訪問は突然に――この胸のざわめき
夜の帳が降り、灯の消えた部屋に、密やかな声と布の擦れる音が漂っていた。
シリは目を閉じたまま、そっと息を吐く。
彼の腕が自分の肩を包むぬくもりを、静かに受け入れる。
ーーこの人は、良い人だ。
いつも子どもたちを大切にしてくれる。
誰よりも穏やかに、私を尊重してくれる。
この城で、私たちが不自由なく暮らしていけるのは――彼がいるからだ。
それでも。
どうしてだろう。
重ねられる夜のたびに、受け入れることに抵抗を感じてしまう。
ーー夜さえなければ良いのに。
そう思ってしまうことに、罪悪感があった。
こんなにも誠実な人に、心を返せない自分が嫌だった。
けれど、優しさに背を向ける勇気もなかった。
安らぎの中に身を置くことを、もう手放せないのもまた本音だった。
彼は優しい。
妃として、彼が望んでいることに応えないとーー。
眠る彼の呼吸が静かに肩を揺らしている。
シリはそっと、胸の奥を手で押さえた。
そこでまだ、ひとつの想いが眠ったまま、動かずにいるのを感じながら。
「おはようございます」
労りと気遣いを見せながら、エマが挨拶をしてくる。
シリは椅子に座り、窓から差し込む弱々しい冬の朝の光を見上げた。
その髪に櫛を通すエマの手は、いつものように丁寧で、穏やかだった。
「・・・今日は、ドーラたちの部屋に行こうと思うの」
静かに告げた声に、エマの手がわずかに止まる。
「・・・おや、それはまた急に」
「ずっと、考えていたのよ。あの子たちとも、もう少しちゃんと向き合わなきゃいけないって」
「向き合う必要なんて、おありですか。あちらは“妾”、シリ様は・・・」
エマの言葉に、シリは微笑みながら首を振った。
「立場の話じゃないわ。・・・同じ屋根の下にいる。だからこそ、知らないふりをしたくないの」
その声は、夜の余韻を奥に沈めながらも、どこか決意を含んでいた。
「私があの子達の部屋を訪ねたら、驚くかしら?」
「ええ、きっと腰を抜かすでしょうね。特に・・・フィルあたりは」
二人の間に、くすりと小さな笑いが生まれる。
けれどシリの瞳には、少しの曇りがあった。
夜を越えた朝に――心を繕うように笑う、この城の来てからずっとだった。
その横顔を、エマはそっと見つめた。
◇
ノルド城の西のはずれ――
朝日が届きにくい長い廊下の奥、しんと静まった一角に、妾たちの部屋はあった。
シリは慎重に足を運び、扉の前で立ち止まる。
ひと呼吸おいて、そっと扉をノックした。
「・・・はい?」
小さな音とともに、扉が開く。
顔を出したのはプリシアだった。
大きな瞳がシリを見た瞬間、驚きがその表情を染める。
「え・・・あ・・・はい!」
挨拶も混乱も混ざったような声。
プリシアは慌てて頭を下げた。
「お邪魔しても、良いかしら?」
シリはやわらかく微笑みかける。
「は、はいっ! ど、どうぞ・・・!」
あたふたと身を引いたプリシアの横を通りながら、シリは部屋の中を見渡した。
窓の小さな部屋、奥の椅子にはフィルが座り、ちらりとこちらを見てから目を細めた。
ドーラは思わず立ち上がり、戸惑いの表情を隠せずにいた。
部屋の空気が、重く静まる。
けれど、シリはあえて明るい声で言った。
「今日は、焼き菓子をたくさん作ってもらったの」
手にした布の包みをテーブルの上に置くと、香ばしい甘い匂いがふわりと立ちのぼる。
「消化には悪いけれど・・・こういうものは、皆で楽しんだ方が美味しいでしょう?」
シリはにっこりと笑った。
「・・・は、はい」
プリシアが反射的に返事をする。
ドーラも、少し遅れて口元をほころばせた。
「まあ・・・嬉しいです」
テーブルに集まる彼女たちの間に、ぎこちないながらも少しずつ色が差していく。
フィルはしばらく無言のまま、焼き菓子の包みを眺めていた。
そして、ふと目を上げ――
目の前のシリの顔を、じっと見つめる。
そのまなざしには、どこか複雑な感情が揺れていた。
怒りでも、憎しみでもなく。
ただ、言葉にならない何かが、胸の奥に沈んでいるような――そんな瞳だった。
フィルは、テーブルの焼き菓子に視線を落としたまま、口を閉ざしていた。
けれど心の奥では、別のざわつきが広がっていた。
ーー昨日の夕方のこと、まさか、あの姫が話したの?
昨日の出来事が脳裏によぎる。
ユウの睫毛の震え。視線の揺れ。
戸惑いと怒り――あれは確かに“触れた”のだ、心のどこかを。
ーーまさか・・・そのことで、お説教に?
この静かな訪問が、裁きの前触れのように思えてならない。
それでも、妃はにこやかに笑っていた。
焼き菓子を差し出しながら、まるで何も知らぬような顔で。
ーー嘘くさい。
疑いと困惑。
胸の奥にわきあがる言葉を飲み込み、フィルは無言のまま、じっとシリを見つめた。
そのまなざしには、敵意でも媚びでもない。
ただ、警戒と――ほんの少しの、期待と、怖れが混じっていた。
次回ーー20時20分 更新
「これは、私が自らつけた傷です」
正妃の言葉に、空気が凍りつく。
その告白は、妾たちの心を静かに、でも確かに揺らしていく――。
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この物語は続編です。前編はこちら ▶︎ https://book1.adouzi.eu.org/n2799jo/
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兄の命で政略結婚させられた姫・シリと、無愛想な夫・グユウ。
すれ違いから始まったふたりの関係は、やがて切なくも温かな愛へと変わっていく――
そんな物語です。
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