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第九十八話 円環

「あら? 聖女様にお相手頂くつもりでしたのに?

 けれど――思いのほか、素敵な舞踏ラストダンスでしたわ。騎士様?」


玉座から響いた声音は、まるで観客に拍手を促す女王のよう。


「くっ!」


ヴェルネは――瞬きひとつの間に玉座へ移動していた。

空を斬った聖剣を握り締め、エリアスが玉座を睨む。

けれどその瞳には、怒りよりも深い“哀しみ”が滲んでいた。


胸が締め付けられ、足は鎖にからめとられたように

――一歩も動けない。


姉が膝を折り、震える手でバルドに触れた。

やがて、静かに首を振り、

――そっと、彼の瞼を閉じる。


その指先は細く、かすかに震え――

まるで触れた瞬間に崩れてしまう硝子の花に触れるように、

儚く、優しい仕草だった。


(……あんまりだよ……)


エリアスが膝をつき、姉の背へそっと手を添える。

私も、フィーネも、ただ立ち尽くしていた。


バルドが倒れた瞬間――世界から“あの音”が消えた。

頼もしい鎧の軋みも、騎士の盾の唸りも、静かで暖かい言葉も。

あの大きな背中が、もう二度と動かない。

あの眼差しも、あの腕のぬくもりも――永遠に戻ることはない。


すべてが遠のいていく。

その喪失が、胸の底に鉛のように沈み、

心臓の鼓動が、自分のものではないように痛んだ。


玉座のヴェルネの紅い瞳は、愉悦と陶酔がないまぜになり、

その奥に星のような光が瞬いた。

青い炎の照り返しがヴェルネの頬を染め、紅の唇がゆるやかに歪む。


「それで――。次はどなたにお相手頂こうかしら?」


樹木になる果実が、からからと転がるように嗤った。


――刹那。


「――ヴェルネ……いえ、魔王。

 もう、悲しみは終わらせましょう……」


姉が立ち上がる。


ヴェルネは玉座に座したまま、口角を上げて首を傾げた。


静寂が、息を呑むほど深く沈む。


その身体から、金と白の光が噴き上がった。

髪が白く燃え、瞳が黄金に染まる。

まるで天上の神々が姉を真上から覗き込んでいるかのようだった。


(待って……姉さん、それはだめだよ……)


その瞬間、天から光の輪が降り注ぎ――

地を裂くほどの轟音とともに、

神の力(アルカナム)が降臨した。


「アリシア! だめだ!」

「姉さん! お願い! やめて!」

「聖女殿!」


三人の叫びが重なった。

けれど――姉は、静かに微笑むだけだった。


『――聖なる円環えんかん!』


姉の身体から光の輪が広がった。

光に触れたヴェルネの身体が、ゆるやかに溶けていく。


その輪郭が、羽根が、樹木が、果実が――

空へ昇る光の粒と、消えて行く塵と化していく。


瓦礫は石床へと戻り、破れたタペストリーが元の姿を取り戻す。

物言わぬバルドの傷も、静かに癒えていく。


まるで、世界そのものが“再生”の夢を見ているように。


「あらあら……聖女様ったら……。

 二度目の神の力を使うのね?」


ヴェルネの崩れかけた唇が、それでも艶やかに笑う。

その笑みの奥で、瞳からじくじくと涙にも似た黒い滴がこぼれ落ちる。


「いいわ。あなたが神に祈るなら、わたくしは魔に祈りましょう」


紅い唇が、花のように開き、白い牙が覗く。

黒い涙が溶けるように頬を滑り、床に触れるたび、小さな蒼炎を上げる。


ヴェルネは玉座から立ち上がると、両手を広げた。

黒い裾が風もないのに揺れ、指先から黒い霧がゆっくりと滲み出す。


空気が、音を失った。

次の瞬間、玉座の背後が裂ける。

空間が剥がれ落ち、闇が生まれた。


闇が広がり、光を喰らい始める。まるで生き物のように。


「これが、わたくしの祈り。

 ―― 魔の理(マルカナム)


その声と共に、床が砕け、瓦礫に戻る。

白金の光が裏返り、闇が渦を巻く。

光と闇がぶつかり合い、世界が悲鳴を上げた。


轟音。


視界が、引き裂かれる。

神の光輪と魔の闇が交錯し、天と地の境界がぐらりと傾く。


姉の髪が白金に燃え、ヴェルネの髪は夜より深く波打った。

二人の足元で、石が砕け、光と闇が滲み合う。


「――“再生”と“破壊”。

 けれど、神は代償を求める。

 あなたの魂、限界ではなくて? 聖女様?」


「……それでも、私は祈る!

 たとえこの身が砕けても!」


白金の光が、黒の海を押し返した。

その瞬間、私の頬を熱風がかすめる。

立っていられないほどの光と闇の奔流。


(まるで、世界が――ふたつに裂けていく……!)


光は天を、闇は地を。

互いを飲み込み合うように拮抗していた。


その境界に立つ姉とヴェルネ。

聖女と魔王。白と黒。光と闇。

祈りと嘆き、再生と滅び。


それぞれの瞳に、最後の祈りが映っていた。

そしてその光景は、まるで“創世”の一瞬を閉じ込めた絵画のよう。


神と魔が重なり合い、世界がふたつに裂かれた。

――二人の祈りが、世界の理を裂いた。


***


――弾けるような音がした。


何かが砕け、世界が一度だけ白く反転した。

次に見えたのは、崩れた床と、燃える白金と漆黒の残り火。


姉は光の残滓を纏ったまま、膝をつき、そのまま崩れ落ちた。


「……姉さん!」


ヴェルネは立っていた。

羽根を失い、手足は一部骨が見え、片目はもう光を持たない。

それでも背筋を伸ばし、唇は微笑んでいた。


「セレナ? お姉さんはこれでおしまい。

 あなたが――わたくしのお友達にさえなってくだされば、ねぇ?

 結局あなたは、お姉さんも、騎士も――誰も救えなかった」


ヴェルネが軽く骨だけの手を振ると、

玉座の後ろに紫黒の魔法陣が広がっていく。


「次は遊びは無し。すべてを滅ぼす。もう、容赦はしない」


転送陣が眩く輝いた。


「――ヴェルネぇぇぇ! 逃がさない――!?」


「待てっ!」

「逃がさない!」


エリアスの聖剣が閃き、光の残滓を引きながら走る。

フィーネが弓を引き絞り、矢を放ちながら駆けた。


白い軌跡がヴェルネへと伸びる――


「無駄よ」


部屋の隅で転がる首を探し出したメルヴィスが、

ふらふらとヴェルネに近付く。


魔法陣が一際輝き、完成しようとしていた。


(だめ……! このままじゃ、逃げられる!)


「わたしが……やるしかない!」


声の限り叫ぶ。


「エリアス、フィーネ! 転送陣を破壊して!

 わたしが――斃す!」


(大丈夫。――伝わってる!)


肺に焼けつくような空気を吸い込み、

全身の魔力を、限界の、そのさらに先へと絞り出す。


『魔力上昇』×7――!


足元に七重の光輪が咲き、

風と光が絡み合って渦を巻いた。

体が震え、視界が波打つ。

みなぎる魔力とは裏腹に、意識は溶け落ちるように遠ざかっていく。


(姉さんの――あの技を!)


何度も姉の口から歌うように流れていた聖句。

胸に刻みつけられたその調べが私の口から溢れ出す。


(苦しい……姉さん、いつもこんな……!)


それでも――詠唱は止まらない。


(……わたしに、できるの……?)


戸惑う私の隣に、淡い光が立った。


「――姉さん!」


銀髪を揺らし、いつもの優しい笑みを浮かべる――姉の幻影。


「セレナ、一緒に」


二人の声が重なり、詠唱が結ばれた。


『――聖なる大弓よ!』


胸の前に光が凝縮し、空気そのものが震えた。

引き絞った両手の間に天井まで達する巨大な弓が顕現する。


幼い頃、一緒に初級の魔法を練習した時のように。

幻影の手が重なり、二人は同じ動作で弓を引き絞る。


「……まさか……!?」


ヴェルネの赤い瞳が大きく揺れた。


「……そう。あなたも聖女でしたのね……」


光の粒が集まり、眩い矢が形を成した。

弦がひとりでに震え、世界が息を呑んだように静まる。


次の瞬間――エリアスの聖剣が魔法陣を裂き、フィーネの矢がそれを穿つ。

ヴェルネの背後で紫黒の円陣が砕け、四散した。


その一瞬――私は、見てしまった。


ヴェルネは――目を見開き私を見つめ、そして“笑った”。


「メルヴィス、いらっしゃい。

 一緒に帰りましょう」


「うん! 姉さん、帰ろう」


メルヴィスは迷わず、ヴェルネの手を取り、

ヴェルネは弟の幼い体を、ぎゅっと抱き締めた。


その瞬間――

千年前、反乱軍に追い詰められた幼い姉弟の幻影が重なった。

それはきっと、血と灰の中で、手を取り合い、逃げることもできず、

それでも互いを離さなかった、あの日の姿。


――私は、姉の幻影と共に輝く矢を放った。


閃光が広間を切り裂き、

世界が、純白に染まった。


光が収まったとき――

青い炎がふたつ、静かに揺れた。


そこには、幻のように少女と少年が並んで立っていた。

瞳は透きとおるような青。

その瞳には、憎しみも怨嗟も、どこにもなかった。


金糸の髪が幼く揺れ、

ふたりの唇が、かすかに――動いた。


声にはならない。

けれどその動きは、風に触れた花弁のように柔らかく、儚く、確かだった。


次の瞬間、残っていた最後のふたつの青い炎がふっと消え、

姉弟の身体は細かな光の粒へと砕け、

ゆっくりと、ゆっくりと、空へと還っていく。


言葉は聞こえなかった。


けれど――


その残影は“確かに微笑んで”いて、

その唇は、紛れもなく「ありがとう」を刻んでいた。


私は息を呑んだまま立ち尽くし、

胸の奥でなにかが、そっと震えた。


永い夜が終わりを告げ、

そこに残されたのは――


憎しみでも、勝利でもなく、

ただ、ひどく優しい痛みだけだった。


***


「……姉さん!」

「アリシア!」

「聖女殿!」


瓦礫の散らばる石床に、姉が横たわっていた。


駆け寄り、腕を取る。

まだ息もある! きっと大丈夫。

かすかに上下する胸が、私に残された希望だった。


膝をついたエリアスが姉を抱き上げた。

私は震える指先で姉へと光を放った。


白い輝きが姉を包み込み、揺らめく。


「……神様……お願い……姉さんを助けて……!」


涙が溢れ、祈りが震える。

やがて、姉の睫毛がふるえた。瞼がゆっくりと開く。


「……あの姉弟をおくったのね。

 ……セレナ、やればできるじゃない……」


その穏やかな声で、胸がひどく痛んだ。

昔から私を励まし、褒めてくれるときの姉の声。


「大丈夫、姉さん!

 わたしが助けるから!」


必死に光を注ぎ込む。

そうだ。今の私なら、きっと“聖女”の力が支えてくれる。


きっと助けられる――。


そう思ったのに。


姉の唇の色はどんどん失われていく。

小さく咳き込み、口元から血が一筋流れた。


「セレナ……あなたに、

 どうしても……伝えなくてはいけないことがあるの……」


「もういいから! しゃべらないで!

 私が絶対に助けるから!」


光が増すほど、手の震えが強くなる。

――だめだ。失えない。もう絶対に。


そのとき。

姉の指が私の手に重なった。


苦しげに、それでも優しく。


「ごめんなさい……あのとき……

 あなたの手を放してしまったのは……わたしなの……」


「え……あのときって……?」


――世界が反転した。


交差点。光。衝撃。

冷たいアスファルト。

体から命が抜けていく感覚。そして孤独。


私は、ただ一人で死んでいったはず――。


闇の中、誰かの声。


『ごめんなさい、ごめんなさい……!』


もう一度瞼を開く。

誰かが私を抱きしめていた。


『お願い……私を一人にしないで……!』


ヘッドライトに照らされる――前世の姉の悲痛な声。

その背から迫るトラックの影。


『神様、もう一度だけ――!』


姉の悲鳴。


再び、暗転。


……すべてを、思い出した。


孤独じゃなかった。

家族を失くし、たった二人で支え合って生きた日々。


姉はずっと、幼い私の側にいてくれてた。


どうして忘れていたんだろう。


胸が熱くなり、涙が止まらなくなる。


(姉さんの祈りは――

 あのときに、ちゃんと届いてたんだ……)


涙に滲む視界の中で、

いまの姉と、前世の姉が“同じ姿”に重なって見えた。


「……姉さん、謝らないで……。

 こうして、また会えたんだから……」


姉はかすかに微笑み、震える指で私の頬を撫でた。

冷たい指先が、どうしてか温かかった。


「アリシア、もう話すな!」


エリアスの声が掠れる。


「……もう、いいの」


姉の瞳が光を失いながらも、穏やかに笑った。


「エリアス……あなたは……王になって」


「お前のいない世界で、王になったって……!」


「……いいえ、違うわ……エリアス。

 わたしたちが……守った世界、よ……」


姉はまるで最後の力を振り絞るように――

私の手を握りしめ、囁いた。


「最後に……あなたを見られて……よかった……」


「やだ……そんなの聞きたくない……!」


「祈りは届くわ。きっと……また……会える……」


声がかすれていく。

それでも微笑んで。


「……だからセレナ……笑って……」


胸がひとつ大きく上下する――。


「――姉さんっ! やだ! 行かないで!」


私は光を注ぎ続けた。

まばゆい輝きが広間を満たす。


それでも、掴んだ指先から力がこぼれていく。


「お願い……お願いだから……!」


叫びに嗚咽が混じった。

エリアスが歯を食いしばる音、フィーネのそっと私の肩に添えた指。


そのとき――。


「うおおおおおおおおお!!」


外から雄叫びが響いた。

巨人の脅威は去り、王国軍が突撃を開始したのだ。


そして――静寂。


姉の胸に残った青いペンダントが一度だけ、またたいた。

ただひとつ残された、祈りの残り火のように。


私の胸から溢れた光が、広間全体を満たしていく。

その光の中で、姉の気配だけがふわりと揺れた気がした。

手を伸ばした――その瞬間、視界が白に閉じた。


――祈りは、巡る。

世界が再び新たな円環を描くのは、もう少し後のこと――。


※いつもお読みくださっている皆様、本当にありがとうございます。

 明日(土)21時頃に最終話(第99話)を投稿予定です。

 セレナの旅を最後まで見届けていただけたら嬉しいです。

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