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義を選んだ男、情に揺れる春


ノルド城の朝、石畳の回廊に、足音がふたつ。


先に気づいたのはシリだった。


「・・・こんなところで、どうしたの?」


重臣ノアは額の汗をぬぐいながら、小さく息を吐いた。


「稽古を終えて、少し歩いていただけです。妃様こそ、どちらへ?」


シリは回廊の窓から外を見たまま、ふっと笑った。


「争いの準備よ」


その声には冗談めいた軽さも、どこか冷めた本気も混ざっていた。


ノアは何も言わず、ただ静かに彼女を見つめた。


「・・・間に合うといいですね」


その言葉に、シリもまた目を伏せたまま頷いた。


石畳の回廊に差し込む冬の陽が、ふたりの影を淡く伸ばしていた。


「・・・あなたがいるから、シズル領は安泰よ」


そう言ったシリに、ノアは一瞬目を見開き、すぐに視線を落とした。


「・・・そんな。勿体ないお言葉です」


苦笑するその声には、どこか自嘲が混じっていた。


ノアは戦において、常に守りの布陣を選んできた。


果敢に攻め入るジャックとは対照的に、

守勢を崩さず、撤退戦においてこそ真価を発揮する男だった。


華々しい戦功など、ひとつもない。


「ノア」


シリが静かに言った。


「兄が以前、あなたのことを話していたわ」


「・・・ゼンシ様が、ですか?」


「そうよ」


ノアの表情に、わずかに緊張が走る。


「“ゴロクの家臣ノアは、見事な振る舞いだ。決して目立たぬが、ああいう奴がゴロクのもとにいれば安心だ”・・・そう、言っていたわ」


ノアはまるで信じられないとでも言いたげに、目を見開いた。


「そ・・・そうなのですか」


「ええ。私は争いのことはわかりませんが・・・あの兄が口を出すのなら、きっと素晴らしい活躍だったのでしょうね」


「・・・ありがとうございます」


ノアは深く頭を下げたが、その肩はまだどこか落ち着かないままだった。


「ここでも、よくやってくれていると聞いていますよ」


「・・・いえ、それほどのことは」


「あなたは、若い兵に慕われていると。優しい言葉をかけてくれる上官が、どれほど貴重か・・・。

あなたのような人がいてくれて、本当にありがたいと思っているの」


ノアは思わず顔を上げた。

目の前の妃が、まっすぐに自分を見ていた。


「頼りにしています」

シリは微笑んだ。


言葉は出なかった。


ただ、深く頭を垂れることしかできなかった。


凍える風が、回廊をすり抜けていった。


けれど、胸の奥には、かすかな温もりが残っていた。



ノアの館


灯火の揺れる中、ノアは一枚の紙の前にペンを置いたまま、動けずにいた。


紙の上には、既に名前が書かれている。


もう何度も、キヨから手紙が届いている。


この前の手紙は、内容は柔らかいが、明確な誘いだった。


《お前の力が必要だ。わしと共に、世を見てみぬか》


戦友としての情。


そして、ゼンシ亡き今、未来を担うのは誰か――という現実。


だが、ノアはペンを取り、言葉を記していった。


「キヨへ


誘い、誠にありがたく拝読いたしました。

されど、私はゴロク様の恩を受けてここにあり、

また、シリ様の瞳を、今なお忘れられずにおります。


たとえ、いずれそれが“敗北”と呼ばれるとしても―

私は、守るために生きたいと願っております。


・・・それが、私という人間の矜持でございます」


ペンを置いた後、しばらく沈黙が流れた。


暖炉の火が、ぱちりと音を立てる。


ノアはその文をじっと見つめ、やがて、大きく深呼吸をした。


そして、静かに、だが確かに頷いた。


「・・・これで、良いのだ」


それは自分への確認であり、

裏切りではなく、“守る選択”をした男の誓いだった。


その夜、文は封じられ、密かに使者に託された。


外では、また雪が舞い始めていた。

その白さが、ノアの心に刻まれた決意を、そっと覆っていくようだった。



奥でマリーが暖炉に薪をくべていた。


ノアは、静かにその様子を眺めていた。

先ほど、キヨへの文を使者に託したばかりだった。


「マリー」


「はい」


マリーが顔を上げると、ノアは深く息を吐いた。


「・・・私は、ゴロク様をお守りする」


その言葉は、どこまでもまっすぐだった。


マリーは驚かなかった。


ただ、少しだけ、目を伏せた。


「キヨ様からの手紙に、答えを出されたのですね」


「ああ。キヨの言うことも正しい。

奴は“時代”を見ておる。私よりも、ずっと先を。だが、私には、それができない」


ノアはマリーの隣に座り、火を見つめながら続けた。


「ゴロク様は、不器用で、古い。けれど、私を人として育ててくれた。

あの方の背中を、わしは何度も追ってきた」


「・・・ゼンシ様の時代から、ですね」


「そうだ。そして、シリ様は・・・あの方は、ゼンシ様の影そのものだ。

そのお方が、今もあの城でゴロク様を支えておられる」


火がぱちりとはぜた。


マリーは少し間をおいてから、そっと尋ねた。


「その選びが、私たちの家を危うくするかもしれません。

それでも、悔いはないのですか」


マリーの問いに、ノアはしばし黙したのち、低く口を開いた。


「昔、初陣のときだった・・・」


暖炉の火がはぜる音だけが、静かに響く。


「私は震えていた。剣も握れず、足が動かなかった。敵に囲まれ、もう終わりだと思ったとき・・・」


ノアの目が、火を見つめたまま遠くなる。


「ゴロク様が現れて、ただこう言ったのだ――

『逃げてもいい、お前が生きて帰れば、それが勝ちだ』と」


マリーが、そっと息を呑む。


「私を罵るでもなく、責めるでもなく・・・そう言って背を向け、敵の前に立った。

私は、その背中に・・・一生、敵わないと思ったよ」


ノアは小さく笑い、そして続けた。


「だから私は、あの背中を追い続けた。

それで十分だ。正しいかどうかより、私は義に報いたいのだ」


マリーは、わずかに目を潤ませながらも、微笑んだ。


「それなら、私も信じております。

あなたが選んだ道ならば、きっと悔いのない未来に繋がると」


その言葉に、ノアもまた微笑み返した。


外では、雪が少しだけ弱まっていた。

それはまるで、迷いを包み隠してくれるような、優しい白だった。



ワスト領 キヨの城


外では雪が止み、薄曇りの空が淡く広がっていた。


キヨのもとに、一通の文が届いた。


「シズル領より、ノア殿からでございます」


使者が差し出した封を、キヨは無言で受け取る。


やがて、ゆっくりと文を開いた。


その筆跡は変わらぬ、まっすぐなものだった。


一行ごとに、キヨの指が微かに震えた。

読んでは目を閉じ、また読み返す。


やがて、すべてを読み終えたあと――

キヨは、ふっと小さく笑った。


「・・・さすがだ」


その声には怒りも苛立ちもなかった。

むしろ、懐かしさと寂しさが混ざっていた。


キヨの弟 エルが静かに近づく。


「返事は・・・」


キヨは首を横に振った。


「敵に回る、と?」


キヨは天井を仰いだまま、しばし黙る。


「余計な情は戦に要らぬと、何度も言い聞かせてきた。

・・・けれど、あいつの情が、こんなに強いとはな」


視線を落とし、呟くように言った。


「ノア、お前がもし、わしの隣におったら――この争いは勝てるのに」


その瞳に、未だ敗色はなかった。


「・・・まだ、諦める段階ではない」


キヨがそう呟くと、傍らのエルが眉を動かした。


「兄者は諦めるつもりは、ないと?」


「当たり前だ。あいつが“義”を選んだことくらい、最初からわかっとる。

けどな、ノアの中には、まだ“わしとの日々”が残っているはず」


キヨは机を叩いて立ち上がった。


「義は、風と共に揺れる。

雪が解け、春が来たとき――あいつはまた、迷うはずだ」


エルが一歩前に出て、慎重に問うた。


「では、もう一度手紙を送りますか?」


「いや、今度は言葉じゃない」


キヨはにやりと笑った。


「ゼンシ様の形見、あの剣を送る。

あいつとわしとで、初めて一緒に戦った時のものだ」


「・・・情に訴えるのですね」


「情と理は、戦ではどっちも要る」


キヨは窓を開け放ち、冷たい風を受けた。


「今は送らなくて良い。雪がとけた頃、心も揺らぐだろう・・・再び手紙と剣を送ろう」


「承知しました」


「まだ、終わりではない。

わしは諦めないぞ。ノアが“心”を見せてくれるまでな」


「はい」


「今年の夏には、シリ様がこの城にいるはずだ。二階の――妾部屋にな」


キヨはそう言いながら、ゆっくりと窓の外を仰いだ。


その視線の先には、城の西棟に並ぶ部屋のひとつ。


「・・・あそこは日当たりが良い。景色も良い」


自分でも何を言っているのか、一瞬わからなくなった。


エルの呆れたような視線が刺さる。


ーー妾部屋と呼ばれるその場所に、陽光など、誰が気にするだろう。


だが、口にしてしまったのだ。


まるで、そこに彼女が立ち、光の中で微笑んでくれるとでも思うかのように。


キヨはふっと鼻で笑った。

それは勝利者の笑みというにはあまりにも、寂しげで。


「・・・妾としてしか迎えるのが、わしの限界だな」


誰に向けたのかもわからぬまま、そう呟いた。


窓の外、遠く雪をかぶった山の向こうに、シリとノアがいる。


キヨは、なおも信じていた――


自分の手で“あの二人”を引きずり下ろせると。


次回ーー明日の9時20分

第5章 最終話

縁談を告げられた日、ユウは自分の心の声に気づき始める。

だけど、それを言葉にするには――あまりに早すぎた。

気づいてしまった想い。抑えきれない衝動。

そして、雪の中、ふたりの距離が静かに揺らぎ出す。

「選べることは、幸せですか?」

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この物語は続編です。前編はこちら ▶︎ https://book1.adouzi.eu.org/n2799jo/


おかげさまで累計10万9千PV突破!

兄の命で政略結婚させられた姫・シリと、無愛想な夫・グユウ。

すれ違いから始まったふたりの関係は、やがて切なくも温かな愛へと変わっていく――

そんな物語です。

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