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第九十五話 光

私にはもう、摘まんだ果実しか見えない。

何も考えられず、ただ凝視した。

艶やかな表面の“模様”が――蠢いた。


それは“手”だった。

内側から皮に押しつけられた、小さな“手”。

無数の“手”が押しては消え、また浮かんでは消えていく。


これが、嘆いている“魂”……?


でも、これを食べれば――姉さんを、みんなを救える。

こんな私でも、役に立てる。


ごくり――喉が鳴った。

音が、冷たい空気に吸い込まれていく。

それでも心は、凍った湖のように静まり返っていた。

怖くはなかった。


――姉さん、みんな……ごめんなさい。そして――さよなら。


私は目を閉じ、唇にそっと果実を寄せた――。



刹那――淀んだ視界の端で、誰かが“動いた”。


椅子の脚が床を擦る音。

衣の裾がはためく音。

そのわずかな風の気配さえ、夢の外から差し込む現実の証のようだった。


次の瞬間――。


――ばちん!!


世界が、一瞬、真っ白に弾けた。


頬を裂く痛みと熱が走る。

視界の端で光が砕け、反射的に指先が跳ねる。

耳の奥で鈍い音が何度も反響した。


空気が戻る。

色が、音が、痛みが――一気に押し寄せてくる。


肺が、痛いほど空気を取り戻していく。

水中から引き上げられたみたいで、胸の奥が焼けついた。

口の中に鉄の味が広がり、その生臭さで“今”が戻ったと分かった。


じんじんとする頬を思わず押さえる。

理解が追いつかない。


頬を打った手が、目の前で震えていた――姉の手だった。


――姉が、私をぶった……?


そんなはずない。

生まれてから一度だって、姉は私に手を上げたことなんてない。

いつも優しく微笑んで、私を受け止めてくれる人なのに。

そんな姉が――今、私を叩いた。


叩かれた頬よりも、胸の奥のほうが痛い。

けれど――その痛みの奥に、「生きている」感覚があった。


だって、私は……姉さんのために、今――。


空気が喉の奥でつっかえたまま、息ができない。

時間だけが、私を置いて進んでいく。


「セレナ!!」


鋭い声が落ちた。

その響きに、空気が震える。


「こんなの……こんなの、絶対に許さないから!!」


その声には、祈りも聖句もなかった。

ただ――一人の姉が、妹を取り戻すために叫んだ、生身の声。


こんなに怒った姉さんを、私は見たことがない。


「だめだ! 君は私の光だ!」


フィーネの声が重なった。

音ではない。胸の奥に届く二人の声――それだけで心臓が跳ねる。


フィーネの手が私の腕を痛いほど強く握る。

痛い。でも――あたたかい。

その温度が、冷え切っていた身体の奥まで染み込んでいく。


(ああ――世界が、戻ってくる)


胸の奥で、ぱきん、と何かが割れた。

そこから光が滲み出すように、心がほどけていく。


冷たく固まっていた心の底が、かすかに音を立てて溶けていく。


目の前で、青い炎がゆらりと揺れた。

さっきまで魔王の支配の象徴だった光。

けれど今は――祈りでも奇跡でもない。


これは――人の怒りと愛で燃える、“人間の火”?


その火が、私の瞳に映り込む。

頬の痛みはまだ残る。


でも、もう怖くない。


今、私は――もう一度、“自分”を取り戻したんだ。


姉が私を見つめている。

眉を寄せ、唇を震わせて。


姉さんはどうして、そんな顔を――。


でも――その瞳に灯るのは、優しい光だった。

姉の頬をひと粒の涙が伝う。


それは、ただの“姉”としての涙。


胸の奥が、あたたかく震えた。

目尻が熱い。とめどなく熱いものが零れだす。


手から果実がぽろりと落ち、フィーネの手が離れた。


私は――嗚咽と共に大好きな姉に縋りついた。


「……お姉ちゃん――!」


あったかい。

姉の手が優しく髪を撫でてくれる。


私は思った。


――ああ、やっぱり。

姉さんは、私の姉さんだ――。



その瞬間、空気が――ふっと、冷えた。


「……あらまあ……」


甘い声が、ほんの半拍だけ止まる。


「……素敵な姉妹愛ですこと……。

 けれど――困りましたわね。

 セレナさんなら、わたくしの“お友達”になってくださると思いましたのに……」


一瞬の沈黙。

ヴェルネの笑みが、ふっと消える。

長いまつ毛が、一度だけ、ふるりと揺れた。


青炎がゆらりと揺れ、気配の密度がわずかに変わる。


――世界から、あの甘い毒はもう消えていた。

それでも、胸の奥にわずかな残り香が漂っていた。


けれど――。


(でも……私は、いてもいなくても大して変わらない。

 私が食べるのが、一番のはず……)


そんなふうに思いかけた、そのとき――。


「セレナは、僕たちの“要”だ!」

「俺も支えられてばかりだ……礼も言わず、すまん」


エリアス!? それにバルドまで!?


(……そんな言葉、向けられたこと、一度だって――)


思わず息を呑む。喉の奥が焼けるように熱い。

胸の奥で、つま先をひゅっと引き上げられるみたいに、何かが動く。


――エリアスの指示は、いつも簡潔だった。

『セレナ、適切な支援を』――それだけ。

私は“ついで”みたいな存在だと思っていた。


バルドだって、私にどんな支援をしてほしいかなんて、

一度も言わなかったし――。


……でも、待って。


私が何か言うと、みんな黙って動いてた。


それって――。


(みんな、最初から私の指示を“前提”に動いていた……?)


そんなはず、ない。


だって私は、いつも姉さんの横にいて、ただの“支援職”で――。

いてもいなくても、大して変わらないって、ずっとそう思い込んでいたのに……。


胸の奥で、きゅう、と細い線が震え、そこから小さな熱が滲み出した。


涙で滲む視界の中、ふと見上げると――

姉も、フィーネも、静かに頷いてくれていた。


(……わたし、ちゃんと……役に立ってたんだ……)


胸の奥に、あたたかい息がふっと流れ込んだ気がした。


その瞬間。


私の中で、小さな灯りが――

力強く、確かに、灯った。


青い炎――蒼灯の揺らめきとなり、その光を包むように広がっていく。

それはもう誰のものでもない――。


“私自身の光”として。


――そして、胸の奥で静かに思う。


(私は、ここにいる。

 ちゃんと、みんなと一緒に――)


***


広間に、けだるげな声が響いた。


熱が――一瞬にして消えた。


「――興ざめだわ」


その言葉が、氷を沈めたように静かに落ちた。

空気がひやりと震え、青炎がわずかに明滅する。


思わずヴェルネの姿を探す。


――一瞬のことだった。

気づけば、玉座にいた。


白い脚を組み、片肘に頬を預ける。

さっきまで目の前にいたはずなのに、まるで最初からそこにいたかのように。


青い炎が彼女の輪郭を滲ませる。

グラスを軽く傾け、真紅の液体を喉奥へ流し込む。

グラスの底を見つめたまま、ゆるやかに唇を歪めた。


「――それで?」


冷ややかな笑みが広間をなぞる。


「誰が――“食べますの”?」


その言葉が落ちた瞬間、空気が石のように固まった。

沈黙が、地に沈んだ。

広間全体が棺のように静まり返る。


蒼灯だけが、まるで息づくように揺れていた。


椅子がきしむ音。

エリアスは剣の柄に手をかけ、腰を浮かす。

バルドは大盾をわずかに寄せ、身をかがめた。

椅子に戻った姉も聖杖を握り締め、フィーネも僅かに半身になる。


――一触即発。


「――ねえ、動いちゃだめだよ?

 巨人さんたちのこと、忘れちゃったのかな?」


メルヴィスが、楽しげに指をひらひら。

紅い瞳に青い火が映る。


「ねえ、姉さん?

 僕、もう飽きちゃったよ。

 “ぷちぷち”しちゃってもいい?」


(そんな! “ぷちぷち”なんて――!)


「だーめ」


ヴェルネは甘い声で制した。


「まだ“プレゼント”の最中ですもの。幻はそのままにして」


横顔だけで弟をたしなめ、細い指先で空気をそっと撫でる。


「……ねえ、皆さま?

 このまま誰も“魔果”を口にしないと――

 『子どもを人質に取られている』と思い込んでる巨人さんたちが可哀そうですわ。

 メルヴィスの幻でも抑えきれないかもしれませんわよ?」


メルヴィスが肩をすくめ、ヴェルネは艶やかに微笑む。


「条件は変わらないわ。

 けれど――もう待てませんの」


エリアスの喉が鳴り、バルドの盾がわずかに床を擦る。

姉の袖口がかすかに震えた。


次の瞬間、フィーネがすっと立ち上がった。

その横顔には、迷いがひとつもない。


「……私が、適任だろう」


心臓がびくりと跳ねる。

空気が薄くなったみたいに、声が出ない。


「フィーネ!」

「弓使い殿!」

「フィーネさん!?」

「……えっ!?」


四人の声が重なった。

思わず見上げた私に、フィーネは言った。


「セレナ、気にするな。

 私は――百年前、死ぬべきだった者だ」


静かで、強い声だった。


「だめ! だって……これからは、一緒に未来を見るって……!」


フィーネは前を向いたまま、ただ小さく笑う。


だめだよ……そんな顔、しないで――。


「君たちの未来こそが、私の未来だ」


そのとき、ガルヴァンがかすかに歯を噛みしめ、口を開いた。


「フィーネ……だめだ。俺はもう……」


「……ガルヴァン……」


声が震えていた。

けれど、彼女の口から出た言葉は――。


「決して――あなたのためじゃない」


フィーネの唇がかすかに震えた。


ふたりは、すれ違ってる――。

本当は、フィーネさんは、彼のことを今でも……。


その瞬間――直感だった。

鍵はきっとこの二人……。


どうすれば……二人の想いが通じるの?


その時、たった一つ、方法を思いついた。

それしかない。一か八かだけど――。


ヴェルネは目の前で指を広げ、爪を眺める。


「フィーネ姫? 決まったのならさっさと食べてくださる?」


今、やるしかない!

気づかれませんように!


私は黙したまま指先で魔法陣を描く。


出来るだけ小さく……目立たないように。

青炎のちらつきに紛れて、指先だけで……。


指先が震え、光陣が血の鼓動に合わせて瞬く。

心臓の音が、魔力と一緒に高鳴っていく。


それは祈りでも、攻撃でもない。

ただ“想い”を届けるための魔法。


『感覚強化』――!


フィーネとガルヴァンと私の足元に、淡い光陣が現れる。

空気が、わずかに震えた。


よし! ヴェルネもメルヴィスも気付いてない。

次の瞬間、音と光と香り――あらゆる五感の洪水が襲い掛かった。


ガルヴァンの眉が寄り、フィーネの瞳が揺れる。

一瞬だけ、二人の視線が私に向く。

私は、小さく頷いた。


(よしっ!)


――そのとき。

ヴェルネが、あくびを噛み殺すように、つまらなそうな声を落とした。


「――もう、退屈。早くしてくださらないかしら?

 メルヴィス――。王国軍を半分、潰していいわよ?」


「魔王! 貴様、約束を破る気が!?」


エリアスが叫ぶ。


「約束? ええ、解放するとは申しましたけど……。

 うふふ……ひとりでも“生かせば”――約束は守れますわよ?」


片眉を上げ、当然のように言うヴェルネ。


「くっ!」


まずい……時間がない!


私は小さく呟く。


『お願い、ガルヴァン、フィーネ。

 ちゃんとお互いの気持ちを伝えなきゃ!』


祈るように、指先から魔法陣へ力を注ぐ。

二人の感覚に意識を集中する。


光陣がふっと脈打つ。


――届いて……!

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