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笑わない姫 心を許す相手は使用人

翌朝のノルド城。

乗馬服を身にまとったシリ、ユウ、レイが廓に立っていた。


付き従うのはマナトとシュリ。


シリが馬に乗ると聞いて、シズル領からの家臣たちはざわついた。


「女性が・・・乗馬を?」

老臣ハウルが蒼白な顔で呟く。


「お怪我をされては・・・」

とノアが口ごもる。


「本当にお乗りになるのですか?」

という眼差しを向けるジャック。


そんな空気の中、シュリが苦笑しながら応じた。

「大丈夫ですよ。皆さん、私よりもずっとお上手です」


ひらりと鞍に跨がったシリは、留守番のウイに微笑んだ。


「ウイ、行ってくるわ」

「お気をつけて」ウイは小さく頷いた。


三姉妹のなかで、唯一乗馬ができないのがウイだった。


それは、この時代ではごく自然なことだった。


その傍らで、レイは無表情のまま馬に鞭を打ち、駆け出す。

静かな馬場に、どよめきが走る。


「まずは城の外周を一周しましょう」

シリが提案し、一行はゆっくりと城壁沿いに馬を進めていった。


老朽箇所がないかをさりげなく確認しながら――。



「行ってしまったわ・・・」

馬場に取り残されたウイは、小さくため息をついた。

一人で待つことには慣れている。


やがて彼女は、廓の隣にある見晴らしの良い窓辺に座り、静かに刺繍を始めた。


一針ごとに、胸の奥の何かを整えるように。


刺繍と向き合う時間が一番心が落ち着く。


――ここにいれば、戻ってきた時すぐに気づけるもの。


どれほどの時が経っただろうか。

刺繍に疲れた指を止め、ふと顔を上げたその先に、リオウが立っていた。


「あなたは・・・ユウ様の・・・」

彼はウイの顔を見つめたまま、名前を思い出せない様子だった。


ウイは寂しさを微塵も見せず、静かに微笑んだ。


「ユウの妹、ウイです」

「ウイ様・・・こんなところで、何を?」

「母と姉が戻ってきたら、すぐに迎えに行きたくて」


リオウの視線が、ウイの手元の布に向かう。

「それ・・・ウイ様が縫ったのですか?」

「はい」

「すごく上手だ」

微笑む彼の言葉に、ウイの胸が高鳴る。


――リオウ様が、私の刺繍を褒めてくれた。


「ウイ様・・・ひとつ聞いても?」

そう言ってリオウは、隣にそっと腰を下ろした。

今まででいちばん近い距離。


鼓動が跳ねる。


けれど、次の言葉はあまりに残酷だった。


「ユウ様の“笑顔”って・・・見たこと、ありますか?」


ウイの表情に、かすかな陰りが差す。

けれど気づかぬまま、リオウは話し続けた。


「ユウ様は、微笑むことはあっても、心からの笑顔を・・・思い出せない。

だから、あの人の笑顔が見たくて、話しかけているんですけど・・・」


言葉を切って、リオウははっとした顔になる。

「すみません、ウイ様の前だとつい、本音が出てしまって」


ウイは穏やかに微笑み返した。

「姉は、喜びを顔に出さない人なんです」


それは、嘘ではなかった。

怒った顔は浮かぶけれど、笑った顔は・・・思い出せない。


「子どものころは、笑っていました。父上が生きていた頃は」

ウイはぽつりと漏らし、それ以上は語らなかった。


「そうなんですね・・・」

リオウは小さく息を吐いた。


「いつか、ユウ様の笑顔を見てみたい」


「・・・そうですね」


そう応えた時――


「戻ってきたわ!」

ウイの声が弾む。


遠くに、馬に乗ったシリと姉たちの姿が見えた。


「すごい・・・女性で、あれほど馬を操れるとは」

リオウが感嘆の声を漏らす。


「母も、乗馬が好きなんです。私は乗れませんが」


リオウとウイの視線は、やがて一人の少女に注がれていった。


金の髪を一つに結び、颯爽と馬を操るユウ。


妹の目から見ても、まばゆいほど魅力的で。

そして――リオウの目は、さっきまでとは違っていた。

熱を帯び、強く彼女を追っていた。


――姉上には、敵わない。


子どもの頃からそうだった。

視線を集めるのは、いつもユウだった。


馬から降りたユウは、手綱を持ち、シュリと何かを話していた。

控えめに答えるシュリ。


そのとき――


弾けるような笑顔が、ユウの顔に咲いた。


「・・・え?」


ウイは、驚きの声を漏らした。

あんなふうに笑う姉を、今まで見たことがなかった。


――なんて、楽しそうな顔。


その傍らには、シュリがいた。


ユウの心を開かせたのは――シュリ。


レイが話していたことを思い出す。


『姉上はシュリの前しか表情を崩さない。いつもみたいに背筋を張ってなくて、

いつも・・・楽しそうよ』


半信半疑だった。


あの姉上が使用人のシュリと心を通わすなんて。


でも、その笑顔を見てしまったら、否定はできない。


ーーレイの言う通りだ。姉上は・・・・。


ウイの胸の奥で、小さな“音”が響いた。


ガラス細工がそっと割れたような、かすかな――けれど確かな音だった。



「ウイ様・・・あの姫の隣にいる者は?」


リオウがふと尋ねた。


ユウの姿を目で追いながら、その隣にぴたりと寄り添う少年に視線を落とす。


「シュリです。乳母子です」


ウイはそう答えながらも、胸の奥がざわつくのを感じていた。


リオウは目を細め、姫とその少年をじっと見つめた。


馬を降りたユウが、手綱を引きながらシュリと何かを話している。

控えめにうなずく少年。


ユウは、弾けるように笑った。


「・・・親しいのですね」


リオウの声が低くなる。


その笑顔を、自分はまだ見たことがないのに――そんな思いが、喉に詰まる。


「乳母子にしては、距離が・・・」


言いかけた言葉を飲み込む。


だが、その表情には明らかな動揺がにじんでいた。


――ユウ様ほどの方が、なぜ。


気の強い美貌の姫。

民の注目を集める、ゼンシの姪。

そんな高嶺の花が、使用人に心を許しているのか。


あれほど気高く、近づきがたい姫が・・・

自分には一度も見せなかったその笑顔を、あの少年に向けたのだ。


思わず、拳を握りしめていた。

どうして、胸がこんなにざわつくのか。


自分は元・領主の息子だ。


自信はないけれど・・・


あの使用人には勝てると思っていた。


勝つ、負けるの段階ではなく、そもそもライバルにもならない存在だった。


姫のような立場の人間が、使用人と恋愛をするなんて、

自分だけではなく、誰も思わないだろう。


けれど――違った。


あの人が求めていたのは、優れた家柄でも、磨かれた言葉でもなかった。


たった一言、短いやりとりの中で、心がふっとほどけるような何か。

それを、あの少年は持っていた。


ーー初めてだ。


心の中で呟く。

こんな感情は。

こんな惨めさは。


ーー勝てないかもしれない。


そんな予感に、足がすくんだ。


リオウの視線が、ユウに釘付けになる。

さっきまでと何かが違う。


胸の奥がざわついた。


ーーこんなふうに、誰かを見たことがあったか?」

視線を逸らしたくても、逸らせなかった。


金の髪が、風に揺れる。

その先にある笑顔が、焼きつくように残る。


ーー自分の胸が、これほど騒ぐなんて。


拳を握ったのは、寒さのせいではなかった。


風が吹いた。

ユウの金の髪が揺れる。


その傍らには、無口な少年――シュリがいた。

彼女が笑うとき、いつもそこには彼がいる。


リオウは、ただ立ち尽くしていた。

その背中に、自分が追いつける日は来るのだろうか。


ならば、自分には何ができるのか――探さねばならない。


その胸に芽生えた感情が、嫉妬なのか、困惑なのか――

自分でもわからなかった。


ただ、ユウが誰かに笑顔を向けるたび、心の奥にざらりとした痛みが残った。


それでも、目を逸らすことはできなかった。


次回ーー9時20分更新


「なぜ、あの人は彼に笑ったのか」

静かな廓で交わる剣と想い。

その一撃に込めたのは、嫉妬か、焦燥か――。

そして、もうひとつの戦いが、静かに幕を上げる。

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この物語は続編です。前編はこちら ▶︎ https://book1.adouzi.eu.org/n2799jo/


おかげさまで累計10万8千PV突破!

兄の命で政略結婚させられた姫・シリと、無愛想な夫・グユウ。

すれ違いから始まったふたりの関係は、やがて切なくも温かな愛へと変わっていく――

そんな物語です。

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