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修羅幼女の英雄譚  作者: 沙城流
第二章.幸せな怪物の墓標

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7 『無明の闇』

ナッド視点です。

 ハキムの発言にソルが噴き出したのと同時刻。

 また別の、苔生した鉄檻には閉塞感が満ちていた。

 そこでは、燻んだ茶髪に砂粒を絡めた男一──。


(なんで俺たち、生きてんだろ)


 ──ナッド・ハルトが三角座りしていた。

 眼球は虚ろに濁り、暗がりを朧に見つめている。

 心を透かす窓があれば結露で曇っているだろう。

 濡れた脂汗も厭わず、額を力なく膝頭に当てる。

 彼はいま薄手の下着一枚だった。身体に付着した煤と汗でぴたりと貼りついている。倦怠感に吸いつかれた気分だった。この心許ない着衣の理由は「『根絶』討伐隊を名乗る自殺志願者たちに装備を没収され、あまつさえ服さえも奪われたから」らしい。

 その伝聞調が示す通り、実際に見てはいない。

 彼が意識を取り戻したときにはこの有様だった。


(目覚めてから……体感じゃ二、三時間になるのか)


 意識を手放す前と、その体感時間は同じだった。

 つまり──と、そこでナッドは頭を振る。

 自らの額を、立てた二つの膝頭に強くぶつけた。


(考えるな。もう何度も後悔しただろうが……!)


 遡ること数時間前。目覚めた直後の話である。

 ナッドはまず嘔気を覚えた。天井の染みや鉄檻を視認するより先に、頭を逸らして大口開けた。喉仏を上げることで気道を締め上げる。彼は歯を剥き出しにすると、幾度か唾を吐いた。胸中に蟠る感覚が競り上がることで胃と頭の内容物が吐き出された。

 思考の糸は解れる。胃内と脳内はからっぽだ。

 そこにすかさず流れ込んだのは『青色』だった。

 憂鬱を映した色水は、注がれれば注がれるほど気分を沈めて、身体を重くする。時を経て染み込む最中、苦味を覚えるほどに青々しいそれは──記憶だった。

 ハキムとの遭遇戦にて惨敗を喫した、記憶。

 何も成し遂げられずに幕を下ろした、記憶。


(少尉……俺は、なにもできずに)


 ──結局、俺がなにやったって一緒なのかよ。

 後悔とは水だった。亀裂が走った心に沁み入る。そうやって灯っていた()が冷まされれば、震え上がるほどに寒い。時間という強風が吹き荒んだ現在、吹き曝しだったそれは氷水めいた熱度まで落ち込んだ。

 ナッドが痛感したのは、己の力不足である。

 無力感に指を噛んだ。もう何度目の後悔だろう。

 ──もし俺に力があれば、何かが変わってたのか。

 そんな絵空事を無駄と知りつつも描いてしまう。


(幸運だったのは少尉が生きてるって事実だけ。この座敷牢にいないって気づいたときには取り乱しちまったけど、他の座敷牢で事情を訊かれてるらしいし……ホントに、それだけはよかった)


 悔恨の海から目を逸らすために顔を上げた。

 視界は存外に明るい。格子窓の向こうでは、蒼褪めた待宵月が浮かんでいた。夜目に慣れた両眼には眩しすぎる。その光は鉄格子に型抜かれながらも座敷牢の暗がりに注がれ、座り込む九人の姿を曝け出した。

 彼らは皆、ナッドたち帝国小隊に属する隊員だ。

 自身の例に漏れず、恰好は下着一枚である。各々の頬や身体は黒ずみ、武装は解かれている。そして何よりの変化は一様に表情の影が濃くなっていることだ。

 たとえば、とナッドは各々に焦点を合わせていく。

 一人は悲観したように床に目を落としている。また一人は覚悟を決したように唇を窄め、一人は虚脱感のままに石壁に体重を預けていた。この空間は針の筵である。居心地の悪さが結晶化し、首筋を突いていた。

 その一端を担う大男ことゲラートが口を開く。


「オメェの言い分は大体わかったよぉ。つまり俺たちは、原罪の獄禍討伐隊とかいう夢見がちなイカレ連中に捕虜にされたってワケだな?」


 手を伸ばして鉄柵を掴むと、檻外に歯列を見せる。

 そこには言葉通りの向こう見ずな勇ましさはない。

 不思議と、ただ捨て鉢めいた自嘲の色があった。


「ホントにな。……いや、真剣に言ってんのか?」

「だとすればビエニス王も酔狂だ。まさか、うちとかラプテノンとかと肩並べる暗君だったとか? 今代のビエニス王の評判は嘘っぱちだった、とかか」

「事実なら、まあ……頭がおかしいのだろうな」

「気宇壮大なお題目だ。とは思うが、ねぇ……」


 そんな彼に追随するように悪態を飛ばす者もいる。

 これらの矛先は、檻外の人影に向けられていた。

 少女(・・)は手にある長杖を、声に合わせて地面に突く。


「だ、か、ら、ダイジョーブだって。このイルルを信頼してよー! 原罪の獄禍だって倒せるし、まだ君たちは捕虜なんかじゃないし……君たち爆発させちゃったのはごめんね。あれ、オシゴトで断れなくて」


 そうしおらしく言い終え、かっくり項垂れる。

 陰気な牢にはそぐわない、明朗そうな少女である。

 厳格なビエニス軍人とは毛色が違うように思えた。

 しかし、事実として彼女は座敷牢の看守である。

 身長は低い。ただ年の頃が十代前半ならば平均的に類されるだろう。具体的に言えば、わずかにマジェーレより高いくらいだろうか。しかし、その素顔を窺い知ることはできない。少女は聖職者めいたローブを目深に被っているのだ。月光も届きにくい座敷牢において、この場の誰もが彼女の顔形を確認できない。

 しかし、ナッドの記憶には確と焼きついている。

 彼女は後悔の記憶の幕引きを務めた相手だ。

 口内を噛む。忘れられるわけがなかった。


(あの、村の入り口で待ち構えてたガキなんだから)


 この場における明確な敵対者である。

 ナッドが苦渋の末に恩人(ソル)を見捨て、大英雄(ハキム)に背を向け、気に食わない相手(マジェーレ)にその場を託し──帝国軍本部の救援を呼ぶため走った。彼女はそこに立ち塞がり、切り拓けただろう、か細い希望を阻んだ少女だ。

 目を逸らす。抱え込んだ膝が、再び震えかけた。

 炎というのは人間の本能に恐怖を喚起させる。思い出そうとすると、歯の根が噛み合わなくなってしまう。バラボア砦で遭遇した炎使い(ボガート)との相対も含めて、ナッドは炎恐怖症に片足を突っ込みかけていた。

 だから、決して思い出してはいけないのである。

 あの業火を。身体を容赦なく呑んだ、熱を。


「オシゴトだぁ? よく言ったモンだぜ」


 そんな少女に、真っ向から歯向かう者がいる。

 ゲラートは皮肉めいた口ぶりで柵越しに対峙した。


「趣味もお仕事も関係ねぇよ、オメェ。経緯を慮るほど優しかねぇんだよ。ジャラ村で楽しく獄禍探ししてた俺らをキレーに吹っ飛ばしてくれやがって」

「……これはゲラートの言う通りだな。俺らな、お前に全員爆破されたんよな。そんで、いまは檻んなかって状況なワケ。そこでさ信頼しろとか手は出さないとか言われたってなー……」

「信じられるわけがない、当たり前のことだ」


 彼の正直な言葉に、帝国小隊の数人が首肯する。

 何やらゲラート含む八名も爆破されていたらしい。

 話を聞けば──村の中央部にハキムが姿を現したとき、ソルとナッド、マジェーレ以外の小隊員はやはり北部にいた。そこで各々が団結して獄禍の痕跡を探っている最中に、この少女と出会ったのだという。

 ゲラートたち曰く「初見でもその異様な恰好には警戒心を抱いていた」らしい。乞食の襤褸にも似た修道服と、老木を切り出したかのような杖。もはや村民さえ消えた村で、これほどの不審人物もそうはいまい。

 だが、彼らの戦闘態勢が整うよりも先に動かれた。

 気づけば視界は白光で埋まっていた、という。

 彼らを呑んだ爆発の余波は中央部にまで及んだ。

 その威力たるや、ナッドも被りかけたほどだった。


(至近距離で爆破された俺もだけど、あいつらも大概だよな……ホント、なんで生きてんだ。あのイルルとかいうやつは手加減したとか言ってたけど、加減どうこうでどうにかなる話なのか……?)


 ローブの少女ことイルルは「む」と声を漏らす。

 兵役に服す軍人とは思えない言葉遣いで続ける。


「でもイルル……ちゃんと峰打ちしたから」

「爆発に峰なんかねぇーだろ」

「とにかくだよっ。イルルたちを信頼してもらう証拠は、君たちにまだ命があるってことだよ。やっちゃう気だったなら、とっくにやってるでしょ?」

「……それが遅かれ早かれだっつって言ってんだ」


 ゲラートは忌々しげに小声で吐き捨てた。

 その言には、ナッドも頷きで返したい。


(何にせよ、俺たちが死ぬ未来は変わらない)


 この結論は、現状を整理すれば自ずと出るものだ。

 イルルから説明を受け、必要な情報は得ている。


「いいか? オメェの言ったコトをまとめっぞ。オメェら討伐隊は、原罪の獄禍を討伐するっていう馬鹿げた計画を目標にしてるんだよな。そんで、その討伐計画中に俺たち帝国小隊を見つけたワケだ。もちろん帝国への口封じも兼ねて壊滅させてみたが、殺しちまう以上に、利用価値を絞り出せるかもしれねーってことで、明日の早朝まで生かされている、と」

「うんうん完っっ璧じゃん! そうそう、どうなるのかは明日の早朝次第。総意で君たちをどうするか決めるために、出先の人が戻ってきてからって」


 イルルは、なぜか自慢げに胸を張った。

 薄汚れた頭巾の口から黄昏色の髪が零れる。


「朝はね、いつも討伐隊のみんなで話し合ってるんだよ。進捗とかを話す、ゆるーい報告会なんだけど。たぶんそこで時間が取られるんじゃないかなー」

「で? オメェとしちゃどういう見通しだよ」

「え、うーん。話の流れにもよるけど……三つくらい道があるんじゃない、かな。君たちをそのまま帰すって道とか、残念だけどここで君たちを爆発させちゃうって道とか、あとはー……そうだなーイルルたちの手伝いをさせる、とかかな」


 そこでゲラートは添歯を覗かせ、失笑を漏らした。

 髪に埋もれた色とりどりの紐飾りを弄る。


「……馬鹿言え、その選択肢は俺たちの手に届かねぇ代物だろうが。その話し合いとやらでよぉ、端から対等じゃねぇ俺たちの意見がどれだけ通るモンと思ってやがる。徹頭徹尾オメェらの都合で左右されるってんなら、結果は出てるようなモンだろ?」


 ──後腐れなく、首ぃ切られてお仕舞いだよ。

 これがゲラートの言う『遅かれ早かれ』だった。

 交渉机は相手方の膝を突き合わせた中心にある。討伐隊には、小隊の都合を斟酌する理由がないのだ。早朝までの猶予が設けられたのは「討伐隊の総意で小隊が使えるかどうか話すため」だけであって、小隊の意思は介在しない。ナッドたちは武力で負け、かつここでは帝国の後ろ盾も機能しない。討伐隊の決定に逆らえないのだから、交渉事など成り立つはずがない。

 だから、敵方の甘言で勘違いしてはならないのだ。

 あくまで位置づけは虜囚と大差ないのである。

 交渉官さながらに椅子に座れるわけではない。


「始めっから諦めてちゃダメなんだよ!」


 なおも声を上げる少女を、ゲラートは一蹴する。


「……オメェの魂胆は知らねぇが、だったら、俺たちが大手を振って帰れるように便宜でも図ってくれよ。なあ、見張りのイルルさんよ。こっちの獄禍討伐はもう済んでんだ。ここで油売る暇なんざねぇんだよ」

「そう……したいのはね、山々なんだけど」

「ははっ、だわなあ? 独断じゃ決めらんねぇよな」


 彼は面を下げると、溶かすように笑みを消した。

 その途端、ここは息苦しい沈黙に埋め尽くされる。

 厳しい現実が明言されてしまったのだ。だから否が応でも皆が気づいてしまう。この座敷牢は水槽で、現実的な絶望感が水位を上げて──いまや空間すべて満たしてしまったこと。もはやナッドたちに残された術はないこと。あとは刻々と近づく終わりまで、頬に溜め込んだ一握の空気だけで細い呼吸を繋ぐだけだ。

 そこに不思議はない。むしろ今までが異常だった。

 罵声混じりでも現状把握に努めていた。看守との会話は険悪ながらも続けていた。自分たちを追い込んだ敵対者に不平をぶつけられていたのだ。だからか皆は現実という大岩を抱え込まずに済んでいた。それは間違いなく、帝国小隊の中核である彼の功績だ。

 ナッドは視線を上げ、壁際に背を預けた男を見る。


(ゲラート・ブルシャット、か)


 (れっき)とした、帝国小隊の馬鹿三号である。

 ナッドが数日間、彼と共に生活しての印象は「野蛮なお調子者」という一言に尽きる。小隊員と雑談を始めれば、最終的に彼でオチをつけることが大半だ。どうも彼は獄禍討伐の仕事が長いらしく、界隈でゲラートの共通認識ができ上がっているようだ。

 ──冗談の通じるやつだからな、話やすくてな。

 この、とある小隊員の所感にはナッドも頷ける。

 厳つい風貌の割に、距離感を掴みやすい男なのだ。


(まあ、悪いやつじゃない。ないんだが……)


 そんな男を馬鹿と形容した理由は他でもない。

 彼の、命を乗せた天秤の前でも皮肉を吐ける胆力のことを言っている。言うまでもなく、胆力とは最大限に慮った表現だ。この男はとかく無謀なのである。

 自己評価が高いのか。状況判断能力がないのか。

 挑発めいた言動が目につき、大言壮語の気がある。


(何であいつ、こういう帝国小隊全体が判断されかねないときにもやりやがるんだ……?)


 ゲラート一人の命で贖えるなら勝手にすればいい。

 しかし、小隊諸共を道連れにされては堪らない。

 彼の発言のたびにどれだけ肝を冷やしたことか。


(……いやそうか。あいつ、自棄になってんのか)


 そんな思考に陥る道筋は容易に想像できた。

 帝国小隊には生かされるだけの価値がない。ならばどれだけ背筋を正しても意味がないだろう。明日の暁光は機械的に死を運んでくるだけだ。どうせ明日には消える命である、放言を憚る必要もない──と。

 そうしてゲラートの思考経路を辿り、気づいた。

 いま自分が「彼を責められない」と思ったことに。

 いま自分が少なからず理解と共感を覚えたことに。


「っ……っ、く」


 思わず口角が曲がった。喉奥から異音が鳴る。

 凝固した吐気が喉を詰まらせた。堪らず、鼻から断続的に空気が漏れる。笑っているのではない。身体のなかに押し込めた閉塞感が噴き出しているだけだ。それは座敷牢に沈殿する、項垂れた面々も同じだった。

 だから唇を開くことすらも億劫になる。身じろぎするにしても渾身の勇気を必要とした。どうあれ導き出される絶望的な結論に、誰もが希望を捨て去った。

 こうして息苦しいまま、水底に沈み、沈み──。


「お喋りは、おしまい?」


 小声が、絶望で満たされた水槽に投げ込まれた。

 声の主は視線を集め、凪いだ雰囲気を揺るがす。

 座敷牢の片隅。そこには影のような少女がいた。

 まるで、月明かりを忌避するように蹲っている。

 浸る夜闇より昏い双眸が、鉄柵のほうに向いた。


(マジェーレ……? なんだ、今更)


 マジェーレ・ルギティ。帝国小隊の馬鹿二号だ。

 ナッドが意図的に目を背けていた相手でもある。

 しかし、それは詮方ない話だった。なにせ彼女は爪をがりがりと噛みながら、ずっと虚空を凝視していたのだから。刺激すれば縊り殺されそうな形相で、だ。

 虫の居所が悪いらしいことは一目瞭然だった。

 以前、迂闊にも声をかけた小隊員を射殺さんばかりの眼光で迎えた一件もあった。それ以降は皆、腫れ物を扱うような態度でもって彼女を避け続けていた。ゲラートですらも絡めなかったのだから相当である。

 それが、前触れもなく口火を切ったのだ。


「……オメェ、黙りこくってると思ったら何だぁ?」


 だとすれば、因縁をつけない理由は消えた。

 ゲラートは組んでいた腕を戯けるように解く。


「口を挟むのが遅ぇんじゃねぇの、副長さんよ」

「静かでちょうどいいくらいでしょう? 現状把握も済んで、そろそろ行き詰まったようだから──」

「オメェがボーッとしてる間になぁ。なに考えてたか知らねぇが、得るものはなかったみたいじゃねぇか。まぁ、下手の考え休むに似たりってこった」

「……私に話しかけもできなかった臆病者が、よくもここまで威張れるものね、ゲラート。そこだけは尊敬できるわ。ただ、酒で口を塞いだほうが利口よ。酩酊すればその頭、一周回って正常に回りそうね」

「……いや、お前がそれを言うのかよ」


 ──お前も散々ハキム相手に煽っていたくせに。

 たとえ小声であれど、深閑とした空間によく響く。

 思わず突っ込んでしまったところ二人に睨まれる。

 ナッドは胃壁の距離を縮めながら肩身を狭くした。

 だが、正直に言うとまだ言い足りない。「窮地だってのに味方同士で罵り合いしている場合かよ」や「見張りも呆然としてるぞ」等々。しかし、それを声に出せばこちらまで延焼してくるだろう。ナッドは臆病者の誹りを甘んじて受け、膝の合間に顔を埋める。

 自分にはここで火に油を注ぐような胆力はない。

 しかし、どうやら馬鹿三号(ゲラート)にはあったようだ。


「お坊ちゃんに同調するワケじゃねぇが、笑えるなマジェ。誰が臆病者だよ。オメェはあの村で、ビエニス軍に両手を挙げて命乞いしたって聞いたぜ? 拝んでみたかったなぁ。その澄ましたツラぁ歪めて『命だけは助けてください』って懇願してるオメェをさ」


 そう、少女だけは無傷のままで切り抜けていた。

 薄着から伸びる手足には目新しい傷跡はない。

 服の裾から褐色肌に紋様めいた古傷が見えるだけだった。

 だが当人は「そうね」と気にする素振りもない。


「どうあっても勝ちの目が見当たらなかったもの」

「認めやがった。副長様には意気地がないと見える」

「そんなものには一銭の価値もないじゃない。あなたは生まれる時代を千年単位で見誤ったようね。結果の伴わない蛮勇を誇るだなんて野蛮人にすぎるわ」

「みじめに命乞いするよかマシだ」

「そう? 私が彼らに投降していなければ、あなたたちの命もなかったかもしれないのに? あそこの……脳味噌が足りてなさそうな見張りさんに、自慢の意固地ごと焼かれた人の言葉は重たいわね」


 マジェーレの舌先は相変わらず流麗に冴えていた。

 引き合いに出されたほうは無邪気に首を捻った。

 その様子には「大丈夫かよ」と思わざるを得ない。


「……随分、恩着せがましい言い方じゃねぇの」


 ゲラートは影色の少女をまっすぐに指弾した。


「オメェのそれこそ一銭の価値もねぇよ。話はコソコソ聞いてやがったんだろ? 俺たちの現状を見ろ。ただ死ぬのが明日に伸びただけだ。……たとえ、オメェの命乞いで一時は息を繋げられてたとしてもな」

「……そうかもしれない。けど」


 ──明日になるまではまだわからないでしょう。

 そう呟くと、マジェーレは檻外に水を向ける。


「ねえ、見張りさん。肝心な説明が抜けていたわ。ここはどこなの? ジャラ村にはこんなに立派なボロ小屋なんかなかったはず、と記憶しているけれど」

「え、ああー、ここはね? ジャラ村からちょっと離れたところにある『ケーブ』って名前の小さな集落なんだよ。山脈寄りの……そうだね、麓になるかな。村と違って家とかに傷もなかったから、立地がすっごくよくて。一応、討伐隊の拠点をここにしてるんだー」


 看守の少女は、頭巾の影に指を沈めながら答えた。

 マジェーレ曰く「集落ケーブはジャラ村から徒歩でも半日かからない距離にある」らしい。彼女はここら一帯の地理に明るい。その言と相違ないとすると、看守の齎す情報に一定の信は置いていいかもしれない。

 それを告げられ、当の本人が口を尖らせる。


「もー、イルルを試さなくてもダイジョーブだって」

「善処するわ。あくまで念のためだったのよ」

「なら、まー、いいけどさー」

「とりあえずはこれで、あなたたちの目的、命運を分ける時刻、置かれた状況は把握できたことになる。これでお腹一杯、と言いたいことだけれど」

「だけれど?」

「……最後に聞くわ、我らが小隊長様はどこ?」


 マジェーレが神妙な顔で不意に放った問い。

 あの幼女の具体的な居所は尋ねたいところだった。

 イルルは、言葉を手繰るように頭を揺らし──。


「ああ……あの小さい女の子のことだよね?」

「まあそうよ。あなたも変わらないぐらいだけれど」

「なにをー、イルルはもう元服迎えてますー!」

「……嘘、私より年上なの? あなたが?」

「ふふ、年長さんにウヤマイを向けるのだーって、話が逸れちゃったんだ。あの子のことだよね? それなら、君たちの代表者だからって……ハキムのお爺ちゃんが直々にジンモンするーって言ってたよ」

「なッ──!?」


 ナッドの面相から急速に血の気が引いていった。

 その代わり、悔恨の念が薄皮一枚下に満ちていく。

 脳裏に浮かぶ、幼女を斬り捨てた魚面の老爺。

 かの英雄とはジャラ村での一幕以外に面識はない。

 彼の情報は大陸に轟く英雄譚を耳にした程度だ。だがそれで十分だ。数々の風評はこう語る。彼を『芯が冷徹なビエニス人の模範』『大陸に五本しか確認されていない、竜の魔導具を操る大英雄』『一昔前まで傭兵家業に身を置いていた』『現四大将の右腕』だと。

 そんな大人物が敵兵を捕ら、直々に尋問などと。

 ──目を覆うほどの拷問を受けているに違いない。


(俺は、俺に、は……クソ、なんで、どうにも)


 思考裡をよぎる映像が、身体から熱を奪っていく。

 決まって最後に恨むのは力不足だった。

 ──俺がこいつに捕まったから、こうなったんだ。

 迷妄じみた思考は自身を袋小路に追い込んだ。

 そんな彼を他所に、イルルは天井を仰ぐ。


「……そういえば、ハキムのお爺ちゃん張りきってたなあ。俺だけでやるから誰も近寄るなーって。いつもはあんまりわかんない人(・・・・・・)だから、珍しかったー」

「ふぅん……それは、実に興味深いけれど」


 黒瞳に転瞬、深い陰影が色を足す。


「とにかく少尉は無事、ということでいいのね」

「それはイルルの保障つきだよっ! ちゃんと手加減されてたから、怪我も深くなかったし!」

「……手心を加えているとは思えなかったけれど」

「んー? ゲンケーを留めてた(・・・・・・・・)なら、それは手加減してるってことだよ! 手も足も取らずに連れ帰ったなんて、すっごく気を遣った証拠だもん!」


 少女は上機嫌な面持ちで言い募る。

 それと反比例して、ナッドは唖然とする他ない。


(あれだけやって、手を抜いてたってか)


 益々、凡人と英雄の距離感に寒気を覚えた。

 ナッドは彼ら英雄の全力を想像すらできない。

 ならあの幼女はどうだろう。彼女も今頃、大英雄という無限遠の高みを知り、怯え、辟易していないだろうか。隔絶した距離に諦めを知って、膝を折りはしていないだろうか。そんな憂慮が頭から離れない。

 イルル曰く「ソルとの再会は早朝になる」そうだ。


(処分検討の前にようやく合流、か。……覚悟、しなきゃな。そのとき、少尉がどんなに悲惨な姿になっていても熱は堪えないと……明日は俺たちのすべてが懸かった日に、すべてが終わる日に、なるんだから)


 ──明日。そこで生死がひとえに分たれる。

 ──たとえ結果がわかっているとしても。

 確信的な絶望と無責任な希望が内心で混ざり合う。

 そこで看守は「もうこんな時間!」と飛び上がる。


「そろそろ就寝時間だから皆も寝なくちゃだよ。夜更かしは明日に響くからねっ!」


 イルルは軽快な足取りで座敷牢を去っていく。

 だが、歩を一度止め、思い出すように振り返った。


「ダイジョーブだから! 結末は君たち次第だよっ。きっと一筋縄じゃいかないと思うけど、がんばって。イルルもビリョクながら君たちの味方するから!」

「……オメェ。まだそんなこと言ってんのかよ」

「うん! だから、イルルにドンと任しといてよっ」

「あなたに任せられる要素は一切ないけれどね」

「そもそもオメェ、何でこっちの肩持ってんだよ」


 彼女は苦言を呈されながらも、踊るように回る。

 快活さを開け放つと、にっと歯列を覗かせた。

 さながら、すべての疑問の雲を払うような笑み。

 あるいは、すべてを誤魔化す笑みだったのか。


「それじゃね! また明日、お日様の下で会おっ」


 影が欠片も窺えない声を残し、夜は更けていく。

 もはやゲラートもマジェーレも口を開かなかった。

 静まり返る独房ではナッドの思考も散漫になる。

 だが時間潰しの種には困らなかった。少尉の現状。イルルの不可解さ。己の未熟。明日に差し迫った生死の三叉路。結論など出やしない考え事が渦を巻いた。

 そのせいか、ちっとも眠れずに格子窓を仰ぐ。

 刳り抜かれた宵の空。散らばる数多の光点が瞬く。

 星々は月明かりの薄膜を隔て、まるで一番を競うように煌いていた。心鎮まるかと言えばさにあらず。天高くから嘲笑を投げかけられている気分になった。

 ──ここと、あそこ。手が届かないくらい遠い。


(なんて、クソ。俺……本当に疲れてんだな)


 そんな気取った感傷を腹の奥底まで沈める。

 膝の締めつけを強くして、潰すように顔を埋めた。

 そうして結局のところ一睡もしないまま──。

 帝国小隊の命運を左右する、運命の朝を迎えた。




 ※※※※※※※※※※




 ──黎明の日差しとは水のように清冽だ。

 雄大な山脈の稜線は黄金めいた眩耀に煌いていた。

 漏れ出した旭光が雲を薄墨色に焼きつける。その光で導かれた朝は、茅葺と木造の屋根から屋根へ厳かに伝い、山麓の集落に行き渡っていく。三光とは辺境たるこの地にも足跡をつけているのだ。吹き抜ける風が朝の背を追い、数枚の青葉を浚っては高みに放った。

 今日は佳良たる空模様。人心とは無縁の様相だ。

 ゆえにナッドたちの心は山陰そのものだった。

 陽光が眩いほど、山間部は逆光で落ち窪むものだ。


(ああクソ。遂に、朝になりやがった)


 この場所は、集落の南部に開いた広大な空閑地。

 ナッドは中央に立ち、指の腹で汗を拭っていた。

 黄土色の固い地面を踏み締める。集落に活気があった頃は、寄り合いに使われていたのだろう。ここから遠目に見える距離に、集落の鄙びた住居群がある。

 再び額を拭う。これは気温による発汗ではない。

 背筋をなぞる水滴はぞっとするほど冷えていた。


「お坊ちゃん。オメェ、ビビってんのか」


 耳元で囁かれた声に、両肩がわずかに跳ねる。

 ナッドは頭をわずかに逸らして背後を見上げた。

 至近距離には彫りの深い凶悪な面構えがある。

 その大男は殺気立った視線を辺りに飛ばしている。


「……お前は平気そうだな、ゲラート」

「違ぇわ。そういうのはオメェ、顔に出すなってこった。こっちの器が知れちまう。こういうのはなぁ『ナメられたら終わり』なんだよ」

「いや、そこまで敵意剥き出しなのも駄目だろ」

「馬鹿がよ。勿体ぶったみてぇにウジウジしてる奴が一番損するんだよ。ハッタリでも価値を見せかけんのが大事ってこった。……わかってるよなぁ?」


 ゲラートは荒い声を潜めて、顎をしゃくる。

 呼応するように至近距離の男たちが僅かに頷いた。

 そう、周囲にはゲラート一人だけではない。帝国小隊の総員が密集し、直立不動の姿勢を維持している。ナッドは学舎での部隊教練を思う。まさか、捕虜紛いの身空でやる羽目になるとは考えもしなかったが。

 このとき、気の抜けるような音が鼓膜を掠る。

 ナッドはげんなりしつつ、目端に音の主を捉えた。

 これは左斜め後ろに立つマジェーレだ。通算六度目のあくびをしている。寝惚け眼を擦りながら不動の姿勢を崩していた。相変わらずの鋼鉄の心臓である。

 少女は片目を瞑りながら、ぼそりと呟く。


「あなた、早くも宗旨替え?」

「……そうだよな。あいつ、諦める感じだったよな」

「昨日とか『もう何しても死ぬ』みたいに言ってた」

「それがなんだ。お坊ちゃんに『器が知れちまう』とか『ナメられたら終わり』とか何とか。まだコイツ、生き残ろうとしてんじゃねぇかよ」

「うむ。貴様は一貫性というものを学ぶのだな」

「何だオメェら、急に結託しやがって」


 この唐突な集中砲火に、本人は舌打ちする。


「……つか、オメェらも似たようなモンだろ、手のひら返しの蝙蝠どもがよ。夜通し考えりゃ冷静にくれぇなる。早晩死ぬってわかってようが、目前まで迫った剣先に斬られたくねぇって思うのが人情だろ」

「だな。俺も一緒でな。ただまあ……俺はこんな場所(・・・・・)で堂々と口は利けねぇ、小心者の辛いとこよな」

「仕方あるまい。雑兵の発言は立場を悪くする」

「我らが旗印様の健在がどう転ぶかねぇ……」


 視線の先、帝国小隊の先頭に小さな後ろ姿がある。

 白髪が風に靡く。さながら軍旗のように揺れる。

 幼女が堂々と胸を張り、立っていた。武具も防具もない。老いた英雄との死闘の果てに、いまは帝国小隊と揃いの恰好になっていた。白い薄布と包帯で身体を覆っている。それでも、気丈な姿勢は崩していない。

 ナッドの萎れかけた精神が徐々に賦活される。

 視界内に入れるだけで、身体が引き締まるようだ。

 彼女と再会を果たしたのは、つい数分前の話。


(少尉は……無事だった。村での怪我とか、英雄直々の尋問について訊いても『大丈夫じゃ』ってそれだけだった。まあ、それが俺たちに心配をかけさせまいとする心遣いだったのかはわからねぇけど、でも、安心できたんだ──あのときだけは)


 そう、胸を撫で下ろしたのは過去の話。

 いまでは安堵なぞ胸中から消え去ってしまった。

 小隊員たちの軽口も現実逃避の一環にすぎない。

 なぜならここは、どう言い繕っても敵国の手中。

 見渡すまでもなく四面楚歌そのものなのだから。


「……ょろいねぇ。長持ちしねぇんじゃ……」

「……帝国軍か……旦那の考えは解らん……」

「……すぱっと殺しちま……ろうに、何だって……」

「……も落魄れたモンだ。あれを祭り上……」

「……に行かせろ。帝国の連中は許せな……」

「……なことよ……あれが『修羅』、ねえ」


 この汀には、さざ波にも似た囁きが打ち寄せる。

 ナッドたちに逃げ場はない。いま帝国小隊は──屈強な軍人たちに囲まれていた。輪型の陣のため死角が存在しない。三十余名からの目が、投槍めいた視線が飛んでくる。殺気や敵意が触覚を刺激できたならば今頃、帝国小隊は滅多刺しだったに違いない。

 ひたすらに萎縮する。細かな震えが止まらない。

 身体の節々が錠をかけられたように動けない。


(いまならわかる。交渉机っていう比喩は生易しかったんだ。これじゃ食事机だ。皿に乗せられたのが俺たちで、平らげようとしてるのが……あいつらだ)


 巌めいた顔つきからは死灰の匂いが薫ってくる。

 彼らこそがビエニス王国の誇る『根絶』討伐隊。

 使い込まれた装備には、所属を示す鷹を象った徽章が入っている。その主の男女比は、圧倒的に男性が多い。それも、帝国小隊の年齢層より一回りは上の者ばかりである。若き才人たちが席巻する昨今の戦場事情を思えば、いささか珍しい年齢の偏りだと言えた。

 大きな特徴としては、面相に刻まれた傷跡がある。

 火傷痕か、腐敗痕か、はたまた斬撃痕か。鼻筋が(あおぐろ)く変色していたり、片耳を失っていたり、口角が頬まで裂けていたりと──多様な種類と欠損箇所だ。

 しかし、それとは空気を異にする人々もいた。


「……あれが帝国小隊か。で、誰が処分……」

「……つたちと酒がありゃ宴だな! なは……」

「……ばー、ちょっとそれおれの槍……」

「……ャイラさんをまた、この目で見れる……」


 彼らには大きな傷跡もなく、人相は朗らかだ。

 他の、歴戦の猛者たちとは相反した印象がある。

 異質なほどに男女比がきっちり二分されていて、年齢層も帝国小隊と同年代のように思う。見れば、彼らの軍服に刺繍が施された徽章は──鷹ではない。

 目を凝らす。どうやらあれは、中心に大樹が据えられ、交差する鍬と剣があしらわれた徽章だ。記憶が正しければ、大陸辺境のデュナム公国軍のものだ。

 そこはビエニス王国軍と違い、弱兵と名高いはず。

 なぜ、彼らも『根絶』討伐隊に参加しているのか。

 ナッドが訝しさを顔に滲ませていると──。


「静粛にせい」


 その嗄れた一声で、姦しい波音がすっと静まる。

 帝国小隊の正面に陣取っていた人垣が、開く。

 その先には──錚々たる四人が一堂に会していた。

 彼らがきっと『根絶』討伐の中心人物たちだ。


「これより始めるぞ。……よいか?」


 号令を執るのは、ビエニス王国軍の四大将副官。

 ハキム・ムンダノーヴォ。彼は並ぶ中核たちを侍らせ、椅子に座していた。杖のように地を突いた剣で年月により湾曲した背筋を支えている。赤毛混じりの白髪を風に靡かせて、その威厳を遺憾なく発していた。

 魚類めいた双眸は瞼で厳重に閉ざされ、枯れた相貌には皺が年輪のごとく刻まれている。そして、首から下の身体は燻んだ旅衣と鎧で抑えつけていた。それはさながら衆目から素肌を隠すようにも見える。

 ──遠い。物理的な意味でなく、存在の格として。

 ナッドは生唾と混ぜてその感想を飲み込んだ。

 爪を立てて拳を握る。怯える身体を叱咤する。


(立ち位置的に、やっぱり……ハキム・ムンダノーヴォが討伐隊を指揮してるのか。あれだけの大物を駆り出してんだから当然か。それで……)


 次に目を遣ったのは、老爺の傍に佇んだ女。

 いや、視線が吸い寄せられたというべきか。

 紫紺の髪を二又に流した美女だ。面差しには憂いを滲ませ、眉尻を下げていた。伏目がちな目線が行きつ戻りつ帝国小隊に触れている──が、一瞬でも目が合うことはない。視線は幼女だけに注がれていた。

 そのときに、ナッドは息苦しさに気づく。

 呼吸が遅れていた。ひとつ、ふたつと段階を踏んで凪いでいく。たった一目見ただけで魅入ってしまったのだ。その事実が自分でも信じられずに唖然とする。

 外見に見惚れるのは人生で二度目の体験だった。

 普段通りの息を取り戻したのち、嘆息した。


(流石にかのお方(・・)ほどではないにせよ、傾国の美女に数えられる人には違いない……けど、何でこんな人がここに。資金提供の貴族、とかか? いや、それじゃわざわざ敵国の領地まで来る意味がない)


 ナッドからすれば、女の立ち位置が不可解だった。

 彼女は、老爺から一歩退いた位置に控えている。

 想起するのは侍従か懐刀だが、疑問が残った。

 いずれの類推にせよ、あの美貌にはそぐわない。

 彼は視線を、それより下へと慎重に辿らせ──。


「な……ッ!?」


 心ならず、驚愕が声に出てしまう。

 彼女の立場を雄弁に語る、襟口の勲章を見たのだ。

 それは、ビエニス王国の誇る四大将の証。

 『黎明の導翳し』シャイラ・ベクティス。


(う、そだろ。この討伐隊、副官どころか四大将本人まで参加してやがるのか……!?)


 ナッドは震えながら目元を指で力強く抑えた。

 まさか、国王肝入りの言に偽りなしとは──。

 吐気が競り上がる。眩暈も酷い。視界のすべてが心拍数を重ねるごとに輪郭を増やした。俎上の鯉としては、いよいよ処刑台に首を突き込んだ心地である。

 声をできるだけ抑えて、小声で毒づく。


「……何が『ゆるーい報告会』だよ」

「……確かにね。文字通りに沙汰を待つみたい」


 耳聡い少女に、当意即妙の返事をする前に──。

 老爺の重厚な声色が、辺りに朗々と響き渡る。

 彼は瞼を開け、ぎょろり、ぎょろりと目玉を回す。


「……今朝は新顔もおる。改めて宣言しよう。ここで俺は『黎明の導翳し』シャイラ・ベクティスから全権を委任されておる。これより俺の一挙手一投足、すべて四大将のモンだと思え」


 ──つまりは副官に雑務は任せてるってことか。

 ナッドは言葉の真意を図って、本人(シャイラ)を一瞥する。

 彼女は頷きもしない。緘黙を保ったまま、瞼を閉ざす。それは無関心の発露なのだろう。四大将の視座からすれば、凡夫の運命なぞ蟻のそれと同義なのだ。

 これこそ存在の格としての距離を感じた。

 そこには幾許かの義憤と有り余る虚無感を抱く。

 だが当然、誰もそんな彼の心情を慮ることはない。

 ハキムは視線を横薙ぎにし、手慰みに風を梳く。


「……まあ、いま俺の出る幕はない。この歳にもなれば喉も痛うてのう。最近は老骨らしく一歩下がって全体像を俯瞰しておるわけだ。報告会の進行自体はそこのハーエルが務める。ささっと始めてくれや」

「ムンダノーヴォ卿、有りがたく拝命致します」


 文官然とした中年男が輪から抜ける。

 ハキムたちに敬礼し、その脇で佇むと身体を回す。

 彼はその面差しに万目を集め、口火を切った。


「さて、時間は我々にとって貴重品です。早速取り掛からせてもらいましょう。三日目の議題の柱は三本あるのですが、まず一本目。帝国小隊、その処分を検討致しましょう。意見がある方は挙手を」


 そこで競って挙手したのは、討伐隊の中核たち。

 ハキム、シャイラ以外の少女と青年の二人組──。

 朝方の清澄な空気を破る声色は高く、響いた。


「はいはーい! イルルはこの人たちをテイチョーに送り帰したほうがいいと思います!」

「いやはやイルル! 何を言うか、処遇など議論の俎上に乗せる必要性などあるまい!」

「えーホロンくんそっち側なのー!?」

「すまんなイルル。だが、冷静に考えて欲しいのだ」


 この二人の風体と言動は稚気に満ちている。

 明らかにビエニス軍の気質とは毛色が違う。周囲のビエニス軍人は眉宇を撓める、目元を隠すなど、呆れが滲んだ仕草で応えている。二人に徽章は見当たらないが、デュナム公国側の代表者なのだろう。

 一人は、昨晩に再会を果たした少女──イルル。


「……うーん。ちょっと誤算だなー」


 恰好は昨晩と変わらず聖職者めいた修道服姿だ。

 しかし、その悽愴なまでの汚穢ぶりが目新しい。

 ローブ表面には、枯れた退紅が何層にも重ねて滲みついており、煤が墨汁めいた跡をつけ、繊維にまで埃が入り込んでいる。彼女はこれと一体化した頭巾を目深まで被り、薄闇で赫色の双眸を光らせている。

 ナッドと隊員は鼻白んで、各々が述懐を浮かべる。

 ──こいつ、こんな上の立場だったのかよ。

 ──これが前人未到の討伐隊の代表とは世も末だ。

 だが、帝国小隊を率いるは幼女と少女であった。

 少なくとも小隊員には世を嘆く立場になかった。


「では、最初に挙手されたイルル・ストレーズ様から伺いましょうか。このまま、彼らを帝国に帰す提案の真意とは……ああ、了解しました。文字通りですね」

「うん、よくわかってるねっ」

「ええ。もう何度もありましたから。では次──」


 進行役の男は、手慣れた調子でイルルを流す。

 少女の立てた親指がどこか虚しく聳えていた。


「ホロンヘッジ・バルバイム様。処分を議論するまでもないと、先ほどそのように仰いましたか?」

「ああ、そうとも。処遇など問うまでもない!」


 腕を組んで頷いたのは、威風堂々と立つ青年。

 燃え立つような紅蓮の髪が目を惹く。その下に穿たれた翠色の瞳は、さながら海底に眠る宝石のよう。淀みも穢れもない。純朴と勇猛を秘めた面構えである。

 恰好としては、鈍色の軽装鎧を着込んでいた。腰に軍服の袖を巻いて結び、外套をはためかせている。その背に描かれた大樹の紋様──字体から察するに落書きのようだ──が、風に舞って見え隠れする。

 そんな彼は好青年然とした明朗な声で言い放つ。

 透き通るような双眸に、帝国小隊を映して──。


「並べ、綻びなく綺麗に首を斬り落としてやろう!」


 ──さあ、行き着く先は生か死か。

 運命を分かつ三叉路が、迫る。

 

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