最終試験①
ブキミ:本名はオーガスタス・ベル・ナンバー
『ごめんなさい、ごめんなさい』
ブキミには、目の前の光景が、睡眠時の脳が見せた幻だと分かっていた。
ラブレス先生が『それは明晰夢ですね』と説明してくれたのを思い出す。脳が見せる幻、夢だと分かる夢。最近、毎日のように見ていた。
『オーガスタス。許して』
母親が包丁を振り下ろす、その瞬間の記憶。
自分が初めて誰かを殺した日の光景。
振り下ろされる包丁を受け流し、その刃を母親の首筋に突き立てる。血が吹き出て、錆びた鉄のような臭いが鼻腔を刺す。母親は次第に目の光を失い、筋肉を痙攣させて、やがてすべての活動を止める。自分は無感動にその様子を眺めている。
夢は唐突に場面が切り替わる。
その唐突さこそが夢の証だった。
切り替わった場所は、ドモルガンの孤児院だった。
自分は孤児院の食堂に立っていた。
『おい、バイキン。オマエの分のパン、俺が食っといてやるよ』
そう言ったのは、太った、年上の男の子だった。彼は、他の小さな子たちにも意地悪な態度を取っていた。自分のこともずっと『バイキン』と呼んでいた。
自分は近くの職員に声を掛けたけれど、彼は面倒くさがって動いてくれない。『喧嘩くらいでイチイチ呼ばないでくれ』だそうだ。
仕方がないと思った自分は、テーブルのフォークに手を伸ばした。意地悪な子の肩を叩き、振り向いた瞬間の喉にフォークを突き立てる。まだ柔らかい子供の肉の感触だった。
周囲の子供たちが、甲高い悲鳴を上げる。
『何をやってるんだ!』
助けを頼んでも動かなかった職員が、今度は大慌てで掴みかかってくる。もう少し早く動いてくれていたなら、誰も怪我をせずに済んだのに。腹を立てた自分は、職員の首にも同じようにフォークを突き刺した。自分はそのまま孤児院から逃げ出し……そこから先は酷いものだ。
盗み、脅し、奪い、邪魔する人間を殺していく。
それはまるで子供の形をした災害だ。
(……イカレてる、どうかしてる)
何でこんな簡単に、人を傷つけられるんだ。どうして、ためらいなく誰かを殺してしまえるんだ。両手が赤く染まっているのに、いつになったら気づくんだ。
誰かの命を足蹴にして、何で平気でいられるんだ。
『今回の俺は、名前も知らない新米パパさんの代役でな。それを伝える前に殺したって、お前さんには何のことだかサッパリだろ? お前が昨日、殺した男の一人だよ。覚えてるか? 首に釘なんか刺しやがって』
アランがそう言った。ああ、そうだ。殺した相手にだって家族がいたはずだ。帰りを待つ娘や妻がいたかもしれない。夢だってあったかもしれない。明日の予定だって、やり残したことだって、たくさんあったはずだ。
お前はそれだけの命を奪っておいて、幸福を壊しておいて、悪逆を尽くしておいて、今さらどの口で『本物以上に本物な王子になる』なんてほざくんだ。
キモチワルイ。
罪過に塗れたその身体で、人々の希望を背負えるはずがないだろ。
もしも、本気で言っているのだとしたら。
お前は本当に、不気味だよ。
◇◇◇◇
目が覚めると、まだ夜更けで周囲は暗かった。星の明かりが窓から入り、苗木学級の自分のベッドを仄かに照らしている。ブキミは星を見上げ、「はぁ……」と息を吐いた。夢見の悪さのせいか、気持ちの悪い汗を掻いている。重たい身体を起こし、汗を拭っていると、ベッドの縁から声を掛けられた。
「ブキミ。大丈夫?」
「……ハヌケ」
ベッドの下の段から、ハヌケが心配そうな顔を覗かせている。
「うなされてたよ。今日も」
「ごめんね。うるさくして」
「それは別にいいんだけど……」
ハヌケは『ブキミの方が心配だよ』と顔に書いてある。表情のわかりやすい子だ。アランでなくても、何を考えているのか察してあげられる。心根の優しさが、どうしたって隠せない子だから。
ブキミは「ダイジョウブ、ダイジョウブ」と返して、ハヌケの頭をぐしゃぐしゃ撫でた。ハヌケはまだ心配そうにしていたけれど、ブキミの方が「眠り直すね」と横になると、渋々な様子で下の段に戻った。
ブキミはそのまま目を閉じる。けれど、瞼の裏にはまだ、血の色が張り付いていた。夢で嗅いだ血の臭いも、鼻の奥に残っている。母親を刺した手応えも、喉を掻き切り、首に釘を突き立て、短剣で心臓を貫いた殺しの感触も、何一つ消えてはくれない。
結局そこから、ブキミは一睡もできずに朝を迎えた。
◇◇◇◇
僕は記憶力がいい。
だから、一度見たもの、聞いたものはすべて覚えている。
言い換えれば、忘れることができない。
意識を過去に向けると、かつて経験した光景、音、臭い、感触、それらのすべてが、現実のように瞼の裏に蘇る。良い記憶も、悪い記憶も、すべて等しく記憶の画廊に並んでいる。
これまでの自分は、悪い記憶から目を逸らしてきた。
無意識に、意識の外に遠ざけていた。それが不可能になったのは……あの悪夢を見始めるようになった原因は、六面体祭の翌日、聴取を担当した警吏から、ナユタを襲った人攫いたちの出自を聞いたせいだった。
「ああ、キミか。ちょっといいかい?」
警吏はそう言って、僕を学院の一室に呼び出した。盗賊団を捕まえた功労者に対する恩義からなのか、その一室で雑談でもするように、取り調べで得た情報を流してくれた。その善意の情報は、僕にとって耳を塞ぎたくなるものだった。
「あの盗賊団、ずっと北の、旧モルガン王国地区から流れて来たみたいだ」
警吏がそう言った瞬間、僕は「モルガン王国地区……」と意味を確かめるように復唱していた。僕にも縁のある土地。警吏は『おや』と目を丸くして続ける。
「知ってるのかい? とても寒い場所みたいだね。彼ら、冬の寒さから逃れるために、南下してきたようだ。まるで渡り鳥だな、ははっ」
「彼らはどうして……モルガン王国地区から流れてきたんですか?」
僕はそう尋ねた。その時点で悪い予感はあった。果たして、警吏は僕の予感通りに、とても呆気なく答えてみせた。
「元々、彼らはその地区の警ら隊で働いていたらしいんだ。けれど、昨年の冬に、大きな不祥事があったとかでね。街に居辛くなったそうだ」
「不祥事の内容、詳しく聞けますか?」
「私もそこまで詳しく聞いてないけどね。警吏たち総出の大捕物の末に、追っていた相手を取り逃がしてしまったのだとか。それで解雇ってのも酷い気がするけど、まっ、話を聞いたら納得したよ。その犯人、子供一人だったって言うんだから。そりゃ、子供一人を総出で追い回して取り逃がすような人間たちに、街の安全を任せられんでしょ」
警吏はそう言った。
総出で追い回された子供が、目の前にいるなんて、夢にも思わずに。
あの人攫いたちは、ドモルガンの警吏だったのだ。
そして、彼らが盗賊稼業に身をやつした原因は、僕だ。彼らの仲間を殺し、責めも負わずに逃げ出した人間がいたからだ。
「あれ? 何だか具合悪そうだね?」
急に黙り込んだ僕を心配して、警吏のおじさんが声を掛けてくれる。
ただ、そのときの僕は別のことに気を取られていて、おじさんの気遣いに感謝する余裕もなかった。人攫いの集団が、ドモルガンの元警吏だとわかった。盗賊になった原因が、過去の自分であることも理解した。それでもあと一つ、不明なことがある。
あと一つだけ、悪い予感が残ってる。
それをハッキリさせるために、僕は自分から『悪い予感』に近づいた。
「犯人たちの中に、僕くらいの歳の男の子、いませんでしたか?」
「ああ、あの子も可哀想な話だ。あの子はね、その捕まえられなかった犯人に、警吏だった親を殺されたそうだ。親の元上司を頼った結果が盗賊団の下っ端とは、胸の痛む話だよ……」
「そうですか」
僕は知らない内に、かつての僕と同じ存在を作り出していたらしい。親を奪われ、誰に救われることもなく、世界のすべてを憎む、獣の子供を。
僕はそれ以上、何も知りたくなかった。だって、知ってしまったら、もう忘れることはできないのだから。だから、僕は聞かなかった。本当は聞くべきだった、最後の問いを。
『彼らの処罰は、どうなるんですか?』
飲み込んだその問いの答えを、僕は知らない。




