最後の王子⑤
三話連続投稿の一つ目。
ハヌケは両手で膝を抱え、丸まった姿勢で海中を漂っていた。名前を呼ばれても、自分の膝に顔を埋めて黙っている。
ブキミは苦笑いを浮かべて、ハヌケに声を掛け続けた。
「事情はわかってるだろ?」
「知らない!」
ハヌケは膝に顔を伏せたまま、ピシャリと言った。まるで駄々をこねる小さな子供だ。ブキミは、ハヌケと同じ高さまで潜りながら、彼の肩に右手を添える。
「たぶん、もうそれほど時間は残されてないんだ。早くしないと共倒れになる」
「だったらブキミが帰りなよ。僕はここに残るから」
「それだとハヌケが死んじゃうだろ?」
「君が死ぬよりはいい!」
ハヌケは膝を抱える腕に力を込め、いっそう丸くなる。聞く耳も目も閉ざして、すべてを拒否する格好だ。ブキミはなおも朗らかに語り掛ける。
「ハヌケは言ってたじゃないか。自分にとっての一番星を見つけたって。だから、最終試験も頑張ろうって。君には剣を取る理由があるんだろ? なら、生きて帰らないと」
そう言うと、ハヌケがようやく顔を上げる。
涙ぐんだハヌケの目は、無理解なブキミを責めるようだった。
「君のいない世界で影武者になったって、意味ないよ。僕は、君を支えるために影武者になりたかったんだ。僕が剣を取る理由は、君だ」
「ギロメとの話は聞いていただろ? 僕は、褒められた人間じゃない。人殺しは何をやっても人殺しだ。これから先、何を成し遂げたとしても、それは覆らない」
「そんなの知らない。僕にとっての君は、僕が見てきた君はそうじゃないッ」
ハヌケが言葉に力を込める。足を抱えていた腕を解き、拳を握り締める。
ハヌケは大きく息を吸い、身体全身で叫んだ。
「君が、王子様なんだ。君だけが、本物の、正真正銘の」
「そんなことはない。影武者たちは、みんなが本物の王子だ。『王子たちの物語』を読む、すべての人たちにとって。物語の中で、みんなは本物だ」
「でも、君はオーガスタス——」
「僕はブキミだよ。君たちが、そう名付けてくれたんだろ?」
ブキミがそう言った。そのとき、ブキミの表情が苦悶に歪んだ。
ハヌケも気づき、「ブキミ?」と心配そうに声を掛ける。ブキミは苦痛を堪えて笑い、「思ったより、時間がなかったみたい」と返す。ブキミが激しく咳き込み、ハヌケは大慌てで彼のもとに近づく。
「嘘でしょ!? ねぇ、ブキミ!!」
「うん、嘘」
ブキミはにっと笑い、心配して近づいたハヌケにそっと黒い箱を押し込んだ。今までの青白い箱とは違う、黒い六面体が、ハヌケの胸に吸い込まれていく。
ハヌケが驚愕に目を見開く。
「僕のすべてを君にあげる」
騙し討ちを果たしたブキミは、悪戯っ子の顔で笑った。
ハヌケの周囲でぶくぶくと気泡が立つ。
「いつか会える。きっと、また会えるから」
そう語るブキミの顔に、疲労が色濃く浮かぶ。二人に力を分け与えた時点で、すでに限界だった。そして今、最後の力を振り絞り、ハヌケに託した。彼にはもう声や表情を取り繕う余力すら、残っていなかった。
「そのときに、君たちの物語を聞かせてくれ。一番新しい『王子たちの物語』を」
ブキミの振り絞った声が、気泡越しにハヌケに届く。
ハヌケは気泡の隙間から必死に手を伸ばした。ハヌケの視界は泡で遮られ、もはやブキミの姿は見えていなかった。それでも、懸命に腕を伸ばす。
彼を連れ帰る。何がなんでも。
そう追い縋るハヌケに向かい、最後の声がかかる。
「ごめんね、ハヌケ」
ハヌケは「ごめんって何だよ!」と叫んだ。
けれど、その声がブキミに届いたか、ハヌケには確かめるすべがなかった。泡に包まれて、意識が真っ黒に洗い流される。




