのことを誤解されるのは嫌だ。
伝えたいのに、言葉が出てこない。
口を開こうとしたそのとき、
「つきましたよ」
乳母のヨシノが、二人にやわらかく声をかけた。
扉を開けると、シリが少しだけ緊張した面持ちで椅子に座るよう促した。
「座って」
シリの背後にはエマが控え、ユウの後ろにはヨシノとシュリが並ぶ。
こんなふうにして向かい合うのは、初めてだった。
「今日はね、ユウの縁談についてお話しします」
ユウの胸の奥が、一瞬にして冷たくなった。
――縁談?
「・・・それは、春が来てからの話ではなかったの?」
ユウの声は、かすかに震えていた。
――まだ考えたくない。どうして今?
その問いに、シリは静かに首を振る。
「実はね。ゴロクは、あなたに婿を迎えて跡取りになってほしいと考えているの」
「えっ・・・」
思いもよらない話だった。
ヨシノも、そしてシュリも、驚いたように目を見開いた。
「お相手は他領の方ではなく、フレッドかリオウを考えているわ」
「――なぜ?」
「同じ領内の相手の方が、家臣たちの結束が強まるのよ。
とても良い話だと思うの。・・・ユウは、どう思う?」
そう問いながら、シリは娘の顔をじっと見つめた。
ユウの表情は、青ざめ、肩が震えていた。
「ユウ?」
「・・・突然すぎて、受け入れられない」
そう言う声は、小さくかすれていた。
「でも、結婚しても、ここに住めるのよ?」
「わかっている」
けれど、その言葉の後に続く感情を、言葉にする余裕はもうなかった。
沈黙が落ちる。
「ユウ。フレッドとリオウが嫌なの?」
「・・・そういうことじゃない。けど、選ぶって、そんなに簡単なことじゃない」」
声は震え、視線は床に落ちたまま。
「そうね、でも、嫌いじゃないなら上手くいくはずよ。大丈夫」
シリは穏やかに言ったが、その明るさがユウの心に突き刺さった。
ユウは俯いたまま、何も返さなかった。
「ユウ、選べるというのは素晴らしいことよ」
姫は結婚相手を自分で選ぶことができない。
ーーユウの縁談は幸運だ。
シリはそう信じて、疑わなかった。
その言葉に、ユウはわずかに顔を上げた。
その目には、悲しみとも怒りともつかぬ光がにじんでいた。
「・・・それって、素晴らしいことなんですか?」
胸の奥に溜めていたものが、思わずこぼれてしまった。
吐き出すように言って、すぐに唇を噛み締めた。
その発言にシリは目を見開く。
「そうよ。幸せなのよ」
「・・・はい」
唇をぎゅっと噛み締めてから、ユウはゆっくり顔を上げた。
その目には、何かを耐えるような、悲しみがにじんでいた。
「今、結論を出す必要はないの。結婚は、争いが終わってから。
冬の間に、ゆっくり考えましょう」
「・・・わかりました」
そう言って立ち上がったとき、手が震えていた。
視線を誰にも向けないまま、足早に部屋を出ていく。
その背を、シュリがすぐに追いかける。
「・・・どうしたのかしら?」
シリが首を傾げる。
その隣で、エマは何も言わず、ただ心の中でため息をついた。
ーーああ、シリ様・・・まだお気づきにならないのですね。
◆第5章を読んでくださった皆さまへ
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
ユウの揺れる心、シュリの抑えきれない想い、そして二人の間に確かに生まれた“何か”。
踏み出せない一歩を、読者の皆さまと一緒に見守っていただけたこと、心より感謝いたします。
シリと娘たちの行く末を、どうかこれからも見守っていただけたら嬉しいです。
もしこの物語に少しでも心を動かされたと感じていただけたなら、ブックマークや評価、ひとこと感想をいただけると、とても励みになります。
次章では、より深く、より繊細に――
登場人物たちの想いが絡み合う“織物”のような物語を紡いでいけたらと思っています。
これからも、どうぞよろしくお願いいたします。
今日の20時から第7章『争い前 揺らぐ者たち』がスタートします。
次回ーー本日20時20分更新
知られてはいけない感情。
越えてはいけない境界線。
けれど、あのぬくもりは、もう消せない――。
「このまま、連れて逃げられたなら」
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この物語は続編です。前編はこちら ▶︎ https://book1.adouzi.eu.org/n2799jo/
おかげさまで累計10万9千PV突破!
兄の命で政略結婚させられた姫・シリと、無愛想な夫・グユウ。
すれ違いから始まったふたりの関係は、やがて切なくも温かな愛へと変わっていく――
そんな物語です。
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