春が来る前に、心が裂けそうだ
軟膏作りの作業部屋は、薬草と蜜蝋の香りに満ちていた。
「これは熱を取る葉よ。焦がさないように気をつけて」
シリの声は、火のはぜる音を包み込むように柔らかかった。
フィルは黙々と作業を続けていた。
何度も繰り返した手順なのに、その日は少しだけ指先が鈍った。
「フィル、ありがとう。とても助かるわ」
ふいにかけられた声に、びくりと肩が跳ねた。
振り向けば、シリが微笑んでいる。
あたたかい眼差しに、心の奥がじんわりと揺れた。
「・・・別に」
短く返して視線を逸らす。
その瞬間、隣でユウがシリに話しかけた。
「母上、この軟膏、前より香りがいいですね」
「そう? あなたが丁寧に混ぜてくれたからよ」
二人は穏やかに微笑み合う。
何でもない親子の会話。
けれど、そこには自分の知らない“時間”が確かに流れていた。
――ずるい。
胸の奥で、小さく呟いた。
シリは、誰にでも平等に接する人だ。
妾である自分にも、分け隔てなく優しい。
そう頭ではわかっている。
それでも、あの微笑みはユウにだけ向いている気がして、心がささくれた。
ーー私には、母親なんて、いなかったのに
気づけば、手元が止まっていた。
湧き上がる感情に、自分でも戸惑う。
ーー妬み? 寂しさ? わからない。
ただ、どこか悔しかった。
もう一度、木べらを握り直し、作業に戻る。
蜜蝋の甘い香りが、わずかに目にしみた。
◇
「頼りになる妃様だな」
ノルド城の一角で、ジャックが脱帽しながらぽつりと言った。
ノアは頷くだけだった。
口にするには、心が重すぎた。
その夜。
帰宅したノアを、妻のマリーが迎えた。
「あなた。また手紙が届いているわ」
差出人は、見なくてもわかる。
キヨ――かつて肩を並べて戦った戦友。
今は、天下を狙う男。
「・・・キヨ、か」
ノアは静かに封を切った。
文の出だしは、昔のままの軽い口調だった。
『ノアよ、元気にしとるか。そっちは雪だろうな。こっちはまだ歩けるわ』
思わず口元が緩みかける。
けれど、その余裕は長くは続かなかった。
文の後半には、はっきりと誘いが記されていた。
『ゴロク殿の忠義は重い。だが、時代は変わる。
わしは今、ゼンシ様の遺志を背負っとる。
お前の力が要る。もう一度、あの頃のように、わしに力を貸してくれ』
ノアは手紙をそっと伏せた。
暖炉の火がぱち、と小さく音を立てる。
隣室ではマリーが裁縫をしている。
子どもたちの寝息も聞こえる。
この静けさが、春には戦の喧騒に変わるかもしれない。
「・・・キヨ。お前は、本当にまだ“あの頃のまま”か?」
胸の内に広がるのは、昔の絆か、それとも今の不安か。
ゴロクは、命を預けた主だ。
ゼンシのもとで何度も命を救われた。
そして今、ノルド城で必死に指揮を執るシリの姿が、まぶたに浮かぶ。
彼女はただの飾りではない。
賢く、凛とした“未来に立ち向かう妃”だ。
天秤が、揺れていた。
忠義と友情。
過去と未来。
情と理。
「・・・こういうときに限って、あの頃の声で手紙を書くなんて、ずるい」
ノアは机を拳で叩いた。
燃やそうと手紙を持ち上げたが、できなかった。
ただ、夜が明けるのを待つしかなかった。
やがて、マリーがそっと扉を開ける。
「悩んでいるのですね」
ノアは答えなかった。ただ、小さく息をつき、ようやく言葉を絞り出した。
「・・・誰を信じて、誰を守ればいいのか。それが、わからなくなったんだ」
次回ーー 今日の20時20分
冷たい朝、交わる視線と、こぼれた感情。
「想うのは、自由だろ」
その言葉に、心が揺れた。
ふざけていたはずなのに、目を逸らしたのは、自分のほうだった。
次回『想うのは自由 使用人の言葉』
気づいてしまった想いは、もう戻せない。
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この物語は続編です。前編はこちら ▶︎ https://book1.adouzi.eu.org/n2799jo/
おかげさまで累計10万9千PV突破!
兄の命で政略結婚させられた姫・シリと、無愛想な夫・グユウ。
すれ違いから始まったふたりの関係は、やがて切なくも温かな愛へと変わっていく――
そんな物語です。
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