第3章 「焼香前の一番風呂」
岸和田市に位置する友呂岐誉理の実家は、大正初期から営まれている町の銭湯だった。
煙突と暖簾に平仮名で書かれた「とものゆ」の屋号を見ると、父母に手を引かれて近所の銭湯に通っていた幼少時の事が思い出されてしまう。
今のような感情を、きっと郷愁と言うのだろうな。
友呂岐の供養も兼ねて入浴してみると、富士山を描いた壁画が自己主張する伝統的な町の銭湯の佇まいが、そこにあった。
かけ流しの天然温泉が身体の芯まで温めてくれて、実に心地良い。
「ふぅ…良い湯だ…」
広々とした浴槽で存分に足を伸ばしていると、思わず溜め息が漏れてしまう。
「一番風呂とは運が良いな、園里香少尉。」
「はっ!仰る通りであります、天王寺ルナ大佐。」
青い長髪をアップに結った園里香少尉が、湯船の中でツツッと私に寄り添ってくる。
あどけない童顔に似合わず、出る所は出ているから驚かされた。
「お美しい柔肌でありますね、天王寺ルナ大佐。」
「ソイツはお互い様だろ、園里香少尉。」
肩まで湯に浸かった園里香少尉の白い肌には、傷はおろか一片のシミもない。
20歳前の若い娘ならば申し分のない美しさだが、最前線から復員した軍人として見るならば、不自然極まりない事この上無い。
全ての真相は、私達の体内に静脈注射された生体強化ナノマシンにある。
この極小機械群は私達の運動能力を飛躍的に向上させるばかりではなく、耐久力や治癒力をも跳ね上げるのだ。
戦場で負う些細な銃創や裂傷程度なら、その場で回復してしまうので、戦列を離れる必要もない。
だが、ナノマシンでは間に合わない程の致命傷を受け、衛生兵の治療が間に合わないか、手の施しようもなかったとしたら…
そうした不運な者達のために、私や園里香少尉が挨拶周りをしているのだ。
「しかし…良い湯だな、園里香少尉。こうして貴官と一緒に入浴するのも、随分と久しいな。」
「俗に言う『裸の付き合い』でありますね、天王寺ルナ大佐。」
打てば響くような、腹心の部下の相槌。
暗く沈んでいく思考を切り替えようと、彼女に水を向けたのは正解だった。
各式典への参列に駐屯地での事務仕事、そして戦没者遺族への挨拶回りと、果たすべき職務は山積みだ。
だが湯船に浸かっていると、そうした双肩に負った荷物が熱い湯に溶けてゆき、あたかも解き放たれたような錯覚を受けるのだから、不思議だった。
「休暇を取得したら、ゆっくりと温泉で羽根を延ばすのも悪くはないな。白浜か龍神か…そうだ、有馬も捨てがたい…」
我ながら、随分と気が緩んでしまった物だ。
「温泉でありますか、天王寺ルナ大佐。犬鳴山でしたら、信太山駐屯地からも近う御座いますよ。」
「確かにそうだが…私は旅情を楽しみたいのだよ、園里香少尉。」
犬鳴山温泉なら、日帰りで充分往復出来てしまう。
私が友ヶ島要塞の司令官なら犬鳴山も選択肢に入れたのだが、妙に生真面目な所のある園里香少尉は、その場合だと加太を勧めてくるだろうな。
犬鳴山も加太も、良質な温泉地である事は確かだが、休暇を取得して泊まりがけでいくなら、少し足を伸ばしたいものだ。
「それに折角だから、老いた両親も連れて行ってやりたくてな。」
姪や妹のような部下達に囲まれている日々を送っていると、ついつい忘れがちだが、私とて人の子だ。
人並みに父母を思慕する心は持ち合わせている。
「御両親を御招待ですか!大佐もなかなか、孝行娘でありますね!」
軽い負荷と共に背中へ伝わる2つの柔らかい感触と、鎖骨の辺りを撫でる軽やかな手付き。
園里香少尉ときたら、また始まったな。
「ハッハッハ、コイツめ…言わせておけば、一人前の口を叩くじゃないか!」
肩に回された手をヤンワリと解きながら、私は振り向いて笑いかける。
まあ、こんな軽口を叩けるなら大丈夫だろう。
何しろ、これから私達が線香をあげる友呂岐誉理大尉というのは、園里香少尉にとっては士官学校以来の親友なのだから。
湿っぽくなるより、余程良い。




