揺らぐ心と、少女の終わり
朝の空気は冷たく張りつめていた。
シリの寝室を出てから、エマの胸の奥に、
小さな針が刺さったまま抜けずにいるような痛みが残っていた。
泣いた跡の残る顔で「大丈夫」と言った主の姿が、瞼の裏に焼きついている。
――本当に、大丈夫なのでしょうか。
あれほど強く、気丈だった方が・・・。
けれど、妃とはそういうものだ。
誰にも頼らず、泣きたい時にすら涙を飲み込む。
そんな姿を何年も見てきたからこそ、今朝の「弱い笑顔」が、かえって痛かった。
気持ちを切り替えるようにエマは背筋を伸ばし、三姉妹の部屋の戸を軽く叩いた。
「おはようございます、失礼いたします」
部屋に入ると、弱い冬に陽の光が差し込んでいた。
窓辺でレイが髪を編み、ウイが刺繍をしている。
奥ではユウが本を読みながらこちらを振り返った。
その穏やかな光景に、エマはふっと安堵の息を吐く。
――あの子たちが穏やかに過ごせるのなら。
シリと、そしてグユウが望んだ未来。
それだけで、救われる気がする。
「ユウ様、今日のご予定です。昼食はフレッド様と、お茶はリオウ様と・・・」
「・・・」
ユウは読んでいた本をパタンと閉じた。
「わかったわ」
「フレッド様は、今日も昼食をご用意くださっているとか。猪肉のスペアリブだそうです」
「そう・・・そういえば前に、そんな話をしていたわ」
「美味しそうね!」と、ウイが目を輝かせる。
ユウは目を細めてウイの方を見る。
「・・・そうね」
「リオウには、この本を貸す予定です」
ユウは手元から分厚い戦術書を取り出した。
ウイは慌てて、膝の刺繍に視線を落とした。
その顔には僅かな歪み。
何でも見抜くエマに悟られたくなくて、ひたすら糸を刺し続ける。
「姉上、最近・・・楽しそうだね」
レイがぽつりとつぶやいた。
「・・・前よりは、ね」
ユウは少し笑って、目を伏せた。
◇
昼食時、給仕として客間に入ったエマは、思わず目を見開いた。
目の前に並ぶのは豪快な骨付き肉の皿。
フレッドが楽しげに説明している。
「こうやって、歯で思い切り食いちぎるんだ」
「えっ、そんな振る舞い・・・」
ユウは戸惑い、目を白黒させた。
手づかみで肉を食べる、歯で食いちぎる、どれもしたことがない。
「いいから、やってみろ」
フレッドは笑いながら、骨付き肉を手渡す。
恥ずかしそうにそれを受け取ったユウが、一口かじり、ふと笑った。
その笑顔を見た瞬間、エマの中の時間が止まった。
ーーこんな表情を、ユウ様が・・・?
その表情に、フレッドは頬が染まる。
しばらく、ユウの顔をみた後に、
「顔に・・・ソースが」
そう言いながら、彼はハンカチを差し出した。
午後、リオウとのお茶の場でも、ユウは夢中で戦術書を語っていた。
その横顔はまるで光を帯びたようで、
リオウは一言も挟まずに、ただその姿を見つめていた。
ーーお似合いだ。
エマは、心の中でそう認めた。
昔のシリ様とグユウ様のよう。
ーー少しずつ、ユウ様は変わり始めている。そのことが、今はただ、嬉しかった。
◇
だが、夕刻。
何気なく廊下を歩いていたエマは、ふと窓から、庭の片隅で話す二人の姿を見つけた。
ユウと、シュリ。
雪が降り積もる中庭の片隅で、二人は黙って並んで座っていた。
距離はあるのに、その間の空気はあまりにも近かった。
シュリが何かを言う。
ユウが少し笑う。
その表情を見た瞬間、エマの心がぞわりと凍った。
ーー女の顔だった。
どんなに素敵な殿方がそばにいても。
どんなに楽しく笑っていても。
ーーユウ様のお心が向いているのは、やはり。
エマは、自分の胸の奥がじわりと沈んでいくのを感じた。
それは呆れでも、怒りでもない。
ただ、どうしようもない不安と痛みだった。
ユウとシュリが並ぶその光景を見たあと、エマは足音を忍ばせてその場を離れた。
廊下を曲がり、シリの部屋の前にたどり着いたときには、胸の奥がじんわりと重たくなっていた。
扉をノックする。
「・・・入って」
中から聞こえたシリの声は、どこか疲れていた。
「失礼いたします。お茶をお持ちしました」
「ありがとう、そこに置いて」
エマは言われた通りに盆を置き、しばらくそのまま立っていた。
シリは窓辺に座り、ぼんやりと外を見ている。
その横顔は、どこか物思いに沈んでいた。
「・・・今日は冷えますね」
エマがぽつりとそう言うと、シリはかすかに頷いた。
「ええ。・・・けれど、そのうち春が来るわ・・・」
ふと、外で足音が止まる気配がした。
扉が静かに開き、ゴロクが姿を現す。
「・・・シリ様」
「ゴロク?」
「私はこれで」
エマが慌てて頭を下げて部屋から退室しようとした。
「エマ、部屋に残って良い」
ゴロクが引き止めた。
そして、シリの顔をみてつぶやいた。
「大事な話がある」
次回ーー本日の20時20分
ゴロクの決断、それは、未来を託すものだった。
ユウに向けられた視線、静かに告げられた真意。
そして、シリが最後に問いかけたのは――「妾たちはどうしますか?」
静かに積もる雪の中、誰もが知らぬ別れの気配が忍び寄っていた。
次回 「子を持たぬという選択」
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この物語は続編です。前編はこちら ▶︎ https://book1.adouzi.eu.org/n2799jo/
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兄の命で政略結婚させられた姫・シリと、無愛想な夫・グユウ。
すれ違いから始まったふたりの関係は、やがて切なくも温かな愛へと変わっていく――
そんな物語です。
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