笑わない姫 心を許す相手は使用人
翌朝のノルド城。
乗馬服を身にまとったシリ、ユウ、レイが廓に立っていた。
付き従うのはマナトとシュリ。
シリが馬に乗ると聞いて、シズル領からの家臣たちはざわついた。
「女性が・・・乗馬を?」
老臣ハウルが蒼白な顔で呟く。
「お怪我をされては・・・」
とノアが口ごもる。
「本当にお乗りになるのですか?」
という眼差しを向けるジャック。
そんな空気の中、シュリが苦笑しながら応じた。
「大丈夫ですよ。皆さん、私よりもずっとお上手です」
ひらりと鞍に跨がったシリは、留守番のウイに微笑んだ。
「ウイ、行ってくるわ」
「お気をつけて」ウイは小さく頷いた。
三姉妹のなかで、唯一乗馬ができないのがウイだった。
それは、この時代ではごく自然なことだった。
その傍らで、レイは無表情のまま馬に鞭を打ち、駆け出す。
静かな馬場に、どよめきが走る。
「まずは城の外周を一周しましょう」
シリが提案し、一行はゆっくりと城壁沿いに馬を進めていった。
老朽箇所がないかをさりげなく確認しながら――。
◇
「行ってしまったわ・・・」
馬場に取り残されたウイは、小さくため息をついた。
一人で待つことには慣れている。
やがて彼女は、廓の隣にある見晴らしの良い窓辺に座り、静かに刺繍を始めた。
一針ごとに、胸の奥の何かを整えるように。
刺繍と向き合う時間が一番心が落ち着く。
――ここにいれば、戻ってきた時すぐに気づけるもの。
どれほどの時が経っただろうか。
刺繍に疲れた指を止め、ふと顔を上げたその先に、リオウが立っていた。
「あなたは・・・ユウ様の・・・」
彼はウイの顔を見つめたまま、名前を思い出せない様子だった。
ウイは寂しさを微塵も見せず、静かに微笑んだ。
「ユウの妹、ウイです」
「ウイ様・・・こんなところで、何を?」
「母と姉が戻ってきたら、すぐに迎えに行きたくて」
リオウの視線が、ウイの手元の布に向かう。
「それ・・・ウイ様が縫ったのですか?」
「はい」
「すごく上手だ」
微笑む彼の言葉に、ウイの胸が高鳴る。
――リオウ様が、私の刺繍を褒めてくれた。
「ウイ様・・・ひとつ聞いても?」
そう言ってリオウは、隣にそっと腰を下ろした。
今まででいちばん近い距離。
鼓動が跳ねる。
けれど、次の言葉はあまりに残酷だった。
「ユウ様の“笑顔”って・・・見たこと、ありますか?」
ウイの表情に、かすかな陰りが差す。
けれど気づかぬまま、リオウは話し続けた。
「ユウ様は、微笑むことはあっても、心からの笑顔を・・・思い出せない。
だから、あの人の笑顔が見たくて、話しかけているんですけど・・・」
言葉を切って、リオウははっとした顔になる。
「すみません、ウイ様の前だとつい、本音が出てしまって」
ウイは穏やかに微笑み返した。
「姉は、喜びを顔に出さない人なんです」
それは、嘘ではなかった。
怒った顔は浮かぶけれど、笑った顔は・・・思い出せない。
「子どものころは、笑っていました。父上が生きていた頃は」
ウイはぽつりと漏らし、それ以上は語らなかった。
「そうなんですね・・・」
リオウは小さく息を吐いた。
「いつか、ユウ様の笑顔を見てみたい」
「・・・そうですね」
そう応えた時――
「戻ってきたわ!」
ウイの声が弾む。
遠くに、馬に乗ったシリと姉たちの姿が見えた。
「すごい・・・女性で、あれほど馬を操れるとは」
リオウが感嘆の声を漏らす。
「母も、乗馬が好きなんです。私は乗れませんが」
リオウとウイの視線は、やがて一人の少女に注がれていった。
金の髪を一つに結び、颯爽と馬を操るユウ。
妹の目から見ても、まばゆいほど魅力的で。
そして――リオウの目は、さっきまでとは違っていた。
熱を帯び、強く彼女を追っていた。
――姉上には、敵わない。
子どもの頃からそうだった。
視線を集めるのは、いつもユウだった。
馬から降りたユウは、手綱を持ち、シュリと何かを話していた。
控えめに答えるシュリ。
そのとき――
弾けるような笑顔が、ユウの顔に咲いた。
「・・・え?」
ウイは、驚きの声を漏らした。
あんなふうに笑う姉を、今まで見たことがなかった。
――なんて、楽しそうな顔。
その傍らには、シュリがいた。
ユウの心を開かせたのは――シュリ。
レイが話していたことを思い出す。
『姉上はシュリの前しか表情を崩さない。いつもみたいに背筋を張ってなくて、
いつも・・・楽しそうよ』
半信半疑だった。
あの姉上が使用人のシュリと心を通わすなんて。
でも、その笑顔を見てしまったら、否定はできない。
ーーレイの言う通りだ。姉上は・・・・。
ウイの胸の奥で、小さな“音”が響いた。
ガラス細工がそっと割れたような、かすかな――けれど確かな音だった。
「ウイ様・・・あの姫の隣にいる者は?」
リオウがふと尋ねた。
ユウの姿を目で追いながら、その隣にぴたりと寄り添う少年に視線を落とす。
「シュリです。乳母子です」
ウイはそう答えながらも、胸の奥がざわつくのを感じていた。
リオウは目を細め、姫とその少年をじっと見つめた。
馬を降りたユウが、手綱を引きながらシュリと何かを話している。
控えめにうなずく少年。
ユウは、弾けるように笑った。
「・・・親しいのですね」
リオウの声が低くなる。
その笑顔を、自分はまだ見たことがないのに――そんな思いが、喉に詰まる。
「乳母子にしては、距離が・・・」
言いかけた言葉を飲み込む。
だが、その表情には明らかな動揺がにじんでいた。
――ユウ様ほどの方が、なぜ。
気の強い美貌の姫。
民の注目を集める、ゼンシの姪。
そんな高嶺の花が、使用人に心を許しているのか。
あれほど気高く、近づきがたい姫が・・・
自分には一度も見せなかったその笑顔を、あの少年に向けたのだ。
思わず、拳を握りしめていた。
どうして、胸がこんなにざわつくのか。
自分は元・領主の息子だ。
自信はないけれど・・・
あの使用人には勝てると思っていた。
勝つ、負けるの段階ではなく、そもそもライバルにもならない存在だった。
姫のような立場の人間が、使用人と恋愛をするなんて、
自分だけではなく、誰も思わないだろう。
けれど――違った。
あの人が求めていたのは、優れた家柄でも、磨かれた言葉でもなかった。
たった一言、短いやりとりの中で、心がふっとほどけるような何か。
それを、あの少年は持っていた。
ーー初めてだ。
心の中で呟く。
こんな感情は。
こんな惨めさは。
ーー勝てないかもしれない。
そんな予感に、足がすくんだ。
リオウの視線が、ユウに釘付けになる。
さっきまでと何かが違う。
胸の奥がざわついた。
ーーこんなふうに、誰かを見たことがあったか?」
視線を逸らしたくても、逸らせなかった。
金の髪が、風に揺れる。
その先にある笑顔が、焼きつくように残る。
ーー自分の胸が、これほど騒ぐなんて。
拳を握ったのは、寒さのせいではなかった。
風が吹いた。
ユウの金の髪が揺れる。
その傍らには、無口な少年――シュリがいた。
彼女が笑うとき、いつもそこには彼がいる。
リオウは、ただ立ち尽くしていた。
その背中に、自分が追いつける日は来るのだろうか。
ならば、自分には何ができるのか――探さねばならない。
その胸に芽生えた感情が、嫉妬なのか、困惑なのか――
自分でもわからなかった。
ただ、ユウが誰かに笑顔を向けるたび、心の奥にざらりとした痛みが残った。
それでも、目を逸らすことはできなかった。
次回ーー9時20分更新
「なぜ、あの人は彼に笑ったのか」
静かな廓で交わる剣と想い。
その一撃に込めたのは、嫉妬か、焦燥か――。
そして、もうひとつの戦いが、静かに幕を上げる。
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この物語は続編です。前編はこちら ▶︎ https://book1.adouzi.eu.org/n2799jo/
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兄の命で政略結婚させられた姫・シリと、無愛想な夫・グユウ。
すれ違いから始まったふたりの関係は、やがて切なくも温かな愛へと変わっていく――
そんな物語です。
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