まだ、唇は亡き夫のもの
その夜、ノルド城の別棟――妾たちの部屋にもまた、静かな夜が訪れていた。
プリシアは、窓辺に置いた灯りを見つめながら、手を止めていた。
薄く色づいた刺繍布には、ほとんど進んでいない花の模様。
「また、呼ばれなかったわね」
ファルがぽつりと呟いた。
「仕方ないわ。あの人が『好いている人』のもとにいるなら、私たちは――」
プリシアが、そっと布を撫でながら言った。
ドーラは、それを聞いても何も返さなかった。
彼女は思い出していた。
あの冬の日、ミンスタ領に同行した夜――
たった一度だけ、彼に抱かれた。
そのあと、何もなかった。
“ただの形式”だったのだと、わかっていた。
それでも、少しだけ期待してしまった自分が、滑稽で恥ずかしい。
「今夜も・・・静かな夜ね」
そのつぶやきは、誰に向けられたものでもなかった。
「・・・シリ様が羨ましいわ」
プリシアがつぶやいた。
そして同じころ、シリの寝室では――
ノルド城――シリの寝室。
静かな吐息が、闇に溶けていた。
ベッドの中、シリはいつものように伏し目がちで、
その眼差しには、どこか遠い寂しさがあった。
ゴロクは、愛おしさと寂しさが入り混じった表情を浮かべていた。
触れているはずなのに、触れられていない。
近くにいるのに、どこか別の場所にいる――そんな錯覚すら覚える。
ふと、シリの横顔に目をやる。
夜の微光の中、その睫毛の影がとても長いことに気づく。
指先でそっと頬に触れ、ほんの少しだけ――唇を重ねたいと思った。
けれど。
その瞬間、シリの身体が、ごくわずかに、ほんのわずかに――身じろぎをした。
拒まれたわけではない。
だが、それは『許されていない』のだと悟らせるには充分だった。
唇は、まだ――亡き夫だけのものなのだ。
それでも、離れることはしなかった。
冬の気配が忍び寄る静けさのなか、シリは天井を見上げていた。
肌のぬくもりは、すぐ傍にある。
けれど、そのぬくもりは、心を震わせるものではなかった。
目を閉じて、時間が過ぎるのを待つ。
ゴロクの手は大きく、優しく、何も強いられることはない。
ーーそれなのに、どうしてだろう。
彼の指が頬に触れる。
その動きに、身体がほんのわずかに――無意識に――身じろぎした。
拒絶するつもりなどなかった。
けれど、どこかで、怖れていた。
ーーあの夜のことを、思い出してしまうから。
そっと頬に手を寄せ、美しい黒い目が近づいてくる。
その瞳に見つめられながら、唇がふわりと触れてくる――。
ーーグユウさん。
何度経験しても、胸がときめいた。
静かで、確かで、甘く、優しかった。
口づけだけで、全身が包まれるような幸福があった。
その記憶が、まだあまりに鮮やかで――
今、自分の唇を他の誰かに許すことが、まるで裏切りのように思えてしまう。
ゴロクの唇は、まだそこに届いていない。
そのことに、少しだけ安堵している自分がいた。
ーーゴロクは優しい人なのにーー私は、なんて酷い女。
罪悪感と、感謝と、過去への執着が、胸の奥で絡み合う。
そのとき、低く、優しい声が耳元で囁いた。
「・・・シリ様」
彼の声が、なぜか遠く感じられる。
「・・・なんでしょう」
なるべく平静を保とうとするが、声がわずかに震えていた。
「私は・・・あなたを、好いています」
ゴロクの声が、夜の静けさに溶けていく。
しばらくの沈黙。
それでも、胸の奥には、何かがそっと灯ったようだった
驚いて目を開ける。
視線を逸らした。
言葉の意味を、心が処理しきれない。
「私は、シリ様を・・・好いています」
もう一度、ゆっくりと。
その声に、逃げていた心が、少しだけ立ち止まる。
ーーどうして・・・そんなふうに。
唇を拒否してしまったのに。
ーーそれなのに。
ようやく戻した視線の先に、ゴロクのまなざしがあった。
まっすぐで、誠実で。
そして、どこか哀しげで。
「・・・ゴロク。ありがとう」
その言葉が、唇からこぼれるとき、胸の奥がわずかに疼いた。
ーーこれは恋ではない。
けれど、感謝と、尊敬と、信頼――
グユウと過ごした夜と同じものを、彼に求めることはできない。
でも、
もう少しだけ、この人の隣にいてみようと思った。
唇はまだ、差し出せない。
けれど、心は少しずつ――
亡き夫の影に寄り添いながら、少しずつ歩き出す準備を始めていた。
ゴロクが手を取り、掌にそっと唇を寄せた。
音もなく、祈るように。
その優しさが、胸に染み込んでいく。
次回ーー
キヨは静かに牙を研ぐ。
ゼンシの告別式を舞台に、すべてを動かす準備は整いつつあった。
始まるのは、ただの儀式ではない。
愛と執着、名誉と復讐――
すべてを呑み込む、運命の四日間。
明日の9時20分更新
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この物語は続編です。前編はこちら ▶︎ https://book1.adouzi.eu.org/n2799jo/
おかげさまで累計10万6千PV突破!
兄の命で政略結婚させられた姫・シリと、無愛想な夫・グユウ。
すれ違いから始まったふたりの関係は、やがて切なくも温かな愛へと変わっていく――
そんな物語です。
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