生き抜くために
窓から差し込む午後の光が、木像の影を長く伸ばしていた。
その像は、かつて夫から、シリに託したものだった。
彼が遺してくれたものは、子どもたちと、この小さな像と、そして――記憶。
けれどその午後、思いがけず“もう一つの遺産”が、シリのもとへ届けられた。
扉の向こうから聞こえた声は、久しく聞いていなかった男のものだった。
「シリ様、お久しぶりでございます」
商人のソウがシリの部屋を訪ねてきた。
「ソウ、遠方からありがとう」
シリは微笑み、椅子に座るよう促した。
ワスト領にいた頃、戦費を得るため、シリは自ら軟膏と布を作り、城下町の商人ソウに販売を委ねていた。
「お渡ししたいものがございます」
ソウは椅子に腰掛けながら、鞄から包みを取り出し、テーブルに置いた。
シリが包みを開けようとすると、手が止まった。
中に金貨が詰まっていたのだ。
「ソウ、これは受け取れません」
彼女は包みを元に戻そうとした。
だが、ソウは微動だにせず、予想していたかのように静かに口を開いた。
「これは、シリ様が作られた軟膏の正当な代金です。お納めください」
「このお金は、ワスト領の人々に渡してほしいの。困っている家臣や領民に使って」
シリは首を振りながら答えた。
ソウは、シリの背後にある木彫の像に目をやりながら言った。
「お言葉ですが――このお金は、シリ様ご自身が持っているべきです」
「どうして、そう思うの?」
シリは片眉を上げた。
「今のワスト領は、キヨ様が治めております。家臣たちは職を失っておらず、領民たちも住む家を保っています。困窮している様子は見られません」
静かな口調だったが、その言葉は真実を伝えていた。
シリは言葉を失い、うつむいた。
「・・・今の私は、不自由のない暮らしをしています」
最愛の人を失った。
それでも、争いに巻き込まれることなく、子どもたちと穏やかな日々を送っている。
けれど――グユウのいない今、お金を持っていて何になるのだろう。
欲しいものなど、何ひとつ思いつかなかった。
「それでも、このお金は、シリ様が持つべきです」
ソウは、今度は少し強い口調で言った。
「ソウ、どうしてそこまで?」
商人という立場の彼が、そこまで強く勧める理由がシリには理解できなかった。
「私の個人的な考えではありません」
そう言って、ソウは懐から一通の手紙を取り出した。
「セン家が滅びる前、グユウ様から託された手紙です。お目通しください」
「・・・グユウさんから?」
恐る恐る手紙を受け取ったシリは、羊皮紙を広げた。
そこにあったのは、彼女がよく知るグユウの整った文字だった。
《もし領民や家臣が困っていないのであれば、軟膏の代金はシリに渡してほしい》
文の末尾に書かれていた一節は、ソウに向けたものではなく、まるでシリ自身に語りかけてくるようだった。
《人生は何が起きるかわからない。
今、困っていなくとも、先のことは誰にも読めない。
生き抜くために、このお金はシリと娘たちのもとにあってほしい》
「グユウさん……」
シリの青い瞳が、涙でにじんだ。
それは悲しみの涙ではなかった。
死の淵にあってなお、彼女と子どもたちのことを思い続けたグユウの、揺るぎない優しさに触れたからだった。
「どうか・・・お金と手紙をお納めください。グユウ様の願いです」
ソウは穏やかに、しかし確かに言った。
「・・・わかりました」
シリは涙をこぼしながら、ゆっくりとうなずいた。
グユウが自分と子どもたちの未来を見据えて遺した言葉と、
ソウが託してくれたその証。
たしかに、今は欲しいものなど何もなかった。
けれど。
これから先、何が起きるかはわからない。
だからこそ、受け取ると決めた。
愛されたという記憶とともに、生き抜いていくために。
次回ーー
甥タダシの婚礼を祝うシリの指に、なお残る結婚指輪。
その心を抉るように、キヨはかつてのレーク城を壊し、新たな城を築いていた。
そして祝宴の控室から響いたのは――ゼンシの怒声だった。
「夢の影と指輪」




