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修羅幼女の英雄譚  作者: 沙城流
第二章.幸せな怪物の墓標

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12 『不穏不吉の影』

 集落ケーブ周辺の地理にはなだらかな傾斜がある。

 この付近を台地として、下り坂が這うように広がっている。丘陵と言えばやや言葉が過ぎるものの、湖から流れる穏やかな河川が数十と巡り、森林に水分という恵みを施していた。そのため一帯には豊かな植物が生い茂り、不心得者がひとたび足を踏み入れれば、立ちどころに大自然の洗礼を受けることになる。

 視界を狭める木立と背の高い草花。掻きわけて進まねばならない草葉の海は、木々の息嘯めいた仄暖かい風によってその波面を揺らしている。葉々は夜陰の色に染まりつつも、まだらに夕陽色の光沢を見せる。

 そんな大自然の海を横目に──女が立っていた。

 俯いて、膝まで伸びた草を軍靴で踏みつけると。


「ふ、う」


 女は紫紺の髪を踊らせ、白魚めいた指を操る。

 夕陽の紅に染まった線が指と指の隙間で煌めいた。

 転瞬、無数の糸が宙空で剣の輪郭を紡いでいく。

 緻密に編まれていく糸の塊は、剣形を象った途端に切先から鋼に変質していった。水分が行き渡るように柄まで到達すれば、それは一振りの両刃剣と化した。

 彼女はそれを慈愛すら感じさせる手つきで撫でる。

 すると、剣はさながら意思を宿したように跳ぶ(・・)

 そして一直線。獲物を見据えた鷹のように飛ぶ(・・)


「お見事、ですのじゃ」


 刃が捉えたのは、草葉の陰に隠れていた白兎。

 二丈の距離を物ともせず正確に射抜いてみせた。風を引き裂き、首筋を貫き、瞬く間に絶命せしめた。矢と見紛わんばかりの一閃。吹いた風に命を刈られたようなものだ。きっと苦痛すらも一瞬だっただろう。

 そんな兎を掬って抱え上げたのは──幼女。

 地面に縫い止められた身体から丁寧に剣刃を抜く。

 彼女は脇と腕とで、すでに二匹の兎を抱えていた。

 

「これで三匹目。今晩の糧としては十分ですのじゃ」

「はい。そろそろ……戻りま、しょう」

「森の夜道は危険が付き物ですからのう」

「……はい。イルルさんのところ、戻りましょうか」


 時の頃は夕刻を越えて、宵の淵を迎えていた。

 ソルに、魔力収集用の獄禍討伐という目的が明かされたのは正午のこと。それからソル一行は獄禍討伐と勇んで集落を出た。だが道中は当然ながら整備されておらず、討伐隊の馬脚に頼ることはできない。三人は徒歩で目的地まで向かう必要があった。その上、討伐対象の獄禍までは日を跨がねば到着できない距離にあり、必然的に露宿で夜を明かさねばならなかった。

 ゆえにこそ、目的地半ばで夕餉の調達をしている。

 いまは今夜の主役を飾る兎肉を獲ったところだ。

 三人分で三匹。極めて大雑把な目算である。


「しかし、わしとベクティス殿が食糧調達。ストレーズど……お姉ちゃんがそれ以外の露宿準備すべて。やはり役割分担として偏っておりますのう。ストレーズお姉ちゃんの采配に口を挟むわけではないものの、これならば一人でも任に足りたと思いますのじゃ」

「みんな……ソルちゃんが、心配なんで、す」

「ですのじゃか」

「はい」


 シャイラは短く答え、二人とも歩き始める。

 辺りは騒がしい。そう感じられるほど静かだった。

 人気から遠いからこそ捉えられる自然の息吹は、耳を澄ますまでもない。虫のさざめきや獣の遠吠えに限らず全方位から流れ込んでくる。草葉の頭が風のひと撫でで揺れ、細波のように葉音が広がる。草叢を踏むたび雨礫か水飛沫の音めき、それに分け入る二人の呼吸音はさながら交互に櫂を練るようだった。

 そして、また息をすぅと吸い込んだ彼女(・・)──。


(ど、どどど、どうしましょうか……)


 シャイラ・ベクティスは冷や汗が止まらなかった。

 ただその気配は極力おくびにも出さない。出さない気概はある。もはや『あった』と言うべきか。澄まし顔を必死に繕いながらも、しきりに空を仰ぐようにして上方に目線を遣り、そのたび音を立てて息を吸う。

 傍目に見ても困り果てた様子だが、無理もない。

 二人の間に沈黙が訪れて、すでに数分経っている。

 二人の間に会話が途切れ、すでに数分経ったのだ。


(あまりに気まずい空気です……謝罪するときもソルちゃんに気遣わせてしまって、私、もうどうしたら)


 ことにシャイラは、人付き合いが苦手だった。

 常識の枠内で言えば、地位の高低に応じて社交的な能力は築かれているものだ。人と人の間でのし上がるための必需品なのだから。それも──大国の上層の身分ともなれば口八丁であることは最低条件だろう。

 だがシャイラは違う。彼女は大英雄なのだ。


(こういう空気、すごく苦手なんですけれど……)


 シャイラは声にならない嘆きを溜息に混ぜる。

 こんなことならばイルルを連れてくるべきだった。

 

(ストレーズさんとソルちゃんが会話する間に、時々口を挟めるくらいの……そういう立ち位置が気楽なんですが……流されてしまったと言いますか、抗えなかったと言いますか。うう、こんなこと頭で言い訳してる時点で駄目ですね……私……)


 シャイラには気軽に声をかけられる友人が少ない。

 彼女にとって友達と言えば、差し込む西日くらいのものだった。独り言以外で声を発さず過ごすなど常である。そんな人としての不出来には目を瞑られているのは、突出した武力を身に宿しているがゆえだ。大国の高位として果たすべき政は副官のハキムに一任している。不得手な役回りは他の誰かが行うわけだ。

 彼女の役目とは戦場に出て武功を挙げることのみ。

 ゆえに他者との人並程度の会話の術すら覚束ない。


(距離感が、わかりません。どう接したら……!)


 彼女は、同年代の相手ですら臆してしまう

 ましてや幼い子供の相手──務まるはずがない。


(ソルちゃんも困っていますよね……?)


 半ば助けを乞うようにして、半歩後ろを見遣る。

 そこには幼女がいる。薄闇を纏えども楚々とした印象は隠しきれない雪白の髪を揺らす姿、そこから立ち昇る雰囲気は儚げだ。さながら北国の御伽噺に出てくる雪の妖精か、あるいは西方に伝わる硝子細工で繊細に彫られた人形か。指先で触れれば容易く崩れてしまうような、シャイラはそんな印象を受ける。それでいて、何やら周囲に抜き身の雰囲気を漂わせている。

 その雰囲気の源は、あの黄金色の双眸だろうか。

 まるで鋼鉄を融かして眼窩に湛えているかのよう。

 それら立ち姿から連想した影を、頭を振って払う。

 ──あの方と同一視するのも、だめ、ですね。


「……どうかされましたのじゃか?」

「あ! い、いえ……蜘蛛の巣が顔にかかって……」

「できればわしが露払いを務めたいものですがのう」

「えと、その、無理なさらず……」


 ぴょんぴょん飛び跳ねる幼女を宥める。

 シャイラとソルの身長差は二尺程度ある。到底、頭上の蜘蛛の巣を払うことはできないだろう。微笑ましい挙動に相好が崩れるものの、緊張のあまり凝り固まっていた頬の氷解には至らず、不恰好にも口端の片側だけが上がったままになり、焦って口許を手で隠す。

 人との交流を絶った生活が長いおかげで表情変化が乏しいことは、彼女にとって劣等感を覚える要素のひとつだった。特に初対面の相手とは、まるで仮面でもつけて対面しているかのような心地にもなる。

 思えば、ソルと二人きりになるのは初めて。


(ああ、いつもと比べれば、打ち解けて喋れているほうじゃないですか。まだ打開できます、私)


 この調子で何か会話の糸口を、と手を差し伸べる。

 幼女の跳ねる様子を見て思いついたことだが。


「ウサギさん……重いでしょ、う。持ちま、す」

「その御心遣いは有り難く受け取りますのじゃ」


 ですが──と、ソルは淀みなく答えていく。


「断らせていただきます。わしの職分であった食糧調達までベクティス殿に任せきりにしておきながら荷まで持たせては、わしの立つ瀬がございませぬ。荷物持ち程度には役割を持たせて欲しいですからのう」

「で、でも、流石に放っておけない、と言うか……」

「ここは顔を立てると思っていただきたいのじゃ」

「そ、そうですか……」


 鞠躬如の態度ながら、すげなく切り捨てられた。

 話題を絞り出した身からすれば残念な結末である。

 だが引き下がらざるを得ない。シャイラには強固な主張を前に、立ち向かうほどの勇気がない。これ以上喰い下がっても雰囲気を沈めるだけだ、とりあえず話を逸らすべきだろう、と自らの思考回路に油を差す。

 さて、逸らす話題はどれがいいか。揃えた会話の手札を流し見する。天気、天気、天気──駄目だ、天気以外の選択肢が見当たらない。毒にも薬にもならない話題は逐次投入せねば虚無感を増やすだけだ。適切な会話の種を思いつくまで場を繋がなくては。折角、数分越しに会話が生まれているのだから。まず軽い話題を。しかし軽い話題とは何を出せば。思い浮かばない。ならばそれより先に何か。何かを言わなければ。

 ぐるぐる考え込んだ挙句、導き出した答え──。


「ベクティス殿」

「は、はいっ!」


 ──は、口からまろび出ることなかった

 急に名を呼ばれて素っ頓狂な声が漏れてしまう。

 ただ声をかけた張本人は、それを意にも介さず。


「ベクティス殿は剣を矢のように扱うのですのう」

「え? ええ? な、何の話です、か……?」

「む。申し訳ないですのじゃ。先刻のベクティス殿の鮮やかなお手並みに意識が向いておりましてのう。幾度も思い返して、浸っておりましたのじゃ」

「あ、ああ。振り回すのは得意じゃ、なく、て」


 唐突に切り出された話題は戦闘法についてだった。

 どうやら幼い興味の矛先は、ずっと先ほどの兎狩りの一幕にあったようだ。大陸広しと言えども特徴的なシャイラの剣の扱い方は人の目を惹くものがある。

 彼女自身は「褒めすぎです」と萎縮してしまうが。


「剣を空中で生成して射出する。この大陸で唯一無二の技でしょう。目前にしてみれば、なんともはや。浅学な身ではこの感動を言い表す語彙が足りませぬ」

「褒めすぎで、す。でも、初めて見たなら……いや」

「模擬戦の終幕にも体験させていただいたのじゃ」

「ご、ごご、ごめんなさ、い……ほんとに」


 ──何をおっしゃるか。素晴らしい光景でした。

 剣が、雨粒淋漓と迸る様は圧巻の一言だった、と。

 先刻の狩猟も舌を巻いて見ざるを得なかった、と。


「あれも、魔力で生成した剣なのでしたのじゃな」

「はい。基本的に……これは、後腐れが、なく、て」


 シャイラは無造作に払うように右腕を振るう。

 その動作を合図に白糸が宙空で刃を紡いでいく。

 だが腕を戻せば、糸ごと空気に融け消える。


「後始末も簡単で……いつもはこれ、使って、て」

「まさしくベクティス殿の特殊な魔力属性の賜物ですのう。いまのは魔力を編み上げて剣の形に整えたわけではありますまい。取り込んだ魔力を編まずに出力する──魔力放出と見ましたが、どうでしょうか」

「はい。ソルちゃんの……言う通りで、す」

「やはり。わしなどは魔力放出を推進力以外で使えた試しはないですがのう、ベクティス殿は普段の攻撃手段として活用しているのですのじゃなあ」


 ソルは神妙に幾度か頷き、こちらを見上げてきた。

 シャイラは思わず顔を引きつらせて愛想笑いする。

 ──この女の子は、自分をえらく買っている。

 心中を掠めるその半ば辟易した感想が自意識過剰ではないことを、彼女自身薄々勘づき始めていた。斯くも綺羅星のような目が向けられ続ければ誰でも気づくことだろうが、改めて思う。自分は憧れられている。

 態度があからさまだ。もちろん幼女の出鱈目な敬語の上には、如何なるときも目一杯の真摯な敬意と熱意が乗せられている。だがイルルやホロンヘッジ、討伐隊の面々相手とは一線を画している。御輿で担がれるような仰々しい言は飽きるほど受けてきたものだが、幼子から、それも圧倒的な熱量で浴びたことはない。

 ──ハキムさんへの扱いが羨ましい……いえ。

 口辺が緩まったことを自覚して、視線を逸らす。


「でも私の属性……そうとしか使えませんか、ら。私が取り込んだ魔力は……出力したら、ぜんぶ剣の形になるだけ、で。そんな、褒められたもの、じゃ」

「ベクティス殿はご謙遜がすぎるお方ですのう」


 ──わしからすれば羨ましい限りですのじゃ。

 ──()なる属性を持って生まれた時点でのう。


(そんなによいものでは……ない、ですけれど)


 人間は、基本的にひとつ魔力属性を生まれ持つ。

 それは文字通りに、その人物と適合する魔力属性のことだ。人々は生まれ持った属性のみと親和性を持つことができる。大気中のマナなど取り込む際には、自ら持つ属性の魔力のみを取り込める。自らの身体を巡るオドの属性もまた同様に適合したものだけである。

 炎属性の適合者は炎属性の魔力だけに干渉できる。

 逆説的に言えば、どれだけ羨めど適合者以外はその魔力に触れられないのだ。地属性の適合者は地属性の魔力だけ、風属性の適合者は風属性の魔力だけだ。適合していない他属性魔術は構築できない。当然だが取り込めない属性の魔力を編み上げることはできない。

 そこは努力など何の意味も為さない土俵だ。


「むかしからわしは剣に愛着がありましてのう。魔力属性としての()の存在を知ったときは、己が欲得に悩まされました。如何にしてか己の魔力属性を変えられまいか、と。しかし、天から与えられた属性は絶対で生涯不変と知り、随分苦渋を舐めましたのじゃ」

「まあ……そういった事例、ない、ですからね」

「ゆえにこそ憧れてしまうものですのじゃ」


(魔力属性。大抵は基本属性のいずれか五種類に当たります。適正者が多い順に、地、炎、木、風、水。珍しい例ですが、多重に適正判定を受ける者もいます。二重属性、三重属性……そして五重属性)


 ソルは言う。何たる絢爛、何たる浪漫かと。

 英雄譚を捲れば、そんな才人たちの勇姿が拝める。

 そして──属性の原則には更に例外が存在した。

 稀に、五属性とは一線を画す適合者が現れるのだ。

 歴史上でも六人。そのひとつこそが剣属性。

 記録上、シャイラ・ベクティスのみが持つ属性だ。

 それでも当人の心情としては、幼女の輝かしい憧憬を受けて影が落ちるばかりだった。だから折角、続けられていた話題に当意即妙の返答どころか、苦し紛れの相槌すら打ち忘れてしまって、再び沈黙が降りる。

 己が犯した失態に、遅れ馳せながら後悔が襲う。

 元より蒼褪めた顔から血色が更に失われてゆく。


(あ、や……やってしまいました。ここまで何とか会話を持たせてきましたが……ああ、元々無茶だったんです。イルルさんに流されてしまって、のこのこソルちゃんと二人きりになった自分が情けない……)


 後頭部に重石が乗ったように憂鬱な心地だった。

 横目に幼女を見遣ろうとする。今度は下心を持ちながら完全に助けを乞う形でだった、が──すかさず無垢な視線に迎え撃たれた。鋭敏にそれを感じ取り、シャイラは己が視線を即座に撤退させる。意図せずして目が合ったときほど気不味いものもないからだ。

 しかし、及び腰な態度は事態の深刻化を呼ぶ。

 二人とも黙り込んだ時間が続く。沈黙とは続けば続くほど空間に凝固し、話を切り出しにくくする。そして無慈悲にも幼女は沈黙を破る気配がない。彼女の足取りにも視線にも、まるで困惑の影が見当たらない。

 焦っているのは自分だけ、と気づき途方に暮れる。


(ああ、イルルさん話が違うじゃないですか……)




 ※※※※※※※※※※




『え? シャイラのお姉さん、不安なの?』

『は、はい。そんな、ソルちゃんと二人、なんて』

『晩ご飯集めのとき会話が続くかなー、心配だなーってことだよね? まーまー言いたいコトわかるよ。でもね、何とかなると思うんだよねぇー。ほら、ルーちゃんはシャイラのお姉さんのことソンケーしてるし、たぶん自分から話しかけてくれるだろうしさ。だから自信持って! イルルがいなくてもダイジョーブ!』

『いえ……でも、付いてきて、ほしい……です』

『シャイラのお姉さんならダイジョーブ!』

『付いてきて、ください……』

『ダイジョーブ!』

『だめです……』

『うう、後ろ向きに強情になるお姉さんなんだ……』

『ごめんなさ、い』

『でもー、うーん。イルルとしてはねー、二人になかよくなってほしいんだよねー。これからイッチダンケツしてかなくちゃいけないしね。イルルの国にはこんな言葉があるんだ。『フカメヨウシンボク』!』

『え、ただの宣言……?』

『ふふん。イルルの国の警句、金言のひとつなんだ』

『自信……ないですけれど、違うと、思います……』

『うーん。オクニガラだね』

『納得して、なさそう……ですね』

『まーとにかく! シャイラのお姉さんにそこまで頼まれちゃしょーがないね。個人的にも不安になってきたし、ルーちゃんにはイルルから話を通しとくよ!』

『ごめんなさ、い……私、わがまま、ばかり……』

『これくらいのこと何のその! とりあえずルーちゃんには、そうだなー『たくさんシャイラのお姉さんに話題を振ってあげて』ってことと、『だまーった雰囲気はバツ』ってだけ伝えればよさそうかな?』

『ありがとう、ございます……』

『もー頭さげないでってばー!』




 ※※※※※※※※※※




(まさか、ベクティス殿と二人きりになれるとは)


 ──ソルは、イルルの頼みをすっかり忘れていた。

 シャイラの懊悩の一方で、幼女は夢見心地でいる。

 その足取りは軽く、傍目には小躍りするかのようにも見えただろうか。彼女自身もしも気随気儘に振る舞えたのなら、欣喜雀躍の相を晒していただろうと思っていた。ただここにいるだけで、二日ほど眠りこけて錆びついていた身体が活力を取り戻していくようだ。

 その源──紫紺の垂髪を追って横目で見上げる。

 シャイラは、斜に深青色の視線を落としていた。

 ひとたび秋波を送れば大衆を虜にするだろう瞳。だが、そこには氷のように憂いが張っている。常に分厚い氷面に阻まれた先にある心中は、さしもの齢六十五になる老残者とて察することができない。大英雄の深意を汲み取るには修行不足か、と口惜しく思う。

 なにせ、言葉に込められた真意が読めないのだ。

 シャイラは急にもぞもぞと唇を動かし始める。


「……今日は」


 彼女は、わずかに熟慮断行の面持ちを覗かせて。


「いい天気、です、ね」

「? そうですのじゃのう」


 果たして日没間際に上げるような話題だろうか。

 それも頭上は葉々で覆われ、空が見えない現状で。


「肌寒くて。ソルちゃん、その、寒いでしょう?」

「慣れておりますゆえ心配なさらず」

「そ……そうです、か。よかった、です」


 率直な応答に、彼女はひどく傷ついた顔をした。

 否、目の錯覚か。ソルは横滑りした目で観察する。

 そこに平静よりやや強ばった横顔が置かれていた。

 そしてふと思う。こうして改めて見れば、美貌とまで言わしめる暴力的な圧力はない。坂を下るような視線は決して人を見下す色がなく、いっそ生命力さえも感じられないほどだ。儚さの強い容色からは、目前の存在が見る間に消え失せてしまうように思える。

 シャイラと言えば、感情の置きどころを悟らせない表情で、しばし言葉を探すように呟いていた。


「ほか……ほか……天気、属性、属性」


 シャイラは確信を持った様子で幾度か頷いた。


「ソルちゃんは属性……自分で、知ってます、か?」


 そうして先ほどの魔力属性の話題に立ち返る。

 ソルは観察行為を放棄して、白頭を深々と頷いた。


「存じておりますのじゃ。わしは風ですのじゃ」

「風……属性。魔力の特徴は『気流化』でした、か」

「ご明察の通りです。魔力を気流として発現する属性ですのじゃ。魔力を放出した際、推進力を得ると言えば風属性。取り込んだ魔力を出力する際、風属性特有の作用が強く現れるからと聞き及びました」

「……物知りです。やっぱり、ソルちゃんは魔術を扱えるんです、ね。そんなことまで知ってる、なんて」

「いえ、恥ずかしながらわしは魔術を扱えませぬ」

「えっ!」


 その発言にシャイラは想像以上に驚いていた。

 口許を手で抑えて、意想外の答えを飲み込むと。


「あ……いや、でも、その年ならそうですよ、ね」

「魔術は学問ですからのう。扱うにはそれなりの知識と経験と資質が必要と聞きます。先ほどは単なる聞き齧ったにすぎない知識ですゆえ。なにぶん剣術ばかり磨いて、おいそれと足を踏み込むことができないままでしてのう。学が足りず、資質も足りぬ身で……」

「そんな、資質がない、なんて……そんな、まだ。ソルちゃんの年なら、まだわからないです、よ。そう言っていいのは……時間切れの人だけ、です」

「……道理です。お恥ずかしい話ですのじゃ」


 ソルは深々と頭を垂れる。頬が熱かった。

 いまの自分は老人ではない。生まれ落ちたとき与えられた制限時間から逃れ、幼女としていまここに立っているのだ。差し迫った刻限に追われない身に、無学なる弁は理由になり得ない。本当に学びたければここから学び始めればいいのだ。臆することはない。目前には無数に可能性の岐路が伸びているのだ。

 生前(ソルフォート)では挑めなかったことも幼女(ソル)の身ならば──。


(ベクティス殿に諭されてしまったのう。いまのわしには、魔術を一から学ぶ選択肢すら指先に触れられる位置にある。いままで夢以外の脇目を見ずにと切り捨てた可能性を、いまなら夢へと登る足場にも変えられる。……否、生前でもできなかったわけではない)


 凡人は、凡人ゆえに夢以外を切り捨ててきた。

 自らの大事なものだけを手元に残し、あとは足元に置いていく。それは目的ある者として立派な心構えだろう。だが、その行為はあくまで瀬戸際で行われるべきなのだ。いまのソルはさにあらず、時間がある。

 従来通り、剣術ばかりに打ち込むのもいいだろう。

 だが、魔術を習得すれば新たな武器になり得ることは間違いない。剣術と体術のみでしか作れなかった戦闘行動の幅が広がる。生前の姿勢を引き継いで端から避けてしまうには、あまりに勿体ない話だった。

 当然、気づかせた英雄に敬慕の念が尽きなかった。


「見苦しい言動をして申し訳ありませぬのじゃ」

「わ、私こそ……私なんかが、偉そうに……」

「いえ、流石は努力の大英雄と呼ばれるお方です」

「……努力の……大英雄、ですか」


 シャイラは口内で復唱し、自嘲気味の苦笑を零す。

 会話中にふと自罰的な笑みが滲む瞬間があるのは、それ以外の笑みを知らないようにも思えた。


「私、その名前……似合ってない、ですよ、ね」

「そうでしょうのじゃか? よい響きではありませんか。努力の大英雄、『黎明の導翳し』。風の便りによれば、かのビエニス王直々に名を与えられたとか」

「はい……でも私、烏滸がましい、感じが、して……努力を掲げる割には──私、元は貴族の家の子で、腕も細くって、肌も白くて全然……努力って言葉を侮辱してるみたい、で……合ってない、感じがして」

「見目の泥臭さが努力の証でもありますまい」


 ソルは淡々と傭兵時代の半生を思い返す。

 生涯、俗に言う清潔感のあった時期などなかった。

 自身の見目は二の次、三の次だった。なにせ目標に向かって剣術に一心に打ち込むあまり手が回らなかったのだから──と。それが人並みの言い訳にすぎないとはソル自身でも理解していた。真の理由はひとえにソルが欠けた人間だったからだと。気配りに欠け、常識に欠け、夢を追いかけた結果としての泥臭い身なり。そんなもの己の不足の証明に他ならない。

 まして誇らしげに掲げるようなものではないのだ。

 だからこそ、凡人は目前のシャイラに憧れる。

 下積みを感じさせない綺麗な振る舞いが眩しい。

 自分では為し得なかったことを体現しているのだ。


「もちろん、ベクティス殿が天賦の才を持っていることは否定できますまい。その若さでビエニスの頂点にまで登り詰めるなど、血の滲むような努力だけでは足りません。天から授かった適性も兼ね備えていたからこそ成し遂げられた偉業かと思いますのじゃ」

「その……私、えと、気持ちは嬉しい、です、けど」

「ですが、それで貴女の努力を否定される謂れはございませぬ。その地位は才能と努力の両面を欠かさなかったことの証明。裏を返せば、並外れた努力がなければ成し遂げられなかったことでありますのじゃ」


 ──ビエニス王もそこを汲み取ったのでしょう。

 ──眩いまでの実績が努力を月にしてしまう。

 ──かの王は、それが許せなかったのでしょう。

 ソルの生真面目な返答の効果は芳しくなかった。

 シャイラは困り果てたように、情けなさそうに、目元を翳らせて「そうです、ね」と笑った。


「ごめんなさ、い。慰めて……くれて」

「慰めなど口にした覚えはありませぬ。純然たる事実のみを言葉にしたまでです……と、言葉が過ぎましたのじゃ。要らぬ節介を焼く悪癖がなかなか改められぬものでしてのう。ただ老爺心ながら貴女には、これぞ英雄譚の読者あなたにあこがれたものの勝手を言わせてもらえば、ですが」


 幼女は自らの口が滑ったことを半分自覚していた。

 しかし、シャイラに対する本音は伝えたかった。


「ただ、貴女には誰憚ることなく──」


 ソルは万感の想いを、余蘊なく言葉に乗せる。


「胸を張っていて欲しいと、願ってしまうのです」


 ふと、隣にあったシャイラの気配が消えていた。

 振り向けば、彼女は数歩前で立ち止まっていた。こちらに凝然とした視線を注いでいる。瞼を一度ぱちりと開閉させたのを合図に、顔を俯かせた。

 そして肩を震わせ、唇を横一文字に引き締める。


「ベクティス殿……?」

「い、いえ──ごめんなさ、い。その、そういうことをソルちゃんに、言われて……びっくりして。本当にソルちゃんは……子供じゃない、みたい」

「不躾に申し訳ない。背伸びしたい年頃なのです」

「不躾なんて、そんな……難しい言葉知って、て」

「背伸びしたい年頃ですのじゃ」

「他にも、その。色々難しい言葉、知ってて……」

「まあ、背伸びしたい年頃ですからのう」


 うんうんと頷きながら話を流しにかかった。


「いつの時代も、童は大人の模倣を繰り返すもので」

「自分のこと、童って……」

「高度な換喩的表現混じりの小粋な冗句ですのじゃ」

「そう、高度な……」


 ソルは目を彷徨わせ、思案投げ首にふと見遣ると。

 顔を上げたシャイラが笑みの残滓を漂わせていた。




 ※※※※※※※※※※




 ざざ……と這うように控え目な水音が満ちている。

 ソルたちの野営地は、見晴らしのいい河原だった。

 谷底に這う渓流が、大きく曲がった内周部である。

 周辺地理より落ち窪んだ場所だ。沢に沿った石礫の絨毯は、日暮れとともに宵闇に沈みつつあった。この場所を鳥瞰すれば、地盤の裂け目に見えるだろう空間に──幼女と女の二人連れが、足を踏み入れた。

 鼻を涼気が擽ぐる。獣臭い夜気が浄化された清涼感が全身を撫で、緩く流れる水面のせせらぎが耳朶を打つ。山林を行く道中は生物のさんざめく様が街中の雑踏をも思わせたものだったが、山林から抜けたこの水際は異界として切り出されている感覚に囚われる。

 この、宵の気配が濃い一角に、蠢く影がある。


「二人ともおかえりー!」


 それは、屈んで作業に勤しんでいた少女だった。

 ぱっと顔を上げて、こちらに大振りに手を振ると。


「晩ご飯で食べられそうなのは取ってこれたー?」

「はい。その、ウサギさんを、三羽ほど……」

「おーすごいすごい! やーありがとなんだっ! イルルじゃ動物さん捕まえられないモノだからさー」

「い、いえ。その……こんなことなら、いつで、も」

「ホント!? 助かるんだー」


 イルルの元に向かいながら、ソルは視線を上げる。

 見遣った空はすっかり暮れて、紺の絹を編んだような色彩が埋めている。散らばる星たちはさしずめ編み目の間隙とも喩えられようか。目線をわずかにも逸らせば、対岸に並び立つ木々に見下ろされる。

 さらに視線を下降させる。月明かりを浴びて蒼然としたそれらは、川面に濃い影を投射していた。影の奥まった箇所は瀞をつくっており、何も見通せない。

 野営地の決定理由は、ここが天然の要害ゆえだ。


(視野が比較的確保された空間。断崖によって野生動物等の侵入経路は限られている。山林地帯から降る経路は、わしたちが利用した降り口と、他二つ程度。なるほど、寝食を取るには申し分ない)


 ソルはひとりでに頷いて、とてとて移動する。


「シャイラのお姉さん! きちんと仲良くできた?」

「だめでした」

「ダメだったかあ。まー、次! 作戦練ろっか!」

「は、はい……」


 シャイラと、野営作業中のイルルに近寄っていく。

 少女は、にかりと笑って鷹揚に声をかけてくる。


「ルーちゃんもお疲れ様ー! ごめんだけど、シャイラの姉さんと一緒に休んでてー。イルルはね、まだ野営のトコの準備、終わってないんだー」

「でしたら、わしも手伝いますのじゃ」


 一人ばかりに野営準備を任せるのも忍びない。

 この申し出に、イルルは両手を組んで喜んだ。


「えーいいの? 助かるんだー!」

「わ、私も、手伝いま、す……!」

「あえーシャイラのお姉さんも? ありがとありがとーなんだ。じゃー二人で晩ご飯の主役……君たちがさっき取ってきたお肉の下準備、お願いできる?」

「任されましたのじゃ。経験があります」

「おおー、レキセンのモサ。じゃ、頼むねー」


 厳しい顔で頷くと、少女は親指を突き出してきた。

 ソルは異国文化に疎い。公国の文化圏における意味合いは把握していないものの、了承の意思は感じられる。幼女も見様見真似で親指を突き返してみる。

 正解だったようだ。イルルは片目を瞬かせた。


「じゃっ、まずイルルがこれを終わらせないとだね」


 イルルはその場にしゃがみ、作業を再開する。

 彼女は足元に川岸の手頃な石礫を積み上げ、風除けをつくっていた。その内側に枝を並べていく。そして短剣で乾燥した繊維質の強い樹皮を削ぐように毟り、組んだ枝に落としていく。蠢くように燃えていた火はその紙吹雪を仰ぎ、快哉上げて歓迎した。すかさず少女が乾いた枝を上がった火の手に乗せてゆく。

 そうして息を吹きかけると、翻るように火勢は増して、枝の節々に纏わりついた。


「よーし、これで最低限の用意はできたんだ。二人とも、火はこれ使ってね! あ、ルーちゃんは危ないからあんまり近寄らないことー、いい?」


 決まり文句のように年長者ぶるので頷いておく。

 イルルは額にかかる髪を拭うと、ぱたぱたといわせて火から離れる。次は寝床の支度か飲料水の確保だろうか。忙しなくあちこちを動き回り、いそいそ小柄な身体で夜支度を整えていた。こちらも始めなくては。

 幼女がちらりと見上げると、紺青の瞳と出会した。


「あ、う」


 と思ったのも束の間、すぐに逃げられてしまった。

 しかし、二人の意思は一致しているように思えた。

 ソルとシャイラは夕餉の用意を行うこととした。


「じゃあ……その。肉を解体、しましょう、か」

「その前に、血抜きを施さねばなりませぬ」

「あ……そうです、ね。なにか、台があれば」

「めぼしい大岩は、どうやら周辺にないようですが」

「私が、つくります」


 あ、とは如何に──と問いかける暇もなかった。

 言うが早いか、彼女は手刀を傍らの大岩に当てた。

 動作の軽々しさとは乖離した轟音が生まれ、砕け散る。砂糖菓子のように岩石は裂断し、歪な石礫と化したまま弾け飛んでいく。ただ裏拳の要領で打撃を加えられたおかげか、飛散する指向性が備わっていたために、この場の誰の元にも向かうことはなかった。

 だが当然、シャイラの傍らには残骸が立ち尽くす。

 見るも無惨な岩石はとても調理台には使えない。


「剣を使えば、よかったです」

「豪快なお方ですのじゃ」

 

 シャイラの呟きからは自省の念が滲み出ていた。

 ただ、負け惜しむような響きがあった。


(悉くが想像の埒外。これが大英雄の振る舞い……)


 幼女は、行為自体に満足げな表情を浮かべていた。


「なになに!? なんかすごい音したんだけどー!」

「近場に調理台等はありましたのじゃか?」

「ちゃんと平たい調理板は用意してるから、上面がごつごつしてる岩でも……ああ、たとえばこの岩とか。大きさちょうどいいけど、こんな岩あったかな……」

「あ、え。……ありがとうございま、す」

「うん? ありがとなんだー?」


 二人で礼を告げるとイルルは「何ー?」と笑う。

 彼女は近場の岩に立てかけてあった板を取り、岩の上に乗せる。両手で上から押さえると、多少かたかた言うものの、調理台としての役は担えるようだった。

 幼女は、両腕と脇に挟んだ兎を抱えなおし、運ぶ。

 台の平坦な上辺に横臥させ、思案顔で見回した。


「あとは何か寸鉄でもあれば……」

「持ってない? じゃー、コレ使う?」


 少女が振り向いて掲げたのは、細身の短剣だった。

 先ほど樹皮を削いでいたものだ。年季の入った刃はそれでも綺麗に揃っており、大事に扱われてきたことが一目で理解できた。食材の解体に適しているとは言えないが、生憎と手頃な刃物が己の剣以外ない。

 ソルが言葉に甘えようとする、隣で静止がかかる。


「大丈夫で、す。私が創ります、から」


 そう言うと、シャイラは右手のひらを表に返した。

 その途端に直上の宙空で白糸が現れ、絡まり出す。

 織り込み、膨らみ、形を為したのは包丁である。


「何度見てもすごいねー。刃物に困らない生活!」

「傍から聞けば、物騒……で、す」

「いやーどう聞いても物騒だと思うけどねー」

「そういう……お仕事、ですか、ら」

「ほう。やはり目を奪われてしまいますのう。ベクティス殿が編み上げられる剣の種類は、武闘用の剣だけではないのですな。刃物であれば何でも?」

「そう、ですね。基本的には、その、どんな刃物でもつくれるかと……試しては、いませんけれど」


 ソルが目を遣れば、シャイラは胸に包丁を抱く。

 きっと幼女の物欲しげな視線に反応したのだろう。


「危ない、です」

「刃物が……ですのじゃか」

「手でも切った、ら……」

「わしが兵士として剣を扱っている時点でどうかと」

「うっ」

「まーその程度は今更なハナシだよね。そもそも、シャイラのお姉さんって血抜きとかできる人? イルルはそういうトコあんまり見たことないから……もしかして、ノーアルタカっていうカッコいいや──」

「……どうぞ」


 シャイラは正論の滅多刺しに遭い、敢えなく撃沈。

 渋々といった様子で刃物を渡してくる。


「では、小刀のほう有難く頂戴いたしますのじゃ」

「怪我……だけは、しないでくださ、い」

「心得ておりますのじゃ」


 ソルは慣れた手つきで血抜きを施していく。

 まず三匹の首に切れ込みを入れて尻尾を断つ。にわかに溢れ出した血液を滴らせ、とことこ川縁まで駆けていく。そこで屈んで腕を伸ばし、蠢く闇色を映した流水で洗う。目前の河川は目が覚めるように冷たく、皮膚感覚を一息に麻痺させる。沢の流れに棚引いて血液が溶けてゆく様は、至近からでも視認しがたい。

 ひとまず腰を上げ、めぼしい浅瀬の岩場まで歩く。

 岩と岩のあわいに生まれている囲いに三匹を引っかけ、十分に血が抜けきるまで放置することとした。

 そして、ずっと背後に付き添うシャイラに尋ねた。


「先ほどの話ですのじゃが」

「は、はい。なんでしょうか」

「ストレーズ殿とベクティス殿。お二人は、討伐隊で何週間も共に生活していると思っておりましたが……そうではないのでしょうか? いえ、野営が多かろう生活を送りながら、ストレーズ殿がベクティス殿の料理の腕を知らないことが不思議に感じまして」

「その。私、いつもハキムさんと、一緒にいて」

「デュナム側の隊員とはあまり交流がなかったと」

「はい……その。交流は、ハキムさん以外とは……」


 存分に血を抜いたあとは頭部を撥ね、臓物を取る。

 膀胱を避けて内臓をくり抜いていく。ぬめりを帯びた体液に纏わりつかれながらも手早く取り出す。

 シャイラは口を抑えながらまじまじ見つめてくる。


「手際……とても、いいです、ね」

「師には何度も叱られましたのじゃ。わしは覚えが悪くてのう。恥ずかしながら付きっきりで見てもらったこともありまして。多く世話をかけてしまいました」

「料理上手な……お母さん、です、か?」

「まあええ、そういう類いの者でしたのじゃ」

「類い……? 実の、お母さんでは、なく?」

「わしの実母は料理下手でございまして」


 幼女の脳裏には、傭兵時代の同僚の顔が浮かんだ。

 生涯で出会ったなかで一番の料理上手。傭兵団には調理師として席を与えられていたほどだ。同期だったため幾度も彼女の手による料理を口にしたが、そのたび腑に落ちるような感慨が湧き上がったものだ。

 咀嚼した食物が臓腑に落ちるという意味ではない。

 食への喜びが一種、納得に似た感触を与えたのだ。

 思えばソルフォートに「美味い」という言葉を初めて言わせ、舌に覚えさせたのは彼女だった。それまで食に無頓着だった彼を、数年後に料理の師事を乞わせるほどに変えたのである。もっとも、肝心の腕前は料理下手の名を返上する程度にしかならなかったが。

 それでも、人並み程度に炊事できるようになった。

 ──料理はね、努力を映す鏡なんだと思いますよ。

 彼女はそう言って、笑っていたことを覚えている。


「ソルちゃん。あとは焼くだけ、ですか?」

「そのつもりですが。いやしかし、女子供が三人。食べやすく切り分けたほうがよろしいかもしれませぬ。最低でも四肢を切断し、部位ごとに分ける程度……」

「女子供、ですか」

「あの男なら……お、お爺ちゃんならばそう言うだろうな、と思いましてのう。わしはこの通り考えの足らない箇所がありまして、そんな場合、誰かの思考様式をなぞる悪癖がありまして。お爺ちゃんは、あれも気の利いた男ですので配慮は欠かしませぬので」

「なるほど。ソルちゃん、お爺ちゃん子、ですね」


 シャイラの相好にほんのりと赤味が差した。


「とりあえずは、肉を解体していきましょうか」

「あ。あの……ソルちゃん。切るくらいなら、私が」


 遠慮がちに名乗り出られたが、しばし思案する。

 はて、どうしたものか。本心としては、この程度の雑事に大英雄の手を煩わせられない。だが、躬行に固執し、にべもなく遇らうというのも悪手と見える。意図的でないにせよ、彼女の願いを袖にし続けているのだ。ここは年長者の本分として譲るべき場面だろう。

 幼女は恭しく包丁を両手で手渡しし、頭を下げる。


「では、お任せいたしますのじゃ」

「は、はい。その、お任せくださ、い……?」


 シャイラは彼女の仕草に釣られ、軽く頭を下げる。

 おっかなびっくり刃物を受け取ると、机上に横たわる兎と向かい合った。こちこち、と擬音が鳴るような肩肘が張った固い動作だった。緊張が見える。

 されどそれも束の間。彼女が瞑目して、唇を突き出すようにして息を吐いた途端、霧散する。やおら瞼を上げながら、緩やかに包丁を上段に構えた。

 ほう、とソルは嘆息が漏れる。その姿勢はまさしく剣士の達意。シャイラに微風が纏わりつくたび、切り裂かれるようだった。彼女の瞳からはすうと光芒が去り、ソルの頭には記憶に新しい模擬戦時の姿が蘇る。

 さあ振り下ろす──その腕にイルルが飛びついた。


「待って待って! それ料理の構えじゃないから!」

「え、と」


 大英雄は腕に少女が取りついても微動だにしない。

 一瞬動作が止まり、目を丸くし、小首を傾げる。


「あの……危ないです、よ……?」

「ここでイルルの心配!? ありがとうなんだ!」

「はい。なので、腕を離してもらえたら、と」

「いやそうじゃなくて! 危ないのは君なんだ!」

「大丈夫で、す。相手、もう動かない死体です」

「え、全然冷静……イルルがおかしいの……?」


 イルルは事態を静観する幼女に視線を向けてくる。

 ──包丁って上段に構えないよね?

 ──構えるわけがないでございますのう。


「じゃーシャイラのお姉さんを止めてよー!」

「見入っておりまして」

「シャイラのお姉さん、まず包丁……下ろそ?」

「はい……」




 ※※※※※※※※※※




「ごめんなさ、い。実は私、料理……経験、なくて」

「まさか、見たこともないとはのう」

「ルーちゃんは落ち着いてるねー……」

「わしにもこんな時代があったのうと」


 幼女はしみじみと線目で頷きつつ、手を動かす。

 小さな手で細い柄の包丁を握り、肉の解体中だ。

 その様子を背中越しに見守りながら、イルルは目線を隣に並ぶシャイラへと滑らせ、人差し指で脇腹を軽目に小突く。無言のうちに「ちっちゃい子に無理な庇われ方をされちゃったよ」と諫めているようだった。

 シャイラは立つ瀬もなく、視線を泳がせている。

 この場の年長者は愧赧の念に打ちひしがれていた。


「斬るだけ、なら……私にも、できそうって」

「まー初めてだし、できないのはしょうがないんだ。シャイラのお姉さんはすごい貴族生まれの武人さんだし……だから、これはルーちゃんがすごいというか」

「? わしですか」

「そうそう、料理姿がサマになってるんだー」

「ああ……調理にはそれなりに慣れておりますゆえ」


 適度に肩から力を抜き、机上の兎と向かい合う。

 刃の先端、腹、角を巧みに利用して、食べやすい程度の肉片に変えてゆく。


「すごいで、す。模擬戦で見せてくれた──流派に属しないもの、まだ持ってる、なんて。やっぱり只者じゃ……ど、どこで覚えたんです、か……?」

「いやーこれだけは家庭のお台所だと思うよー?」

「お台、所。そこでその、弟子入り、を……?」

「言い方が道場みたいなんだ」

「ええ、この構えの会得にも師がおりましてな」

「お師匠様。ホントに道場なんだー」

「いえ? ただ炊事場で料理の得意な者から、そのいろはを教わっただけですがのう」

「うん、そーだよね。イルル、間違ってなかった」


 イルルは二人の会話に振り回されつつも、自分を保つことに成功した。


「その、得意な方って先ほど言って、いた……?」

「はい。わしの料理全般の師ですのじゃ」


 そうこう雑談を交わす間に、兎を解体し終わった。

 そうして、宵は深みを増してゆく。焚火の光が届く範囲外は闇に閉ざされ、まるで月を浮かべた夜空のようだった。彼女たち三人は、そんな全方位に広がる光を囲い、和気藹々とした晩餐に突入していた。

 焚火に炙られているのは兎肉。一口大の桃色の肉片が、三本の長細い刃物──例によってシャイラが生成した──で串刺しにされ、炎中で脂を滲ませている。

 手元には紅い果実と、底の浅い器。前者は渋皮が剥かれて白い身を曝け出されている。後者は大葉を皿状に織り成したもので、吸い物らしき何かが薄く張っている。以上が本日の献立、立案者はイルルである。

 彼女の郷土料理のようで、いずれも見覚えはない。


「えぐみが良い加減で、実に美味ですのう」

「おー、わかるねールーちゃん」

「…………」

「シャイラのお姉さん?」


 吸い物を口に含んだシャイラは、青い顔で俯いた。

 片手で口許を抑えながら震えている。

 腰元から蓋付きの水筒を取り出し、中身を舌に含ませたあと一言。


「その、え、えぐみが……強烈、ですね」

「口に合わないなら、ほらほら兎のお肉をお食べー」

「はい。……その、いただきます」

「獣臭さは平気ですかのう? 強目に香辛料は利かせましたが、苦手な方は苦手でしょうが」

「あの、いえ、こちらは……懐かしい、その、ハキムさんのお料理にどことなく……似ていて、ええと」

「要はおいしいってことなんだ!」


 シャイラはぶんぶんと首肯し、串に纏う肉を啄む。

 ここからは三人、寛いだ風情で明日の話を始めた。

 三人で討伐予定の獄禍──それに対する方策を練ったあと、人心地ついたところで。


「そういえば気になってたんだけど、ルーちゃん」

「何でしょう。ストレーズお姉ちゃん」


 ソルは馴染んだ調子で答えつつ、葉の杯を傾ける。

 すでにイルル特製の吸い物は飲み干している。いまは、傍に横たわる渓流の水が代わりに注がれている。これは清澄そのもので、喉を通れば爽快の一言に尽きた。食後の幸福感を堪能するにはうってつけだった。

 イルルは渋皮の剥けた果実を齧り終えて、ふと。


「君とハキムのお爺ちゃんって似てないよね」


 不意に、端的に、孫設定の脆弱な核心を突かれた。

 ソルは瞑目しながら思惟する。額に汗が浮かぶ。

 そこで意外にも、下手な弁明をするより先にシャイラが助け舟を出した。


「いやでも、その、ちゃんと首も生えてますし……」

「大体の人には首は生えてるよシャイラのお姉さん」

「髪の毛も白いですのじゃ」

「ハキムのお爺ちゃん、地毛は赤だったような」

「わしが聞いたところによれば母方似でして」

「髪の毛が白いのも?」


 ソルは無言で頷いた。

 不意は突かれたが、予想範囲内の問いかけだった。

 元より孫設定には無理があるのだ。イルルに指摘された髪色もそうだが、遺伝子的な断絶を感じる点に、顔貌がある。美醜は天地ほどの隔たりがあり、顔の部品は鼻筋ひとつ、眉ひとつ取っても同族とは思えないだろう。これは鳶が鷹を産むどころの話ではない。

 そのため事前にハキムと練った設定だったが──。


「でも、そんなこと……あるので、しょうか」


 今度はシャイラに背中を刺されることになった。

 曰く「ビエニスで白髪は忌むべき存在」らしい。

 とは言え、その風潮も現在では形を潜めている。その理由は現在、ビエニスの王座に君臨する者の髪が純白であるからだ。かの王国は、良きにつけ悪しきにつけ実力・実績次第で風潮が覆る。それまで忌まわしい象徴だったものが、吉兆の証になることも存在する。

 しかし、ハキムが(つがい)を得たのは何十年も前のはず。

 その時代には白髪は差別対象、白髪の者と夫婦になれたとは思えない──。


「いえ、おかしくはありません。ハキムもその妻も、ビエニス内の人間ではなく、傭兵育ちの根無し草。差別や偏見が薄い育ちでございますのじゃ。それも、奴がビエニスに移住したのはハキムひとり……と、聞いております。問題はないでしょう」

「そう、なんですか……知りませんでし、た」


 シャイラは膝を抱えて、ぽろりと独白が漏れる。


「私、ハキムさんのことも、あまり知らなくて……」


 あまりに消え入りそうな声色で、口を挟めない。

 そこでソルはひとり眉をひそめた。シャイラの言から察するに、ハキムは出自程度を口にするのみで、昔語りを滅多にしていないようだ。だが、旧知の腐れ縁からすれば、どうにも信じられない。戦場を駆け回っていた頃など、人の鍛錬中でもお構いなしに絡んできたものだ。酒の席では、大仰な身振り手振りで面白おかしく武勇伝を語るのが彼の常だったはずである。

 そんな口達者が、一体何の心境の変化だろうか。


「ソルちゃんのことすら、聞いたこと、なくて」


 ──ご安心めされよ。それは口から出任せゆえ。

 ソルはそう真実を投げかけてやりたかった。

 しかし、その口から出任せの身分に甘んじる身。途端に広がった重苦しい空気に対して、彼女ができることはなかった。シャイラもこれに堪えかねたのか、自らの腰元に手を伸ばしている。取り出したのは先ほども見た水筒だ。彼女は逃避するように蓋を開けると、円筒を傾け、中身の液体で唇を湿らせている。

 そんな一連の動作に、イルルが首を傾げた。


「シャイラのお姉さん、それなに?」

「……これは。お水、水分補給で、す」

「? でも、川の水はそこに汲んであるでしょ?」


 指差したのは、シャイラの座す付近にある器だ。

 晩餐では吸い物用のものだったが、いまや渓流の水が満ちている。


「川の水じゃない、美味しいお水です」

「へー! じゃーじゃー、イルルも飲んでいいー?」

「ストレーズお姉ちゃん。しばし待たれよ」

「そ、そう。あなたは……やめた、ほうが」


 イルルは紅い瞳を爛々と輝かせ、水筒を見つめる。

 未知なる物品に興味津々の様子だった。

 しかし、ソルには薄々内容物に見当がついていた。

 ゆえに制止の言葉を投げかけ、当のシャイラも誤魔化すような口振りだったのだが──。


「? でも、ただの美味しいお水なんだよね」

「…………もちろん、そうです」


 イルルはシャイラの傍まで近づき、目を瞬かせる。

 膝立ちのまま迫られたシャイラは、なぜかそれで観念したように水筒を渡してしまう。先ほどの刃物の件と言い、押しに弱すぎる大英雄だった。よって二人の制止も虚しく、少女は中身を口に含んでしまった。

 ぐいぐい、水筒を傾げて琥珀色の液体を流し込む。

 細首がわずかに蠕動する。水分補給と割りきった豪快な仰ぎ方である。舌の上に溶かして味を確かめるより先に、身体に入れることを重視している。よほど喉が乾いていたのだろう。そう言えば、彼女はまだ水分を摂っていなかった。この際、美味しいらしい水で喉を潤してしまえ、と思っているに違いなかった。

 なお、少女は頭を傾げた途端に噴き出した。


「ストレーズ殿!」

「うぇぇぇにがああああ……」


 立っていられなくなったのか地面に倒れ伏す。

 イルルは呻きつつ、喉から掻き集めた唾を吐く。

 シャイラがその頭を抱き寄せ、太腿の上に乗せる。

 そこで頭巾がはらりと腕のなかで落ちる。思えばここで初めて素顔を見たが、尋常な顔色でないことだけははっきりわかった。紅い目をぐるぐると回して、年相応の頬は熟れた林檎のように赤味を帯びていた。

 身体が酒精に犯されている何よりの証拠だった。

 頬を膨らませ、非難がましい目線を持ち上げる。


「これー……おさけ、じゃん」

「違います。幸せになれる……お水で、す」


 シャイラは即座に否定してみせた。

 如何にも、間然する点は微塵たりともない──と言わんばかりの澄まし顔である。しれっと地面に落ちた水筒を拾い、腰元に戻している。もはや開き直ったようだ。酒気によって気が大きくなっているのか、いままでの儚げな印象から外れる強引さを見せている。

 そんな彼女に益々頬を膨らませるのはイルルだ。


「もー……シャイラのお姉さん、覚えてる? ハキムのお爺ちゃんから『お酒はもう呑むなー』っていわれてた、じゃん。そもそも、こんなおさけ、どこで」


 調達した、と言いかけた最中に声が途切れる。

 かくん。イルルの頭部がずしりと重量感を増した。

 弔うように額を数度撫でて、頭巾をまた被せる。

 

「イルルさん、寝ついちゃい……ました、か」

「子供にはまだ早い飲み物ですからのう」

「流石にソルちゃんは、まだ、だめですよ?」

「酒は嗜む程度が最もよい付き合い方ですのじゃ」

「……うう、大人です」


 飾り気のない返答に、シャイラは再び水筒を取る。

 幼女らしからぬ悠然とした態度を前に、三倍はあるかという歳の差を思えば彼女の立場がなかった。幼なるはその年齢ゆえ半可通の窘めにすぎないはずだが、鳴かぬ蛍が身を焦がす。言葉少なな返答がゆえに圧を感じて、きっと居た堪れなくなったに違いない。

 シャイラは膝からイルルの頭を地面に下ろす。そして逃げるように夜の帳の降りた川縁に足を向け、ソルの視線を背にするように腰を下ろした。そこに満ちる蕭々とした水音が、彼女の心境を現しているようだ。

 彼女は一口呷って、言い訳めいた呟きを零す。


「趣味、なんです」

「乙なものですのう。よく……呑まれますか」


 直上にある宵月の灯りを浴びて、また一杯。

 シャイラは典雅な影絵世界の住人のようだった。


「普段は。その、月夜にひとりで呑むのが、好きで」

「ほう。いまはわしも、ストレーズ殿もおりますが」

「ええと……その、ですね。そういう気分でして」

「なるほど。そういう気分でしたか」


 ソルは胡乱な大英雄の言い回しに頓着しなかった。


「明日は獄禍討伐ですが、問題はないですかのう」

「はい。そんなに飲んでませ、んから」


 明日討伐する──魔力供給用獄禍を思い浮かべる。

 討伐隊で呼称される個体名称は『ケダマ』。

 曰く、総身を土色の体毛で覆っている球体の怪物。

 森の一角、そこで太木めいた四足をそれに添うように突き立たせて、まるで苔生した古岩のように居座っているらしい。周辺のマナを収集し、身体直下から伸びる管によって本体の『根絶』に魔力を渡している。

 ソルたちに与えられた任務はその供給を断つこと。

 平たく言えば、ケダマの討伐こそが当面の目的だ。

 気炎はどこまでも高く昇るが、その前に──。


「……それにしても、なぜケダマなのでしょう」

「? ケダマ、という呼び方、ですか?」


 はい、と真摯そのものの眼差しで首肯した。


「その獄禍が、その、毛玉に、似ているからですね。異形で、丸々していて、毛がもじゃもじゃしていて、頭部や胴という分類、もないので……その、私たちはケダマと、そう名付けて呼んでいま、す」

「名付け方が、少し……ふむう」

「な、名付け方、ですか。い、いけません、か?」

「ああー……いえ」

「で、ですよね。問題ない──」


 シャイラの震え声に幼女はふるふると頭を振った。

 その挙動に胸を撫で下ろしかける大英雄の声。

 だが、そんな彼女に率直なまでの本音を口にする。


「あまり浪漫がない、ですのう」

「はい…………はい? え?」


 彼女の顔は見えない。だが声色だけで判断できる。

 きっと、眉は耳を疑うように帆を張っただろう。

 ぱちぱち目を瞬かせて、こちらを見遣って。


「い、いまのは、命名者を慰める流れ、では……?」

「名前には、個体識別という本分以上の意味が付き纏いますのじゃ。運命の暗示、過去の轍、現在の鏡、本性を象る鋳型。名とは人の外面と内面を繋ぐ穴のようなものでございまする。表面的な特徴を言い表すだけではいささかに物寂しいと思うのです」

「も、物寂しい……」

「命名の才が、あまり感じられませぬのじゃ」


 ぐさりぐさりと愉快な刺突音でも鳴るようである。

 ばっさりとした物言いに、大英雄は胸を押さえた。

 だがソルは一顧だにしない。英雄譚を嗜む者なら有している、否、好きな何かを持つ者なら誰しもが有している面倒な性質──それが関心事ゆえに決して妥協を許さない、拘り、というものがあったからだ。評価基準を満たしていなければ、とりわけ厳しい態度を取ってしまうこともある。ソルからすれば、英雄譚における『名』という項目には並々ならぬ想いがあった。

 命名者は誰か、と尋ねたが彼女は口を噤んだ。

 これがハキムであれば、ひとつ揶揄われた際の反撃の矢にできると思ったのだが──。


「そ、それにしても」


 そう、シャイラは強引な話題の路線変更を告げた。

 ソルも深追いはしない。話のついでに聞ければいい程度の興味だ。命名者を責めたいわけではない。しかし、彼女が庇うのだからハキムの容疑が強まった。

 ざざ、ざぷり、と流水の飛沫音が耳についた。


「それにしても、ここ……涼しくて、いいです、ね」

「いまのベクティス殿はそうでしょう」

「ああ、私……の服装、ですよね。肩からぱっくり、なくて。あれはその、ソルちゃんにはか、勘違いしないで欲しいんですが、恥ずかしくて、ディナ…… 陛下に頂いたので、その、好きでやってるわけじゃ……」

「いえ、そうではなく」


 シャイラの必死の抗弁を、ソルは心苦しくも遮る。

 焚火に一度目を向けて、再び彼女を見つめる。


「ご自身がどこにおられるか、自覚はありますか?」

「え? ああ……ここは」


 そこで、シャイラは己の行為に気づいたようだ。

 いまや彼女は川縁にいない。渓流の只中にいる。

 二人で会話を続けつつ、ふらふら進んでいたのだ。

 ソルはそれまで素面か否か判断しかねて咎めなかったのだが、ここに来て確信して、立ち上がる。


「どこでしょう?」

「ベクティス殿──!」


 大英雄でも、特別酒に強いわけではないらしい。

 シャイラは黒々とした渓流の中に沈んでいった。




 ※※※※※※※※※※




「ねー、もう。シャイラのお姉さんはそうだから」

「ハキムが酒を禁じた理由がわかりますのう」

「…………」


 早朝。薄汚れたローブの背──イルルが先導する。

 彼女は、先んじて背の高い草花を掻き分けていく。

 植物の根を軍靴でしかと踏み固め、後続のために道をつくる。これを辿るようにしてソル、シャイラが屈んだ姿勢で続く。それでも四方八方を遮る草が頬や手に当たり、纏わりつき、ぴくぴくと目元が震える。

 しなる草花は丈夫で、蕾のような棘が煩わしい。

 ソルはちらと、負の雰囲気が漂う背後に目を遣る。

 そこには、両手で顔を抑えた二日酔い女(シャイラ)がいた。


「もー水筒の中身は捨てちゃったから大丈夫だけど、でも、どうしてお酒なんて持ってたのー? 確か、シャイラのお姉さんが討伐に持ち込もうとしたのは、ハキムのお爺ちゃんに捨てられてたはずだけど……」

「ああ、奴は事前に対策していたのですのう」

「だよだよー。だから安心してたんだー」


 昨晩はひどい始末だった。

 あのあとソルは一糸纏わぬ姿となって、川中に飛び込んだ。何とかシャイラを泳いで連れ帰り、焚火付近まで引き摺り、河原に寝かせる。その際には彼女の軽装が幸いした。衣服が多量の川水を吸い込んでも、許容範囲内の重量に収まっていた。ここでイルルに助けを求めたが、慣れない酒精に犯されて気絶中である。

 孤立無縁。介護は不慣れだが、やるしかなかった。

 まず、彼女の身体に貼りついていた服を()いた。

 風邪を引かせるわけにはいかない。柔い葉々や手拭いで水分を取った。蒼白な肌は不健康そのもので、戦場に出る武人とは思えないほど綺麗な肌だった。

 しかし──脇腹にだけは、濃い古創(ふるきず)が残っていた。


(刃傷、かのう。不自然……と思うことが不自然か)


 そもそも、シャイラの身体には傷がなさすぎる。

 次に宵の森に入ると枝を見繕い、物干し棹を組む。

 これを熱気をもろに受ける位置に設置して、シャイラの衣類を引っかけた。身一つの彼女は着替えを持参していないようで、明日までに乾燥させる必要があったのだ。あそこで気力は限界、幼女は眠るのだった。

 つまり現在、背後から漂う湿度ある空気は、ひとえに沈鬱な大英雄の心境から端を発したものだった。


「ご……めんな、さい」

「これは反省をお願いしますのじゃ。心臓に悪い」

「そーだよそーそーっ。モーセーだよモーセー」

「は、い……」


 沈鬱な声色からは自己嫌悪の念までも感じ得た。

 だが、今回こそは彼女自身の明確な失態である。

 ソルも不要な言葉は口にせず、前方に声をかける。


「そろそろですか。件の獄禍……ケダマの居所は」

「うん。そだねー、もうすぐのはずだよ」


 イルルは手元の羊皮紙に目を落としていた。

 あれは討伐隊お手製の周辺地図だ。彼らの偵察隊が把握した子飼いの獄禍の位置が落とし込まれた、謂わばソルたちの生命線である。紛失すれば立ち往生すること請け負いの重要物品。昨日までは、いささか気の抜けた印象を持つイルルに預けられていることが疑問だったものの、いまや疑念は氷解している。

 シャイラに持たせるよりは遥かに安心できるのだ。

 元より、イルルは第一印象以上に頼り甲斐がある。


(ストレーズ殿は戦闘方面の力量は未知数じゃが)


 実際に手合わせしていない、という点も大きい。

 だが、それ以上にソルが魔術に関して門外漢だ。

 イルルの挙動に目を遣る。彼女は地図を丸めて、腰に引っ提げ、再び歩き出していた。彼女が鼻歌混じりに振り回しているのは、魔術補助のための長杖に違いない。脆そうな印象を与える古木が使われている。年季の入った黒々とした持ち手に、聖文字が刻まれていあ。杖の先に埋め込まれているのは透いた赤石。さながら樹木の手が宝玉を握っているようにも見える。

 あれが如何な代物かもわからない。観察を終える。


「あの、大丈夫……です、か?」


 ふと、耳元に生暖かい吐息が触れる。

 ソルはびくと肩を竦ませ、素早く横目を流す。


「ベクティス殿のほうが大丈夫でしょうか」

「あ、吐き気は、落ちついて……で、ではなくて」


 シャイラは酒臭い口許を抑えつつ、小声で続ける。


「ご、獄禍討伐のことです……初めて、ですよ、ね」

「ああ、ええ。ジャラ村ではハキムにお株を奪われましたゆえ、初めて相見えることになります。他、獄禍は物語や伝聞で見聞きした程度でござりますのじゃ」


 英雄の最高峰はそれこそ伝説上の竜に比喩される。

 全霊を出せば、一国を滅ぼすことも夢ではない。

 庸劣の身からすると、皮肉なことに英雄の存在はさながら怪物だろう。だが、獄禍は比喩の形を取らずして怪物なのだ。生物の種類が異なる。見目も禍々しければ膂力も能力も、悉くが人の身を凌駕している。

 これは原罪の獄禍に限らない。怪物は怪物。

 十把一絡げの英雄を一蹴するだけの力を持つのだ。

 単純な話、容易く討伐可能ならば──特に子飼いの獄禍を魔力補給路に使う『根絶』など、とうの昔に打倒されている。しかし、現実として成し遂げられていないのだから、困難の度合いは推して知るべし。

 前座であるはずの子飼いの獄禍ですら強大な壁だ。


(だから遣り甲斐があるのじゃ)


 人らしい不安の種は、気炎を上げる燃料とも化す。

 甘い見立てで侮っているわけではない。ただ当然、直接相対していないため、実感が伴っていない。ソルの経験則として「肌身に触れなければ真に向き合えない」とある。どれだけ心積もりしようと、現実は固めた覚悟をいとも容易く切り崩してくるものだ。

 大事なことは、そこで即座に足を動かせるか。

 だから、ソルは必要以上に構えず時を待つだけだ。

 そんな心構えを他所に、シャイラは幼女を安堵させようと精一杯言葉を紡いでいく。


「私も、イルルさんも……守るので、その──?」


 そのとき、怪訝そうに語尾を上がる。

 見れば、先行していたイルルが立ち止まっていた。


「ケダマを捕捉しましたか、ストレーズ殿?」

「ルーちゃん違うよ、ストレーズお姉ちゃんだよー」

「え……否定、そっちなんです……か?」

「ケダマを捕捉しましたか、お姉ちゃん?」

「律儀……」


 イルルは右手の人差し指で空を混ぜて、言い直す。


「ケダマを捕捉したわけでもなくって」


 ソル一行の現在地点は、目標獄禍に程近い場所だ。

 風景は道中と大差ない。踏み固めた小道の脇にある草々が、上方で頭を揺らしている。重なるように木立の枝葉にも覆われたこの薄暗がりでは、イルルの瞳が弥増しに紅々と輝いて見えた。真剣味を帯びた色だ。

 言いたいことが吉か凶か、表情が代弁していた。

 八の字に眉を曲げて、困惑で顔を曇らせている。


あれ(・・)。来たみたいだよ」

「そうです、か。予想の範疇、ですけれ、ど」

「あれ、とは何ですのじゃ?」

「ルーちゃんは初めて見るよね。あれ」


 イルルが身体の位置をずらして、前方を指差す。

 それは──さながら立体化した人影であった。

 背丈は成人男性の平均ほどだろうか。形こそ人型を象っているが、薄く輪切りにされた層が幾つも重なっている。草丈から半身が飛び出すほどの体躯であり、表面はつるりと滑らか。幾条かの木漏れ日に光沢が出ている。漆喰で丹念に塗り重ねられたかのようだ。

 イルルの肩越しに見えた、あまりに不可解な物体。

 否、そもそも実体があるかすらも不明瞭である。

 漆黒の影が、まるで石のように立ち塞がっている。

 ソルの目からすれば、生物とは信じられない。

 だが、無害と判断できぬほど不穏な存在感がある。


「あれは獄禍、ですかのう」

「まっ、そうだね。『クロカゲ』っていうヤツだね」

「ケダマとは別種の……獄禍の一部で、す」

「ですが……それは実に奇異。わしの記憶が確かであれば、子飼いの獄禍は魔力補給の任を担っており、然れば一ヶ所から動かぬはずではございませんか」

「うん。ちなみにね、他の獄禍がいるところに迷い込んだわけでもないよ。あれはね、シャイラのお姉さんも言ったけど、ある獄禍の一部(・・)なんだ。本体は一ヶ所から動けないけど、ああいうタンマツは動けるの」

「ほう。それはまた、厄介な」


 彼女たちの口振りから、幾度か矛を交えたようだ。

 昨晩の寝床を天然の要害に構えたのは、夜闇に紛れた野生動物を警戒してのことではなかった。この、獄禍の端末に襲われる事態を想定していたのだ。だとすれば、昨晩飲酒したシャイラの罪は重いが、当人は自信なさげに「言い訳、ですけれ、ど」と呟いた。

 前髪を静かに払い、胸に手を当てながら息を吐く。


「私、は……それでも、負けない、ですから」

「流石。それはまた、頼もしいことですのじゃ」


 ソルはシャイラの隣に並び、剣を抜いている。

 自重で靴を土に埋めつつ、クロカゲの出方を窺う。

 警戒する三人を他所に、彼は突っ立ったまま。

 単なる置物かと状況を解釈してしまうほどに──。

 ただ、ここから数丈先の位置に在るだけだ。


「……ッ!?」


 息もかかる(・・・・・)位置に(・・・)クロカゲが(・・・・・)立っている(・・・・・)

 転瞬──音が鼻先で破裂。空高くまで響き渡る。

 だがそれはソルの身体を打ち据えたものではない。

 横合いから伸びた手指が、黒の拳を掴んでいた。

 その腕を視線で辿る。シャイラが剣呑な眼差しをクロカゲに注いでいた。対してクロカゲは無貌のまま、ぎちぎちと耳障りな音を発する。金属同士を鳴らすような、歯軋りのような、慟哭のような擦過音だった。

 クロカゲは残る拳を放つと──目を凝らして残像がかろうじて捉えられるほどの速度──シャイラは正確に掴む。それが一秒も経たないうちに繰り返されること、三十六度。熾烈な攻防は、人体の処理速度の関係上、映像が先に、振動と音は後に展開される。そして後に詰まった風音が暴発して、鼓膜を激しく揺らす。

 直接、それが脳味噌に伝達されて吐き気を催す。


(は、やすぎる)


 ソルは手出しができないまま、見守っていた。

 想像絶する速度。状況が呑み込めない。シャイラとクロカゲの攻防だけではない。彼の瞬間移動もだ。ソルにも目には一角の自信があり、あの一刹那は瞬きすらしていなかった。それでクロカゲの一挙手一投足を観察して、相手の力量を分析するつもりでいたのだ。

 だが、ただ残像の霞みを捉えただけに終わった。


(わしの能力を遥かに越す……戦闘)


 クロカゲは一切の予備動作もなく元の位置に戻る。

 その瞬間的な移動は、やはり視認もできない。

 ソルは前傾姿勢に移行したが、それを細腕が制す。


「ソルちゃん。私の、うしろ、に……」

「いや……背後も安全地帯ではないようですのう」


 ぞわり、と背筋に怖気が過った。

 察知した冷えた感覚を追い、周囲に目を走らせる。

 影。見渡しても、影、影、影、影、影、影、影。

 クロカゲに、不気味にも等間隔で囲まれていた。

 何より恐ろしいのは、すべてが石木めいた気配。

 彼らからは微塵の敵意も、殺気も、感じられない。


「……さて、どうしたものかのう」



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