湖畔の城と、口の上手い男
翌朝、ノアとマナトは、ワスト領へと旅立った。
まだ霧の残る朝の道。
冬の気配が濃くなり始めていた。
ノアの懐には、ゴロクから託された手紙がある。
和議の申し入れに見せかけたその書状には、明確な言葉で「勝手な振る舞いは許さぬ」と記されていた。
ワスト領はシズル領の北西にあり、馬を走らせれば三時間の距離。
二人はやがて、ロク湖の湖畔に立つ新しい城を目にした。
「・・・城から直接、船が出せるのか」
マナトが思わず声をもらす。
「冬の間でも湖を渡って、王都ミヤビまで行けるな」
「・・・ああ。ノルド城は山に囲まれてる。籠るには向くが、攻めには不利だ」
ノアは静かに頷いた。
どちらも口には出さなかったが、心の中で同じ思いが芽吹いていた。
――この城なら、冬の間もキヨは動ける。それどころか、誰にも止められずに。
城門の前で、男が待っていた。
キヨの弟――エルだ。
「ノア! 久しぶりだな!」
ぱっと表情を綻ばせて、駆け寄る。
敵味方の隔てなく、旧知の友に会ったような声音だった。
一転、マナトを見ると、少しだけ目を細めた。
「・・・どこかで、お会いしましたっけ?」
じっと見つめる視線に、記憶をたぐる気配がにじむ。
「いえ。初めてお目にかかります。
けれど、祖父がかつて――ジム・ボイルと申します。ワスト領で重臣を務めておりました」
マナトの言葉に、エルの目が大きく見開かれる。
「ジム殿の・・・お孫さん! ああ、なるほど、よく似ておられる・・・」
感嘆と懐かしさが入り混じったような声だった。
「ジム殿は、領内でも評判の賢臣だった。そうか・・・その孫が今、シズルに・・・」
謁見の間に通されると、キヨが両腕を広げて迎えた。
「ノア・・・よく来てくれた。そしてマナト殿も、遠路はるばる感謝する」
声は穏やかだ。
けれど、その目の奥には笑みと別の色が混ざっていた。
――この男が、和議に応じる気などあるのか。
そう思わせる何かが、確かにそこにあった。
キヨが、ふと懐かしむように声をかけてきた。
「ノアよ。お前は昔から、わしの友だった」
ノアもにこやかに応じる。
「そうだな。昔のこと、覚えているか? お前の家と私の家は隣り合っていて、
よく家族ぐるみで酒を酌み交わした。・・・ミミ夫人は元気か?」
「元気にしておる」
キヨは頷き、少し声を落とした。
「わしら兄弟を、領民の出ゆえに小馬鹿にしていたモザ家の家臣たちの中で――ノアだけは違った。
いつも分け隔てなく、優しく接してくれた」
隣に控えるエルも、大きく頷いた。
ノアの口元がほころぶ。
だが、次の言葉で空気が変わった。
「・・・それが、だ」
キヨの声が、じわりと変わる。
「その大切な友を、わしを欺く使者として寄越すとは・・・ゴロク殿には、情けがない」
わざとらしいほど大きなため息をつきながら、キヨは首を振った。
「それは違う!!」
ノアが思わず声を張る。
「ゴロク様は、モザ家の行く末を案じておられる。心から、仲良くやっていこうとしているんだ」
――うまい。
マナトは、心の中で唸った。
噂通りだ。
キヨは、口が上手いのではない。
人の心に入り込む術を知っている。
「まあ、よい」
キヨは目元だけで笑いながら、言葉を和らげた。
「ゴロク殿には、『承知した』と伝えてくれ。それで、お前の面目も立つだろう」
「・・・そうか」
ノアは安堵の表情を浮かべかけたが、その直後、話題が変わった。
「ところで――シリ様は、お元気か?」
キヨの声が、急に張りを帯びた。
まるで何気ない世間話のように。
「ああ。元気にしておられる。城の暮らしにも慣れ、ゴロク様とも仲睦まじい様子で・・・」
その瞬間、マナトは嫌な気配を察した。
――しまった。
ノア、余計なことを言った。
キヨの顔は笑っている。
だが、目の奥に冷たい影が射した。
それは、エルも同じように感じたらしい。
わずかに表情が強張っている。
「それは・・・よきこと、ですな。夫婦仲がよいのは、シズル領にとっても良い・・・」
キヨの口調は変わらない。
だが、その声には微かなひび割れがあった。
「・・・ああ」
何も気づかず、ノアはのんびりと返事をした。
マナトの背中に、じっとりと汗がにじんだ。
「キヨ・・・いや、キヨ様」
ノアが頭を下げた。
「どうか、ゴロク様と仲良くやってくれ。私は・・・あなたも、ゴロク様も、大切なんだ」
その言葉に、キヨはゆっくりと立ち上がった。
「・・・残念ながら」
その声は冷たく澄んでいた。
「いずれ、衝突は避けられぬ」
「えっ・・・」
ノアの目が見開かれる。
「ここだけの話だ、ノア」
キヨは近づき、低い声で続けた。
「争いが起きたとき、お前にわしの味方をせよとは言わぬ。
ただ・・・見守っていてくれ。それだけでいい。わしは、ただ、己の道を行くのみじゃ」
その眼差しは、揺るがない意志を宿していた。
そして、キヨはふと、マナトの方へ向き直った。
「マナト殿も――何か困ったことがあれば、いつでも相談してくれ」
人懐っこい笑みとともに言う。
「・・・はい」
マナトは答えたが、内心はざわめいていた。
――私の懐柔も始めている。
この男は武ではなく、話術と人心で領主に成り上がった。
その才覚は・・・ゴロク様をも凌ぐかもしれない。
そう痛感せずにはいられなかった。
こうして、和議は一応のかたちで成立した。
ノアからの報告を受けて――
シリの胸中は、複雑に揺れていた。
仮初の平穏。
けれど、春が来れば――大きな争いが始まる。
ーーその時までに、私なりに備えておこう。
次回ーー明日の20時20分
マナトの報告で、キヨの裏の顔を知ったシリ。
仮初の平和に備え、静かに準備が始まる。
「もう、同じ後悔はしない」――その想いとともに、
母は娘たちを冬の外へと連れ出す。
登場人物
ノア
シズル領の重臣。穏やかな性格で人望が厚く、キヨとは友人。
ゴロクの命を受け、和議の使者としてワスト領へ向かう。
マナト
若き家臣。祖父ジム・ボイルの血を継ぐ知恵者で、冷静に情勢を読む。
キヨの人心掌握術を警戒している。
キヨ
ワスト領 領主。言葉と策略で領土を広げる冷徹な策士。
心の奥底に、いまだシリへの執着を抱く。
エル
キヨの弟。朗らかで人懐っこいが、兄を深く敬愛している。
ゴロク
シズル領の領主。ノアに密書を託し、キヨとの駆け引きを仕掛ける。
シリ
シズル領の妃。
ノアの報告を受け、迫りくる戦いを予感している。
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この物語は続編です。前編はこちら ▶︎ https://book1.adouzi.eu.org/n2799jo/
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兄の命で政略結婚させられた姫・シリと、無愛想な夫・グユウ。
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そんな物語です。
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