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与えられた場所で生きていくーー謝る勇気と許す心

扉が閉まり、シリの足音が遠ざかると、しばらく部屋には静寂が落ちた。


誰もがその場からすぐには動けずにいた。


妾たちの部屋に正妃が現れ、微笑み、紅茶を飲み、

スコーンを差し出し、首の傷の理由を語って去っていった――


それは、現実とは思えないほど、奇妙で、そして温かな夢のようだった。


「・・・あああ、もうっ!」

ドーラがふいに声を上げた。


「緊張したわ、どうしていいかわからなかった!」

言いながらも、どこか浮き足立ったような声だった。


「でも・・・やさしかったですね」

プリシアがぽつりと続ける。


「なんだか、ずっと遠い人だと思ってたのに。今日、お話して・・・少しだけ、近くなった気がします」


ふたりがぽつぽつと思い出話のように語りはじめる中で、フィルはただ黙っていた。


椅子に深く座り、紅茶の残りを見つめる。


カップの底に沈んだ小さな紅茶の葉が、濁った影のように揺れている。


ーー何をしてるのよ、私は。


言葉にはしなかったけれど、心の中で誰かに問いかけるような気持ちだった。


この部屋で、何度も口にした妃の陰口。


あの笑顔を向けられるたびに、知らず知らず、胸の奥がざわめいていた。


ーーあの人は、悲しい目をしてた。だけど、強い人だった。


母を知らない自分にとって、母のような存在に嫉妬する気持ちはきっとどこかにあった。


それでも。


今日のあの姿を見たあとでは――もう何も言えなかった。


「ねえ、フィル?」


ドーラに声をかけられても、フィルはただ小さく頷くだけだった。


会話には加わらなかったが、ふたりの声を静かに聞きながら、

頭の中で何度も、シリの言葉が繰り返されていた。


ーーそれでも、与えられた場所で生きていくの。それが妃。


目の奥が少し熱くなる。


ーー黙っているのは、言葉が出ないからか。


それとも、今話すと、きっと涙が出てしまうから。


どちらにせよ、フィルはその夜、しばらく寝つけなかった。



翌日。


朝の作業場に顔を出したフィルは、ユウの姿を見つけるなり、目を逸らした。


「おはようございます」

俯きながら、小さく話す。


「おはよう」


ユウもそれ以上は追及せず、静かに軟膏作りに向き合った。


ぎこちない空気が一日中フィルの肩に重くのしかかっていた。


そして、夕方。


中庭の石畳の縁に、ユウとシュリが肩を並べて腰をかけていた。


遠くを見ながら何かを話している。


二人の姿を見た瞬間、フィルは一度は背を向けた。


でも、数歩行ったところで足を止め、ぎゅっと拳を握り直す。


ゆっくりと引き返すと、ユウとシュリの前に立ち、気まずそうに声をかける。


「・・・昨日のこと、だけど」


ユウが驚いたように顔を上げる。


フィルは、視線を合わせずに、ぽつりと口を開いた。


「悪かったわ。・・・あんな言い方して」


風が吹き、フィルの黄色の髪がふわりと揺れる。


「昨日・・・妃が妾部屋でお茶を飲みに来て・・・妃の大変さを少しだけ知ったわ」


シュリが何も言わず、静かに耳を傾けている。


「謝るのって、なんか、負けたみたいでイヤだったけど・・・」


そう言って、ようやくユウの目を見た。


「逃げてばっかじゃ、あの人に笑われるわよね」


フィルをゴクリと喉を鳴らしてから伝えた。


「言いたかったの。昨日は、ごめん」



不器用な言葉だった。



けれど、その一言に、ユウはふっと目を細めて微笑む。


「良いのよ。ありがとう」


その言葉に、フィルは照れくさそうにそっぽを向いた。


でも、その頬はほんのり赤く染まっていた。


そのまま、ふいと背を向けて歩き去っていった。


その背中をユウは黙って見送った。



風が止み、しばしの静寂が二人のあいだに降りる。


すると、隣にいたシュリが、そっと言葉をかけた。


「ユウ様・・・素晴らしい対応でした」


その声は、どこまでも穏やかで、どこか誇らしげだった。


ユウは一瞬、空を見上げ、そして小さく首を振る。


「・・・そうでもないわ」


ぽつりとつぶやくように言ったその声は、どこか寂しげで、少しだけ震えていた。


「フィルのほうが、勇気があったと思う。謝るって・・・難しいのよ」


「はい」


シュリはそれ以上何も言わず、ただその横顔を見つめる。


ユウは、少しだけ目を細め、かすかに唇を引き結んだ。


風がやんだあとの静けさの中、

フィルの姿が完全に見えなくなったのを確認してから、ユウはそっと息を吐いた。


「でも・・・姫らしい振る舞いができた自分に、ホッとしてるの」


言葉とは裏腹に、その声にはどこか苦さが滲んでいた。


「心の中では・・・本当は荒れ狂ってたの」


「・・・それでも、姫らしい振る舞いでしたよ」


隣で控えていたシュリが、そっと言う。


その声音には真摯な敬意が込められていた。


ユウは小さく首を振った。


「こういうことがあるたびに・・・毎回、心が乱れると思うの」


「そうですね」


シュリは苦笑した。


けれど、その表情に浮かぶのはあたたかさだった。


「でも・・・その時に、シュリが隣にいてくれたら」


ユウは小さく笑って、目を細めた。


「きっと、乗り越えられるわ」


「・・・はい」


シュリは思わず息をのんだようにして、ユウをまっすぐに見つめた。

その瞳に、ためらいも、疑いもなかった。


ーーそばにいること。


乳母子の自分にはできる。


ーー例え、叶わぬ恋だとしても、ユウのそばにいることは許される。


「頼ってばかり・・・未熟で、ごめんね」

ユウがつぶやく。


シュリの胸の奥が、じんと熱を帯びた。


「・・・そんなこと、ありません」


そう即座に返した自分の声が、

ほんの少しだけ震えていた気がして、慌てて視線を下げる。


ーー本当は、未熟なままでいてくれたら、と思ってしまう。


自分を必要としてくれる、その不安定さが、心を締めつけるほど愛おしかった。


けれど、それはあまりにも身勝手な感情だ。


ーーユウ様は、もっと強く、もっと高い場所へ行く方だ。


それがわかっているからこそ、傍にいると誓いたい。


ーーせめて、歩みの隣に。


風がまたひとつ、枝葉を揺らしていった。


ユウはそんな風の音を聞きながら、ちらと横を見た。


ーーどうして、この人は・・・こんなにもまっすぐに、私を見てくれるのだろう。


怖くなるくらい、まっすぐで、眩しくて。


けれど、その視線に、すがりたくなる。


「シュリが隣にいたら・・・頑張れる」


小さな声で、ユウが言う。


シュリは、少し驚いたように目を見開いた。

そして、深く、深く、うなずいた。


「はい。いつまでも」


その返事に、ユウはもう何も言わなかった。


ただ、ほんの少しだけ、安心したように笑った。


それを見たシュリは、心の奥で、そっと願った。


ーーどうか、この笑顔を守れるように。


風が止み、葉のざわめきが静まる。


その笑顔は、凛とした誇りと、かすかな揺らぎを内に秘めていて。


――こうして、少しずつでも前へ進めるのなら。

そう思えるだけで、今は充分だった。


陽が落ち、空が茜に染まり始める。


二人の影が、並んで長く伸びていった。


◇ シリの部屋


その日の夜、窓辺に手を置いたままシリはじっと外を見ていた。


ーーあの三人と交流が持てたのは良かったわ。


妾たちとの距離が縮まっている。


その手応えを感じていた。


その時、部屋の扉が、静かに叩かれる。


「・・・入って」


扉が開くと、そこにいたのは、ゴロクだった。


次回ーー今日の20時20分


「ただ、あなたを抱くだけの夫ではいたくない」

9年越しに交わされた唇と告白――

妃として、女として、心の鍵を開ける夜。

そして翌朝、シリの胸に残ったのは…温もりと痛み。


次回 鍵をかけていた唇を解く

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この物語は続編です。前編はこちら ▶︎ https://book1.adouzi.eu.org/n2799jo/


おかげさまで累計10万9千PV突破!

兄の命で政略結婚させられた姫・シリと、無愛想な夫・グユウ。

すれ違いから始まったふたりの関係は、やがて切なくも温かな愛へと変わっていく――

そんな物語です。

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