最後の王子④
ブキミ:本作の主人公。最後の王子。
ハヌケ:気弱で優しいブキミの親友。
ギロメ:世話焼きで怒りっぽい友達。
タレマユ:真面目で抜け目ない友達。
(誰かが呼んでる。遠くからオレを……)
くぐもった声に呼ばれて、ギロメの意識は目覚めた。寝ぼけ眼のぼやけた視界に、少しずつ周囲の光景が開けていく。淡い光が、緩やかな踊りのように揺蕩っていた。
(ここは……水の中か?)
橙色の水の中に、ギロメは忽然と浮いていた。結った髪が海中でふわりと浮き上がり、紺色の劇団服の裾が揺れている。水の中なのに、自然と呼吸が続いている。ギロメは状況が飲み込めずに、しばらくぼんやりした。夢うつつな気分の頭で、『自分はどうして、こんな水の中を浮いているのか』と考える。
(たしか試験を受けるとかで森に入って、洞窟の奥で変な箱に……)
肩を触られる感覚で、ギロメは顔を上げる。
眼前によく知った顔を見つけて、寝ぼけ半分だった頭が覚醒した。
「ブキミか?」
「うん。迎えに来たよ」
ギロメは相手をまじまじ見る。輝くような赤髪をなびかせ、碧い目でこちらを見つめてくる少年は、紛れもなくギロメのよく知る『ブキミ』だった。
ギロメは驚くと同時に右手でげんこつを作り、ブキミの横っ面をノータイムで殴りつけた。
「挨拶もなしにいなくなるヤツがあるか! このアホんだら!」
クリーンヒットだった。ブキミが避けなかったからだ。ブキミは「イテテ」と零しつつ殴られた頬を擦る。殴られたくせに、ブキミは笑っていた。
「いきなり容赦ないね」
「当たり前だ! オレが他人に容赦したことがあったかッ!?」
「いや、ギロメは案外気遣い屋だし、普段は結構容赦してるだろ」
「言われてみりゃそうか」
ギロメが素直に応じると、ブキミは苦笑いする。すっかり目が覚めた様子のギロメは、周囲を見渡し、改めてブキミに尋ねた。
「ここはなんだ? 試験を辞退したオマエが、どうしてオレの前にいる?」
「ここは『箱』の中だ。僕は最終試験に介入して、第五班のみんなを迎えに来た」
「……オマエが来なかったら、もしかして死んでたか?」
「僕の直感だと」
「なら、そうなんだろうな」
魔法のような直感を、ギロメは自然と受け入れられた。一年も一緒にいれば、経験的に信じられてしまうのだ。ブキミの直感が、外れたことはないのだから。
「これからどうすんだ?」
「僕が持っているとかいう『トクベツな力』をみんなに分ける。そうすれば、みんなは魔法使いとして、現実の世界に帰れるらしい」
「その場合、オマエはどうなる?」
「わからない。この箱から出られるのは、魔法使いだけらしいから」
ブキミが正直に答えると、ギロメはしばし瞑目した。吐息がぶくぶくと泡になり、二人の頭上に消えていく。ギロメがひときわ大きく泡を吐き、「オレはいい」と言った。
「ハヌケやタレマユに分けてやってくれ。そんでオマエも帰れ」
ブキミは何も答えず、じっとギロメの目を見る。真意を問いただすように。冗談を言っている場合じゃないだろと、そう叱りつけるように。
ギロメは黙って目を逸らす。ブキミは目を逸らさない。ギロメは躊躇うように言葉を一度飲み込んだ後、観念したのか、疲れた顔で笑いながら答えた。
「オマエは覚えてると思うが、家族が目の前で死んだって話、しただろ?」
「うん。『原因を作った糞野郎を、オレは死んだって許さない』って」
「その糞野郎は『オレ』だ」
家族の仇はオレなんだと、ギロメは続ける。
ブキミは黙って言葉の続きを促す。
「代り映えのしねぇ、欠伸が出ちまうような日だった」
冬のある日、ギロメは家族から風呂釜の火の番を任された。
日ごろから任されている家事手伝いだ。
薪に火をつけてお湯を沸かし、家族全員が入浴した後、最後に自分も入って、残り湯で火を消して寝る。そんな簡単な仕事。風呂釜は、家の裏手にあった。ギロメはいつも通り風呂に入り、残り湯を火にかけて家に上がったそうだ。
「いつも通りやったんだ。全部、いつも通りに」
入浴後、ギロメはベッドに潜り、妹にせがまれて『王子たちの物語』の読み聞かせている内に眠りに落ちた。酒飲みの両親も、祖父母も、大いびきをかいて眠っていた。
いつも通りの夜。しかし、ベッドで横になっていたギロメは、ふと喉に痛みを覚えた。続けて嫌な臭いを嗅ぎ、寝ぼけ眼を擦った。
「目ぇ覚めたら、燻製になる一歩手前だ」
ギロメが目を開けると、周囲は充満した煙に包まれていたそうだ。声を出そうにも、咳き込んで息ができない。煙が目に染みて前もろくに見えない。その状況では、妹や両親に声を掛けることもままならなかった。
ギロメは這いずるように家の中をさまよった。
パニック寸前の頭では、間取りもろくに思い出せなかった。出入り口が見つからず、壁に何度もぶつかりながら、運よく家の外に転がり出ると、ちょうど焼け崩れた屋根が崩落した。
残りの家族は、焼き窯と化した家の中に取り残された。
冬のからっ風が吹き荒び、火の手は渦を巻くように立ち上って火柱となる。
唯一の幸運は、悲鳴が聞こえなかったことだ。ギロメの耳に残っているのは、炎の爆ぜるバチバチ、ゴウゴウという音だけだった。
「オレが許せねぇのは、オレだ。他人を押し退けてまで生き残る価値はねぇ」
ギロメは昔話をそう締め括った。
そう語るギロメを、ブキミはノータイムで殴った。クリーンヒットだった。ギロメは呆気に取られて躱しそびれたのだ。ギロメは「何すんだ、テメェ!」と怒鳴る。でも、ブキミが静かに怒鳴り返した。
「生きる価値がないなんて二度と言うな」
「背負ってねぇヤツに何がわかる!」
「罪のない人を殺した! 殺意を持って! 片手で数えきれないほどに!」
ブキミは目を逸らさずに、精一杯の気持ちで叫ぶ。ギロメの目に動揺が走る。ブキミはそのギロメの頬を両手で包み、じっと瞳を覗き込みながら告げる。
「償えない罪は生きて背負いなよ。精一杯苦しみ抜いて生きな。死者の視線を感じながら、その視線に向き合える生き方を探せ。生きる価値は自分で見つけるんだ。剣を取る理由が——君にしかできないことが、絶対にある。怒りんぼでお節介なギロメだから出せる答えが、必ずあるはずだ」
ギロメの瞳が涙で歪む。「じゃあ、オマエはどうなんだ?」と震える声で返す。
「オマエだって必死に生きろ。生きて背負えよ」
「僕は今、精一杯生きてる途中だ。精一杯生きるために、今、ここに来たんだ」
ブキミはそう答えた。
ギロメはそれでようやく、ブキミの姿をまじまじと見た。満身創痍だ。どう見ても、必死に生き抜いた姿だ。少しでも妥協していたら、ここに今こうして立てていない。
それだけは、誰の目にも明らかだった。
ブキミの胸元が青白く光る。気づくと、二人の間に小さな四角い箱が現れていた。それは洞窟で見た魔女の箱に似ている。プレゼントを包む小箱のようにも見えた。
「ありがとう、ギロメ」
ブキミがそう言って小箱を押し出すと、箱はギロメの胸元にそっと吸い込まれる。
ギロメはぐっと唇を噛み、何かを言いかけた。けれど、その言葉がブキミに届く前に、ギロメの周囲をぶくぶくと沸き立つ泡が覆った。小さな泡が沸騰するようにギロメを包み、気づくと彼の姿はなくなっていた。
その場に残されたブキミは、次の友人を呼ぶことにした。
「聞いてただろ? タレマユ」
ブキミがそう言って斜め上を見つめると、そこにタレマユが浮かんでいた。
タレマユは挨拶に困った様子で苦笑いを浮かべる。ブキミがじっと見つめていると、タレマユは右手で顔を覆い、表情を隠すようにして言った。
「悪いけど、ボクは断らないし、遠慮なんかしないよ」
「うん」
「ボクは王子役になりたかったんだ。影武者になって、果たしたい望みだってある。『王子たちの物語』に、ボク自身の物語を刻むんだ」
「わかってる。今度はタレマユの王子役を見せてくれ」
タレマユの言葉に、ブキミは微笑んだ。心の底から、友人の勇姿を楽しみにしていた。
タレマユが、ぐっと唇を噛み締める。
「遠慮なんか、するもんか。ボクは卑怯者だからね。六面体祭の役者を選ぶときだって、そうだったろ? 君に勝ちを譲らせようとした。だからボクは、君が命懸けだろうとッ……」
タレマユが両手で顔を覆い、震える声を押し殺した。
ブキミはふわっと浮かぶように泳ぎ、タレマユの正面に立つ。タレマユの肩を抱き、嗚咽を堪える友人に優しい声音で言った。
「誠実で卑怯なタレマユだから、みんなに王子の夢を見せてあげられるんだ。誰よりも上手な嘘で、みんなを幸せに騙してあげて。僕はそれを楽しみにしてる」
ブキミの胸元から青白い箱が現れる。その箱は吸い込まれるように、すぐ側のタレマユの胸に溶けていった。タレマユが、顔から両手を離してブキミを見る。
ブキミは「やっと見た」と笑いかけた。
「ありがとう、タレマユ」
涙で潤むタレマユの双眸が、ブキミを見つめ、震える唇で何かを言おうとした。けれど、沸き立つように現れた気泡が、ぶくぶくとタレマユを包み、吐き出しかけた言葉がブキミに届くことはなかった。
ブキミは二人目の友人を見送り、疲れた様子で胸元を抑える。
呼吸が苦しい。息がしにくい感じがする。全身が、ひどい疲労感に包まれていた。指先や足先から、力が抜けていく。ここに来て、現実の疲労が襲い掛かってきたような気分だ。もしくは、これがトクベツな力を捨てる代償か。
空気を求めるように、ブキミは水面を見上げる。
今引き返せば、少しは呼吸も楽になるのかもしれなかった。けれど、ブキミはその場で一息吐いてから、視線を海底の方に向けた。
そこに待つ、最後の友人の名前を呼ぶ。
「お待たせハヌケ」
明日の15時から三話連続更新します。




