この温もりは恋じゃない
翌朝、窓の外では雪がまだ降り続いていた。
けれど、城内はいつものように静かに動き始めている。
シリは湯を張った桶の湯気を眺めながら、ぼんやりと身支度を整えていた。
肌に残る温もりと、夜の記憶が、胸の奥にまだ滲んでいる。
その時、扉を控えめにノックする音が響いた。
「失礼します」
エマが湯気の向こうから現れ、いつもより少しだけぎこちない仕草でタオルを手渡してきた。
シリはタオルを受け取りながら、ぽつりと呟く。
「・・・疲れた」
エマの手が一瞬止まり、それから曖昧な笑みを浮かべる。
「そりゃ・・・まあ」
「夜通し・・・あの年齢で・・・」
シリはわざとらしく肩をすくめてみせた。
けれど、誰よりもわかっている。
それがただの照れ隠しで、通じるものではないということを。
エマは湯を見つめたまま、そっと答える。
「今日は作業がお休みの日です。ごゆっくりしてください」
シリは言葉を返さず、ただ唇を結んだ。
しんとした朝の空気に、湯気の白が静かに溶けていく。
夜が去っても、心の奥ではまだ、あの腕の重さを覚えていた。
◇
朝食後、部屋で静かに過ごす三姉妹の元に、エマが足早に現れる。
「また・・・?」
ユウが反射的に顔を曇らせる。
「ユウ様、おはようございます」
返事を待たずに、エマは予定を切り出した。
「今日の昼食は、客間でフレッド様と召し上がる予定です」
「・・・昼食を?」
「はい。フレッド様のご希望です。ぜひご一緒にと」
エマはどこか恐ろしいほど丁寧な笑顔で微笑んだ。
「・・・わかったわ」
その返事に、エマは密かにほっとする。
――前より嫌がっていない。
「その後、お茶の時間はリオウ様とご一緒です」
「なぜ、お茶まで・・・?」
「フレッド様が昼食、リオウ様がお茶。これで公平が保たれます」
エマはさらりと口にした。
納得できない様子のユウに、エマはさらに言葉を重ねる。
「春になれば、もっと多くの殿方がいらっしゃいます。その練習です」
ユウは小さくため息をついた。
降り積もる雪では想像もできない未来。
けれど、確かにそれは近づいているのだ――。
◇
テーブルの上に湯気を立てて運ばれてきた鍋を見た瞬間、ユウは思わず息をのんだ。
「・・・これ、何の肉?」
「昨日、山で仕留めた猪。まだ新しいから、柔らかいはずだ」
フレッドが袖をまくりながら、木の杓文字で鍋をかき回す。
出てきたのは、大ぶりに切られた根菜と、骨つきの肉。
透き通ったスープからは深い香りが立ちのぼり、食べる前から喉が鳴った。
「・・・すごい。こんなの、作れるの?」
「こう見えて、料理は得意なんだ」
フレッドが笑うと、その顔は剣を振るう時よりもずっと年下に見えた。
ユウは木のスプーンを取り、一口すくって口に含む。
途端に、舌の上に広がったのは、野性と出汁が溶け合った深い滋味。
猪肉のうまみを根菜が受け止め、ほんのり香る香草が、雪の冷たさを忘れさせる。
「・・・なにこれ。美味しい」
思わず漏れた声に、自分でも照れくさくなった。
その一言に、フレッドの胸がわずかに跳ねた。
「よかった」
彼の声が、少しだけ低くなる。
ユウはスプーンを持つ手を震わせながら、恥ずかしそうに笑った。
火照った頬が、雪の白さを照り返している。
思わず何か言いたくなったが、口から出たのは全然違う言葉だった。
「・・・おい、シュリ、お前も来い」
そう言って、フレッドは椅子から立ち上がった。
「いえ・・・私は」
姫と重臣の息子、そこに乳母子は同席できない。
「いいから。早く座れ」
強引に促され、シュリはためらいながらも椅子に座った。
ユウはにっこりと微笑む。
その笑顔に、フレッドはまっすぐ目を向けられなかった。
――あんな顔、されたら困る。
それが、ただの食事じゃなくなってしまう。
だから、そうなる前に。
三人で食べる、普段の食事に戻そうと思ったのだ。
静かな雪に覆われたノルド城。
その下で、芽吹きはもう始まっていた。
次回ーー本日の20時20分
差し出されたのは、古い戦術書。
思わず弾んだ声に、リオウは静かに微笑んでいた。
けれど、その笑顔の先にいるのは、もう自分ではない。
次回『その隣にはーー自分以外の誰かが」
ほんの少し、心が遠くなる音がした
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この物語は続編です。前編はこちら ▶︎ https://book1.adouzi.eu.org/n2799jo/
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兄の命で政略結婚させられた姫・シリと、無愛想な夫・グユウ。
すれ違いから始まったふたりの関係は、やがて切なくも温かな愛へと変わっていく――
そんな物語です。
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