修学旅行3日目 札幌市内観光?(1)
彩那はホテルにあった自転車を貸してもらった。体操着の背中に身代金の入った鞄を担いで、ペダルを漕ぎ出した。
1億円の重さはおよそ10キロ。身体が後ろに引っ張られないよう、前傾姿勢で札幌の街を疾走した。
並走する国道は、街の中心部に向けて渋滞していた。まったく先へ進む気配のない車を尻目に滑走した。やはり支配人が言った通り、自転車を使って正解だった。
犯人から指定された時刻は9時30分。
フィオナの的確な道案内のおかげで、彩那はハンドルをさばくことだけに集中すればよかった。しかし一生懸命にペダルを漕いでも、とても時間内には着けそうにない。
果たして犯人はそれを許してくれるだろうか。
周りの高層ビルに見下ろされる中、異彩を放つ建造物があった。写真で見たのと同じ白い時計台である。
急ブレーキで、タイヤが悲鳴を上げた。彩那は息も切れ切れに、自転車から飛び降りた。
時刻は9時45分。大幅な遅刻である。
この時間、札幌のシンボルには観光客がどっと押し寄せていた。櫻谷女学院の制服もちらほら見える。
しかし一口に時計台と言っても、どこで待ち合わせるのかが分からない。フィオナの指示で、外からよく見えるよう、舗道に面した門の付近に立った。
観光客は時計台を興味深く見上げて、誰もが決まってカメラのシャッターを切っている。そんな和やかな雰囲気の中、犯人は本当にやって来るのだろうか。どこか信じられない気がした。
こうしている間にも、時間だけがどんどん過ぎていく。
「フィオ、ひょっとして犯人は待ちくたびれて、怒って帰ってしまったなんてことはないよね?」
不安が言葉になって出た。
「ホテルを出たのが遅かったので、それは仕方ありません。しかしあの距離を20分で走り抜くとは驚きです。まるで国体の自転車選手並の速さでした」
「里沙の命が掛かっているから、こっちも必死だったのよ」
そこへ奏絵の声が入ってきた。
「それにしても、時間がきつ過ぎやしませんか? 犯人だって身代金が欲しい筈なのに、随分と無理難題を吹っかけているように思えるのです」
「でも、それはホテルで係員さんのメール確認が遅れたせいじゃないの?」
彩那の目の前を、人や車が忙しく通り過ぎていく。
「いや、メールで指示を与えるという、そのやり方が気に入らないのよ。いつ相手に伝わるか分からない方法では、タイムラグが発生する可能性がある。里沙の鞄の件だって、犯人の思惑通りにいかなくて、ドタバタしたでしょ?」
「前に奏絵が言っていた、犯人の動きはリアルタイムではなく、事前に決めてあったことが実行されているに過ぎないということですね?」
フィオナが確認した。
「はい、そうなんです」
「でも、それは犯人にとって何かメリットがあることなのかしら?」
それには奏絵は黙ってしまったが、代わりにフィオナが答えた。
「櫻谷女学院一行と行動をともにしているように思わせて、実はそうではない。逆に言えば、遠くにいるのに、まるで近くにいるように見せる狙いがあるということですね」
「ますます分からないんだけど」
彩那は正直な感想を述べた。
「しかし困ったことに、その犯人とやらが、ちっとも姿を見せてくれないのよね」
「それでは、一度時計台の中へ入ってみなさい。くれぐれも鞄から目を離さないように」
「了解」
彩那は入場料を支払って、建物内に入った。一階は展示室になっていて、有名なクラーク博士などが紹介してある。
「犯人はどうやって接触してくるつもりかしら?」
「それなんだけど、1億円を10個の袋に分けたということは、犯人にとって回収しやすく、また運びやすいってことよね?」
「つまり、一度鞄から麻袋を出させるってこと?」
「そう。どこか高い場所へ登って、一袋ずつ投げ捨てろって言うかもしれないわ」
二階に上がると、演武場というホールが広がっていた。さらに時計台に使われてる同型の機械が展示されている。大きな歯車を背に若者が写真を撮っていた。
やはり犯人が近づいてくる気配はない。
「ああ、そうだ」
彩那はあることを思いついた。階段を下りて、建物を出た。
「どこへ行くのです?」
時計台の裏側にある公衆トイレに入った。そこで体操服を脱いで、GPS付きのブラジャーを剥ぎ取ると、鞄の奥に忍ばせた。
「彩那、一体何を考えているのです?」
「こうやってGPSを入れておけば、万が一、鞄が犯人の手に渡った時も追跡できるでしょ」
「確かにそうですが……」
また時計台の正面入口に戻った。
相変わらず、さっきと同じ風景がそこにあった。犯人はまだ現れない。時刻はまもなく10時になる。
「彩那、今、ホテルのフロントに、犯人から電話が入った模様です。時計台の正面から右手100メートル先に郵便ポストがあります。確認できますか?」
「ちょっと待って」
彩那は舗道に顔を出した。
車が絶え間なく流れているその一角に、確かに赤い構造物が見える。
「はい、あります」
「では、そこまで走りなさい」
「えっ、一体どうしたっていうの?」
それでも鞄を担いで駆け出した。
「犯人の指示は次の通りです。そのポストは10時頃、郵便物の回収が行われることになっている。その際、局員に向かって、投函口から誤ってメモ用紙を落としたと言って、それを受け取れ」
彩那が舗道を駆けていく途中で、郵便ポストの前に一台のバイクが停車した。男性局員が慣れた手つきで蓋を開けた。
「ちょっと、待ってください!」
思わず大声で叫んだが、局員は気づかない。代わりに観光客が左右に分かれて進路を開けてくれた。
肩に掛けた重い鞄のせいで、いつものように走れない。それでも速度を上げると、最後はポストの角にしがみついて身体を急停止させた。
局員は呆気にとられていた。両手には、ポストから取り出したばかりの茶色の回収袋が握られている。
彩那はうつむいて息を整えながら、
「すみません。その中に、紙を落としてしまって。拾ってもらえますか?」
「えっ、この中にですか?」
局員は迷惑この上ないと言わんばかりに、顔をしかめた。
「はい、メモ用紙です」
「困りますね。ポストには郵便物以外は入れないでください。場合によっては犯罪になりますよ」
彼は厳しい口調で言った。
「はい、ごめんなさい」
男は袋の中に手を入れて探していたが、
「これですか?」
白い紙片をつまみ上げた。
「はい、それです」
彩那は何度も頭を下げて受け取った。
「これからは注意してくださいよ」
「はい、気をつけます」
局員の目も気にせず、すぐに折り畳まれた紙を広げた。
「10時15分、さっぽろテレビ塔の下」
短い文が目に飛び込んできた。
「すみません。テレビ塔はどちらの方へ行けばいいですか?」
すかさず訊いた。局員は作業を終えて、バイクに跨がったところだった。
彼は怪訝そうな表情を浮かべながらも、
「あっちですよ」
と不機嫌な声で指をさしてくれた。
「どうもありがとうございます」
「また、時間ぎりぎりですね。そのまま国道沿いをまっすぐ行きなさい」
「自転車を使った方がよくない?」
「いいえ、時計台へ戻っている暇はありません。間もなく菅原の車がそちらに到着しますので、自転車は龍哉に回収させます」
花島の尋問が終わって、二人はすでに病院を出たと言う。彼らが応援に駆けつけてくれるなら心強い。
「どうやらその様子だと、犯人は彩那を引っ張り回す気かもしれないね」
奏絵の声。
「何のために?」
「警察がどう動くか監視するためよ」
「でも、今のところ見張られているような感じはしないけど」
交差点を曲がると、すぐに巨大なテレビ塔が現れた。その姿は北海道を代表する建物に相応しかった。
時計台からは意外と近かった。これなら時間に間に合いそうである。
「彩那、今回はそんなに急がなくてもいいです。ゴールは目の前ですから」
珍しくフィオナが天使に思えた。
そもそも鞄を背負って走るのには限界がある。おかげで全身は汗びっしょりで、体操服が張り付いてしまった。制服を着ていたらと思うと、ぞっとした。




