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あの人を、きらいになれない理由

妾たちの部屋に、正妃がいる。


なんとも奇妙で、不思議な空間だった。


フィルは黙ったまま、紅茶をひと口、またひと口と飲み干す。


重たい沈黙が落ちる中、唯一、年嵩のドーラが頼りになる存在だった。


さすがは長く城にいる妾だ。


こういうときの“正しい距離感”を心得ている。


世間話を織り交ぜながら、妃シリとの会話をそれなりに保っていた。


──けれど、自分には無理だ。


何を話せばいいのか、まるで分からない。


頬に紅茶の湯気がかかるのも気づかないまま、フィルは視線をテーブルに落とした。


ーーどうして、この人はここに来るのだろう。


心の奥に、そんな言葉がぽつりと浮かぶ。


自分の夫が、抱いている女たちの元へ。


そんな場所に、正妃が自ら足を運ぶ理由が、フィルには理解できなかった。


誇り? 責任? 優しさ?


どれも綺麗ごとに思えてしまう。


いや、違う。わかってる。


シリ様は「良い人」だ。


ーーだからこそ、やるせなかった。


紅茶のカップをそっと戻しながら、フィルはただ黙って、妃の横顔を見つめていた。


「シリ様・・・今日は、どうしてこちらに?」


ドーラが静かに問いかけた。


声は柔らかいが、部屋の空気を代表していた。


シリはふわりと微笑む。


「あなた達は、争いの準備を手伝ってくれている。そのお礼を言いたくて・・・」


少し間を置き、視線をそっとフィルへと向ける。


「それと・・・少し、話がしたくて」


言葉は淡々としていたが、その一瞬の視線に――フィルは思わず息を呑んだ。


自分に、向けられた気がしたのだ。


なぜ?

昨日、ユウと話したから? 何か、伝わっている・・・?


けれど、妃はすぐに視線を戻し、何事もなかったかのようにスコーンに手を伸ばしていた。


――気のせいかもしれない。けれど。


フィルの胸の奥に、微かなざわめきが残った。


「このお菓子はね、皆に配っているの。侍女や女中にも」


テーブルの上には、焼きたてのスコーン。


「美味しいわよ」


シリはクロテッドクリームを添えて一口、静かに頬張る。


「フィルも、どうぞ」


その何気ないひと言が、どこか母親のような響きを持っていた。


フィルは、はっとしてその顔を見つめた。


ーーこの人は、何も知らないのか。


それとも全部、わかっていて――。


「・・・フィル? どうしたの?」


気づいたシリが、優しく問いかける。


「いえ」


視線を外すように、フィルは黙ってスコーンに手を伸ばした。


甘く香る焼き菓子のあたたかさが、少しだけ心のこわばりを溶かしていく。


その時、プリシアが恐る恐る口を開いた。


「シリ様・・・前から、伺いたかったのですが」


「なあに?」


「その・・・お首の傷・・・」


遠慮がちに向けられた視線。


言葉を選びながらも、プリシアは問いかけた。


シリの首には、うっすらとだが、横に走る傷跡があった。


気づかぬふりもできるが、目立たぬわけでもない。


ずっと、気になっていた。


「・・・これですか」


シリは指先でそっと自分の首に触れる。


白い指が、その細く深い痕をなぞった。


「これは・・・離婚協議の時に、私が自らつけた傷です」


一瞬、部屋の空気が止まった。


「離婚協議・・・?」


「妃が・・・?」


「なんで・・・首に・・・?」


驚きと困惑が、妾たちの間に広がる。


誰もが、口にする言葉を選べなかった。


でも、シリはただ静かに微笑んだまま――まるで、自分の傷ではないように穏やかだった。


「私がワスト領で妃をしていた頃、夫と兄が争いを起こしました」


シリの声は淡々としていたが、その奥に、わずかな震えがあった。


「嫁ぎ先と生家が争えば、離縁は当然。それでも、私は・・・離婚したくなかったの」


「・・・どうしてですか?」

プリシアが息をのむように尋ねた。


「夫のことが好きで・・・離れるのは、考えられなかったのよ」


静かに微笑むシリの表情に、部屋の空気がゆっくりと変わっていく。


「・・・そんな情熱をお持ちだったのですね」

ドーラが目を見開くようにして言った。


彼女の知るシリは、理性的で公私のけじめを大切にする女性だった。


遠征に赴く夫に、自ら妾の同行を申し出る、あの冷静な妃が、

周囲を顧みず心のままに動くなど――思いも寄らなかった。


「離婚するなら、ここで首を切る。そう、啖呵を切ったの。その時・・・ゴロクが目の前にいたのよ」


――そんな決意を、目の前で告げられた男は、どんな気持ちだったのだろう。


妾たちは、声を失っていた。


「そんなに好きだった人と・・・どうして?」

答えは分かっているのに、フィルは思わず訊いていた。


「・・・争いに、負けたの。夫は戦死して、城も滅んだ。でも――私は、後悔していない」


そう言って、シリは自分の首筋をやさしく撫でた。


「その・・・前のご主人とは、どうやってお会いになったのですか?」


プリシアが遠慮がちに問いかける。


妾たちにとって、妃の私生活は未知の世界だった。


顔を合わせることすら稀で、知る機会もなかったのだから。


「もちろん、政略結婚よ。姫に選択肢はないの」


静かに語られた現実に、妾たちは言葉を失う。


その瞬間――

フィルの胸に、昨日のユウの言葉がふと蘇った。


「知らない土地に嫁ぎ、顔も見たことのない領主と結婚し、子を産む。それが妃」


「・・・嫌ではなかったの?」

フィルは、自分でも気づかぬまま声に出していた。


「嫌だったわ。嫁ぐ前夜、逃げ出したくて・・・」

けれど、シリは苦笑しながらも、続けた。


「それでも、逃げなかった。――妃だから」


「ご結婚前に、心惹かれた殿方はいらっしゃいましたか?」

ドーラが、興味を隠さず身を乗り出す。


「いなかったわ。私の初恋は・・・夫だったの」


そう言って、照れくさそうに微笑むシリ。


その表情に、部屋の空気が一瞬和らぐ。


こんな顔をする妃を見るのは初めてだった。


――本当に、好いていたのね。

フィルは、胸の奥が少しだけ軋むのを感じた。


「でも、姉たちは違ったわ。想う人がいたみたい。・・・泣きながら嫁いでいったの」


ぽつりとこぼれた言葉に、再び沈黙が落ちた。


「妃って・・・大変なのですね」


「ええ。自由は、ほとんどないわ」


そう言ったシリの声には、誇りも、静かな痛みも、同時に宿っていた。


「それでも、与えられた場所で生きていくの。それが妃」


その一言を聞いて、プリシアがぽつりと呟く。


「・・・少しだけ、シリ様のことがわかった気がします」


その声は、静かだったが、どこか熱を帯びていた。


「ずっと遠い世界の人だと思っていました。でも・・・私たちと、あまり変わらないんですね」


その一言に、フィルの喉がきゅっと締めつけられた。


ーーごめんなさい。


そんな言葉が、不意に胸の中からこぼれた。


――自分は何も知らずに、妃に対して、勝手な想いを抱いていた。


まるで、母を奪われたような、嫉妬のような、そんな感情を。


だけど、シリもまた、戦っていたのだ。

理不尽な運命の中で、静かに、懸命に。


その姿に、フィルははじめて――「妃」という存在の重みを、ほんの少し、理解したような気がした。


フィルは、紅茶のカップを手にしながら、静かに視線を落とす。

――シリの笑顔が、胸に焼きついて離れなかった。


ーーあんなふうに笑える人だったのね。


夫を亡くして、領土を失って、それでも笑っている。

自分を失わず、誰かを包み込むように、微笑んでいられる。


ーーきれいな人。


そう思うのに、不思議と羨望だけではなかった。


昨日のことを、ユウがシリに話したのではないか。

わざわざ妾部屋に来てまで、私のことを――。


そう疑ってしまうほど、胸がざわついていた。


それでも。

シリの話を聞いて、心のどこかが静かになった。


争いの中で、命を賭して守りたかった人がいたこと。


悲しみを乗り越えても、優しさを捨てなかったこと。


そして、与えられた場所で生きるという覚悟。


ーー私に、それができるだろうか。


こんな風に話す人をフィルは知らなかった。


フィルは、自分の手元の紅茶を見つめた。

その手は、ほんの少しだけ震えていた。


――ユウに、謝りたい。


けれど、自分にそれができるだろうか。


まだ言葉にはならなかった。

でも、それでもいいと思った。


その日、フィルの中で、何かが少しだけ変わった気がした。


次回ーー明日の9時20分更新


妃が妾たちの部屋を訪れた。

語られたのは、首の傷の理由と、愛した人の死。

フィルの心に、知らなかった「妃の重さ」が残る――

そして翌日、ユウに向けた、震える言葉。

それは、少女が初めて見せた勇気だった。


次回「与えられた場所で生きていく」


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この物語は続編です。前編はこちら ▶︎ https://book1.adouzi.eu.org/n2799jo/


おかげさまで累計10万9千PV突破!

兄の命で政略結婚させられた姫・シリと、無愛想な夫・グユウ。

すれ違いから始まったふたりの関係は、やがて切なくも温かな愛へと変わっていく――

そんな物語です。

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