六面体祭⑦
ブキミ:王子の影武者を目指す少年。
ナユタ:旧ラングレー王国のお姫様。
「ナユタ・ラングレーと申します。貴方は、どなたですか?」
お姫様はペタンと床に座り込んだまま、ブキミに問いかけた。
誘拐されて幽閉されていたにしては、思いのほか落ち着いている。同い年くらいの女の子にしては、驚くほどだ。それとも王族たるもの、これくらいの豪胆さは、備わっているものなのか。ブキミはそんな風に思いながら、無駄を省いて手短に答えた。
「ブランソンさんから、貴女を探すように頼まれました」
「ゲンゴウに?」
「はい」
喋りながら、ブキミは考える。
今、ブキミだけ逃げ帰ったところで、ねぐらの位置が割れた犯人たちは、お姫様を連れて別の場所に移るだろう。戻って警吏を呼んでいたのでは、間に合わない。彼女を助けるなら、今連れ帰るしかない。その場合、犯人たちには逃げられてしまうかもしれないが、贅沢は言えない。まずは彼女の救出が優先だ。
ブキミはお姫様の傍にしゃがみ込み、彼女と頭の高さを合わせて尋ねた。
「すぐにここを出ます。立てますか?」
そう聞くと、お姫様は申し訳なさそうに、ちらっとスカートの裾をめくった。フリルの裾から隠れていた足首が覗く。その細く白い足首には、武骨な鉄の枷が付けられていた。足枷からは鎖が伸びており、その鎖は壁に打ち込まれた杭に繋がっている。
ブキミは鎖を軽く引っ張った。素手では外せそうにない。何より、強引なことをすれば、お姫様の身体を傷つける恐れもあった。
(ダメだ。足枷の鍵か、最低でも道具がないと……)
ブキミが苦虫を噛み潰していると、お姫様が困ったように微笑んだ。
「貴方が頼まれたのは、私を探すこと、でしたよね? だったら、それはもう果たされたはずです。どうか、おひとりでお帰りください。見張りの方が、目を覚ます前に」
微笑みながら、お姫様はそう言った。
微笑んでいるけれど、その花びらのように小さな唇は、微かに震えている。それを見て、ブキミは自分の思い違いに気づいた。豪胆なんかじゃない。優しいから、弱いところを見せられないのだ。ブキミが罪悪感を抱かないように、強がってみせているだけだ。
「入って来たのであれば、同じところから戻れますか? 今ならまだ……」
「…………」
「この方たちの目的は、私の身代金みたいですし、まだ乱暴なこともされてませんから。だからその、もうしばらくは、たぶん、大丈夫です。それにほら、元はと言えば、声を出してしまった私自身の責任ですし。帰って、助けを呼んでください」
彼女だって、ブキミが逃げ帰ったところで、助けが間に合うなんて夢みたいなことを信じているわけではないだろう。だが、足枷は鍵がなければ外せない。他に手がないのなら、ブキミだけでも逃げて欲しいと、そう思っての言葉だ。
他に手が、ないのであれば————。
「さぁ、お早く」
お姫様に急かされて、ブキミは入って来た窓まで歩く。窓の淵に手を掛け、外に出る間際に振り返ると、お姫様は気丈な表情のまま上品に右手を振った。
「足元、お気をつけて」
「……すぐに、迎えに来ます」
ブキミはそれだけ返すと、窓の外へと身を翻した。
◇◇◇◇
ナユタ・ラングレーは、窓から出ていく男の子の背中を見送り、安堵すると同時に、大きく後悔した。「はぁ」と息を吐き、震える右手を自分の左手で押さえる。
(怖がってるの、バレてたかなぁ……)
あのベールを被った男の子、妙に察しが良さそうだったし。たぶん、自分が強がっていることに気づいていた。だから最後に、『迎えに来る』と励ましの言葉をくれたのだ。怖がっている自分に、縋れる希望を示すために。
そう。全部、強がりだった。
本当は『助けて欲しい』と縋りつきたかった。
彼の口からゲンゴウの名前が出て、助けに来てくれたと膝の力が抜けるほど安堵した。また一人になってしまうことが心細くて、見送る時は泣き出したかった。本心ではもう少し、ここに居て欲しかった。話ができるだけで、いくらか心が救われた気がした。
(でも、それで見ず知らずの人を、危険に巻き込むくらいなら……)
ナユタはその場で足を抱えて座り込み、胸の奥からせり上がって来る不安を押し殺す。震えそうになる身体を、抑え込むように強く抱きしめた。
泣いてしまったら、これ以上不安に負けてしまったら、きっと歯止めが利かなくなる。足を引き寄せて、身を縮めて、胸の奥から湧き上がる恐怖に耐える。
「……痛っ」
枷を付けられた足首が、じんと痛んだ。ここに連れ込まれたとき、乱暴に投げ出された際に足首を痛めたようだ。男たちはその痛めた足首を乱暴に掴み、枷をつけながら、ナユタを脅し付けた。
『大声で騒いでみろ。その枷が要らないように、足を切り落としてやる』
『足が減ったところで、人質としての価値は十分だ』と。
人攫いの男たちは、全部で5人いた。加えて、奴隷のように扱われている少年が、ナユタの見張りについている。
暗い目をした少年は、声を掛けても無反応で、しつこく質問を繰り返したら、ナユタのお腹を蹴っ飛ばしてきた。普段、その少年も、男たちからそのように扱われているのだ。ナユタにはそれが察せられて、痛み以上に悲しかった。
(まだ、目を覚まさない……)
ナユタはふと、絞め落とされた男の子の方を見る。呼吸の音がするから、死んではいないようだ。それでも少し、心配だ。そういえば、ベールを被った男の子、すごかったなぁと今さらながらに思う。風車の3階に突然現れて、瞬く間に男の子を気絶させた。
(まるで、お伽話の魔法使いみたいだったな……)
そうだ。お伽話だ。
本当は、それが読みたかっただけなのだ。
人付き合いが苦手で、自室から出るのも嫌いな自分が、モウドリンの六面体祭への参加を認めたのは、ひとえに読みたい本があったからだ。故郷のラングレーから出て、社交界なんて苦手意識の塊に参加する一大決心は、すべてそのためだった。
(エムリス大図書館に所蔵されてる、最初の写本、読みたかったなぁ……)
ナユタが身体を縮めていると、突然、風車小屋の下の階から大きな怒声が聞こえてきた。何と言っているのかは、ハッキリとは聞き取れない。ただ、身の竦むような怒鳴り声だ。
(……怖い)
ナユタはぎゅっと目を瞑り、両手で自分の身体を抱き締める。男たちが今にも怒鳴り込んで来て、何か乱暴を働かれるんじゃないかと、不安でたまらない。
「■■■■がったッ!」
「おい! ■■■■■■ねぇッ!」
「この■■ッ、■■■■っぞ!」
不鮮明な怒声が、下の方で連続した。物が壊れるような、激しい音まで加わる。
ガンガン。ドスドス。パリンパリン。
その音は、仲間割れか何かのようだ。身代金の取り分で、喧嘩になったのかもしれない。ナユタは目を瞑り、息を殺し、嵐が去るのを待つ。
乱闘騒ぎのような音が続き、それらは急に静まり返った。しんっ、と肌を刺すような静寂が続く。しばらくすると、ぎぃ、ぎぃ、と木板が軋むような音が、下から近づいて来る。
ナユタは言い知れない恐怖に、歯の音が合わなくなった。
恐ろしい暴力の気配が、下の階から這い寄って来る。暴力の黒い影が、床から染み出て自分を飲み込んでしまうような、そんなイメージが脳裏を過った。
ナユタは目を瞑り、震える身体を抱き続ける。
足音はドンドン近づいて来る。その足音が3階の床を踏んだ。ヒタ、ヒタ、と少しずつ自分に近づいて来る。ナユタは恐怖に身じろぎ一つできなかった。
瞼の裏で、その足音は恐ろしい影だった。
恐ろしい影は、ナユタのすぐ傍まで近づき、しゃがみ込むと不意に彼女の足を掴んだ。恐怖でナユタの喉が引きつるその瞬間——カチャっと足枷の鍵が外れた。
「立てる?」
その声と一緒に、足枷が床に落ちてカランと音を立てた。
ナユタが目を開くと、男の子がいた。
男の子の服は、裾や袖が所々切られていて、生地の一部は変色している。その汚れが返り血なのか、酒を引っ掛けたものかは、わからなかった。激しく動き回ったせいなのか、艶やかな赤毛が、頭巾からひと房零れているのが見える。でも間違いない。あの時の男の子だ。『迎えに来る』と言ったあの男の子だった。
「ホラ、迎えに来た」
ベールを被った男の子が、冗談めかしてそう言った。
言いながら、男の子は優しく手を差し出す。
ナユタも冗談めかして、笑い返そうとした。けれど、差し出されたその手が、あまりに嬉しくて、上手く笑い返せなかった。心の底から安堵していたから、張り詰めていた緊張の糸が切れてしまったのだ。
「うっ、すんっ、うえぇぇぇ……」
ナユタは声を抑えながら、我慢できない様子で泣き出した。男の子の胸に泣きつき、服にたくさんの染みを作った。男の子は「もう大丈夫」と優しく囁き、何度も背中を擦って、泣くじゃくるナユタを宥めた。




