もう、同じ後悔はしない
書斎の窓辺には、薄灰の光がさしていた。
秋の午後は短い。
陽が傾くにつれて、空気に冷たさが増していく。
シリは机の前に立ち、マナトが静かに控えるのを待っていた。
ノアからの報告はすでに届いている。
だが――
「・・・マナト。あなたの目で見たことを、聞かせて」
その声は穏やかだったが、どこか鋭さを含んでいた。
マナトは一礼し、前に進み出る。
「キヨ様は・・・終始にこやかでした。
和議の申し入れは受け入れてくださいましたが、それが誠意によるものかは、判断が難しいところです」
「・・・難しい?」
シリは手元の文書から顔を上げる。
「はい。あの方は・・・まるで演者のようでした。
言葉に矛盾はなく、態度も柔和でしたが――心の中には別の台本があるように思えました」
静寂が落ちる。
その間に、マナトは慎重に言葉を選ぶ。
「ノア殿が“城の暮らしに慣れ、ゴロク様と仲睦まじい”と申したとき、
キヨ様の目に・・・一瞬、凍るような光が宿りました。笑ってはいましたが、あれは――」
「怒り、ね」
シリがぽつりと呟いた。
「・・・はい。嫉妬とも呼べるかもしれません。
ですが、それをすぐに消して、また別の顔に戻りました。
次の瞬間には、わたくしにまで――『困ったことがあれば、相談してくれ』と・・・」
「あなたを、引き込もうとしたのね」
「・・・はい」
マナトは思わず視線を落とした。
言葉には出さなかったが、心のどこかでその“優しさ”に触れそうになった自分がいた。
それを、シリに見抜かれた気がして、わずかに息を呑む。
だが、シリはそれを咎めるようなことは言わなかった。
ただ、淡く笑った。
「キヨは、変わらないわね。・・・昔から、そういう男だった」
しばらくの沈黙ののち、シリは視線を窓の向こうへ移す。
白く曇った空に、沈みかけの陽がにじんでいた。
「仮初の平和だわ。けれど、これは冬だけのもの・・・そう思っていた方がいい」
マナトが小さく頷いた。
「はい。・・・春になれば、再び動き出すでしょう。キヨ様も、そして――モザ家全体も」
「それまでに備えましょう」
マナトが退室した後、
「エマ」
シリは、部屋の片隅で帳面を閉じていたエマに声をかけた。
「なんでしょう」
エマはすっと顔を上げる。
表情は落ち着いていたが、瞳の奥にははっきりとした決意があった。
「今年も・・・薬草を採った?」
「はい。それはもう、たくさん。昨年の分も、乾燥させて保管しています」
「・・・間に合いそうね」
主語はなかった。
だが、エマはすぐに察する。
「もちろんです。レークにいた頃よりも、ずっと」
「それなら、冬のうちに軟膏が作れるわね」
「はい」
シリは小さく頷き、続けた。
「後で食糧庫を確認するわ。塩と保存食が足りているかも見ないと」
「包帯と寝具の準備も、しておかねばなりませんね」
「ええ。城の外観も・・・念のため、確認しておきましょう」
「承知しました」
エマは迷いなくうなずいた。
「・・・エマ、手慣れているじゃない」
シリが微笑むと、エマも少しだけ肩の力を抜いた。
「何度も繰り返してきたことですから」
「そうね。後でレーク城から来た侍女たちを集めましょう。あの子たちに、女性たちの指揮を任せて」
「承知しました」
「私はこれから、行うべきことをリストにするわ。ゴロクにも相談しなくては」
シリは机に向かい、ペンを取った。
「・・・この城では、弾丸や弓矢は作らなくてもよさそうね」
ふと手が止まり、苦笑が漏れる。
レーク城では、戦費を捻出するため、女たちまでが武器を作ることも視野に入れていた。
あの頃に比べれば――今は、少し余裕がある。
そのとき、扉が大きく叩かれた。
入ってきたのは、ユウだった。
赤い淡いドレスをまとい、頬をほんのり紅潮させている。
「ユウ様、フレッド様とのお散歩は終えられましたか?」
エマがやわらかく尋ねる。
「行ったわ」
ユウは任務を終えた兵士のように答えた。
そこに色はなかった。
だが、すぐに目を見開く。
「母上! 私は散歩したわ。だから、今度は馬に乗りたいの。ずっと、ずっと前から乗ってないのよ!」
声が高まり、言葉に切実な何かがにじむ。
「それを言いに、わざわざここまで?」
「そうよ。待ってられない! この寒さじゃ、明日にも雪が降るかもしれないのよ!」
エマが口を開こうとした。
ーーそんな悠長なことをしていられない。
まもなく、戦が始まるかもしれないのに。
だが、シリが手を挙げてそれを制した。
「いいわね。明日、行きましょう。私も一緒に」
「・・・ほんとに?」
ユウの声が弾む。
「ええ。マナトも、シュリも、レイも連れて行くわ」
「やった!」
嬉しそうにユウが駆け出し、部屋を出ていった。
ドアが閉まると、エマが顔を曇らせて言った。
「シリ様・・・そんなことをしている場合じゃ――」
「そうね。いずれ、争いは始まるでしょう」
シリは窓の方に目をやる。
冬の光が白く揺れていた。
「でもその前に、子どもたちには――楽しんでほしいの」
エマは息を呑んだ。
「・・・そうですね」
「それに。馬に乗れば、城の外観も確認できるでしょう?」
シリは、ふっと微笑んだ。
そしてその後、静かに。けれど確かな決意を込めて口にする。
「もう、同じ後悔はしない」
その言葉は、冷たい空気の中に、凛と響いた。
次回ーー
「彼女の笑顔を、初めて見た――。でも、その隣にいたのは、自分じゃなかった」
胸の奥がざわついた。自分でも、理由がわからなかった。 明日の20時20分更新です
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この物語は続編です。前編はこちら ▶︎ https://book1.adouzi.eu.org/n2799jo/
おかげさまで累計10万7千PV突破!
兄の命で政略結婚させられた姫・シリと、無愛想な夫・グユウ。
すれ違いから始まったふたりの関係は、やがて切なくも温かな愛へと変わっていく――
そんな物語です。
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