妾を抱いてください
早朝のノルド城、馬場の稽古場。
今にも雪が降り出しそうな灰色の空の下、空気は刺すような冷たさを増していた。
稽古を終えたシュリは、額に浮かんだ汗を布で拭っていた。
「毎日、頑張っているのね」
唐突にかけられた声に、彼は少しだけ肩をすくめた。
振り返ると、妾のひとり、フィルが立っていた。
シュリは黙ってうなずいた。
「リオウ様と、随分稽古しているのね」
「胸を貸してもらっているだけです」
「あら? そうなの? 違うことで争っているのかと思ったわ」
フィルはわざとらしく目を細め、含みのある微笑を浮かべた。
その言葉の裏を察したシュリは、何も言わず、うつむいた。
フィルはその横顔をちらりと見やり、無性に苛立ちを覚えた。
視線を馬場の先へと向けるとーーシリがいた。
数人の侍女とエマを引き連れ、外壁を指差しながら何かを指示している。
侍女のひとりは紙とペンを持ち、手早く書き留めていた。
「妃だわ・・・」
フィルが訝しげに呟く。
「何をしているのでしょうか」
シュリも首をかしげた。
「あの妃が来てから、ゴロク様は変わられたわ」
その声には、ほのかな苦味が含まれていた。
シュリがそっと見上げると、フィルは忌々しげに唇を歪めた。
「ゴロク様は、私を抱かなくなったのよ」
唐突な物言いに、シュリは目を見開いた。
「私だけじゃない。他の妾もよ」
フィルは豊かな胸元をさりげなく強調するように腕を組んだ。
「若さでは、私の方が勝るのに・・・」
悔しげに呟いたその言葉には、隠しきれない自尊心と寂しさが滲んでいた。
「あなたに魅力がないわけではないと思います」
シュリは迷いながらも、まるでゴロクの気持ちを代弁するように静かに言った。
「・・・それ以上に惹かれてしまったのでしょう、シリ様に」
フィルはふっと笑った。
「妾を引退したら・・・重臣の妻になりたいわ。帰る家もないし」
そして、ふとシュリに視線を向けた。
「それとも・・・シュリ君の妻っていうのはどうかしら」
「えっ・・・」
呆然とするシュリに向けて、フィルは肩をすくめ、からかうように微笑んだ。
「冗談よ。冗談。シュリ君は真面目で可愛いわ」
そう言い残し、くるりと背を向けて稽古場を去っていった。
その背中は、凛として見えたが、どこか寂しげでもあった。
◇
自室に戻ったシリは、机の前に座り、腕を組んで考え込んでいた。
「男手が必要だわ」
小さく呟き、ペンを取り紙に向かう。
その途中、不意に眉を寄せた。
朝から続く鈍い腹の痛み。
トイレで確認すると、月のものが来ていた。
「久しぶりだわ・・・」
赤い色を見つめながら、どこか安堵に近いものを感じている自分に気づき、シリはそっと目を伏せた。
彼女の周期はいつも不安定だった。
それでも、グユウとの間には三人の子を授かった。
シズル領に嫁いでから、ゴロクと何度も夜を共にした。
それでも今、月のものが訪れたということは――
その夜、ゴロクはいつものようにシリの部屋を訪れた。
背中に触れ、寝台へと誘おうとした手を、シリがそっと押さえた。
不思議そうな表情を浮かべるゴロクに、シリは静かに言う。
「ゴロク、今夜は・・・無理です」
「どうされましたか」
「月のものが来ました」
「身体の調子は・・・?」
「平気です。けれど、お願いがあります」
シリはまっすぐに彼を見た。
「・・・政のことです」
「政のこと」
「はい。領主として、子を残すことを考えていただきたいのです」
シリは静かに言った。
「だから・・・妾を抱いてください。子が成せます」
ゴロクは目を見開いたまま、何も言えなかった。
「私は妃としての任務を全うすることが、もう・・・」
その淡々とした口調が、かえってゴロクの胸を締めつけた。
「わかっている」
ゴロクは静かに言い、シリの頬に手を添えた。
ーーわかっている。けれど、それでも。
「しばらくは妾の部屋に通われた方がいいです」
シリの声は変わらず落ち着いていた。
「それが領主としての責務です」
ゴロクはゆっくりとうなずいた。
「・・・シリ様」
彼女を抱きしめながら、懇願するように囁いた。
「ただ、今夜は一緒に寝ても・・・いいですか。声を聞いていたい」
シリは目を伏せたまま、かすかに頷いた。
その翌夜、ゴロクは妾の部屋へと足を運んだ。
ドーラは安堵の表情を見せ、プリシアは控えめに微笑み、フィルはほんの少し拗ねた顔で出迎えた。
そのことを耳にしたとき、シリは一人、部屋の窓辺に立っていた。
ーー愛情がない方が、妃としての役割を果たせる。
政と愛は、別なのだ。
ーーあの人が逝った日、私は心に鍵をかけた。
もう二度と誰も、そこには入れない。
皮肉なものね。
愛は九年前に捨てた。
それゆえに妃の仕事を全うできる。
次回ーー 明日の20時20分更新
寒空の中庭で交わされた言葉、赤く染まる指先。
心の距離は近づいたのか、それとも――静かに揺れるユウとシュリの想い。
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この物語は続編です。前編はこちら ▶︎ https://book1.adouzi.eu.org/n2799jo/
おかげさまで累計10万8千PV突破!
兄の命で政略結婚させられた姫・シリと、無愛想な夫・グユウ。
すれ違いから始まったふたりの関係は、やがて切なくも温かな愛へと変わっていく――
そんな物語です。
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