第九十五話 光
私にはもう、摘まんだ果実しか見えない。
何も考えられず、ただ凝視した。
艶やかな表面の“模様”が――蠢いた。
それは“手”だった。
内側から皮に押しつけられた、小さな“手”。
無数の“手”が押しては消え、また浮かんでは消えていく。
これが、嘆いている“魂”……?
でも、これを食べれば――姉さんを、みんなを救える。
こんな私でも、役に立てる。
ごくり――喉が鳴った。
音が、冷たい空気に吸い込まれていく。
それでも心は、凍った湖のように静まり返っていた。
怖くはなかった。
――姉さん、みんな……ごめんなさい。そして――さよなら。
私は目を閉じ、唇にそっと果実を寄せた――。
*
刹那――淀んだ視界の端で、誰かが“動いた”。
椅子の脚が床を擦る音。
衣の裾がはためく音。
そのわずかな風の気配さえ、夢の外から差し込む現実の証のようだった。
次の瞬間――。
――ばちん!!
世界が、一瞬、真っ白に弾けた。
頬を裂く痛みと熱が走る。
視界の端で光が砕け、反射的に指先が跳ねる。
耳の奥で鈍い音が何度も反響した。
空気が戻る。
色が、音が、痛みが――一気に押し寄せてくる。
肺が、痛いほど空気を取り戻していく。
水中から引き上げられたみたいで、胸の奥が焼けついた。
口の中に鉄の味が広がり、その生臭さで“今”が戻ったと分かった。
じんじんとする頬を思わず押さえる。
理解が追いつかない。
頬を打った手が、目の前で震えていた――姉の手だった。
――姉が、私をぶった……?
そんなはずない。
生まれてから一度だって、姉は私に手を上げたことなんてない。
いつも優しく微笑んで、私を受け止めてくれる人なのに。
そんな姉が――今、私を叩いた。
叩かれた頬よりも、胸の奥のほうが痛い。
けれど――その痛みの奥に、「生きている」感覚があった。
だって、私は……姉さんのために、今――。
空気が喉の奥でつっかえたまま、息ができない。
時間だけが、私を置いて進んでいく。
「セレナ!!」
鋭い声が落ちた。
その響きに、空気が震える。
「こんなの……こんなの、絶対に許さないから!!」
その声には、祈りも聖句もなかった。
ただ――一人の姉が、妹を取り戻すために叫んだ、生身の声。
こんなに怒った姉さんを、私は見たことがない。
「だめだ! 君は私の光だ!」
フィーネの声が重なった。
音ではない。胸の奥に届く二人の声――それだけで心臓が跳ねる。
フィーネの手が私の腕を痛いほど強く握る。
痛い。でも――あたたかい。
その温度が、冷え切っていた身体の奥まで染み込んでいく。
(ああ――世界が、戻ってくる)
胸の奥で、ぱきん、と何かが割れた。
そこから光が滲み出すように、心がほどけていく。
冷たく固まっていた心の底が、かすかに音を立てて溶けていく。
目の前で、青い炎がゆらりと揺れた。
さっきまで魔王の支配の象徴だった光。
けれど今は――祈りでも奇跡でもない。
これは――人の怒りと愛で燃える、“人間の火”?
その火が、私の瞳に映り込む。
頬の痛みはまだ残る。
でも、もう怖くない。
今、私は――もう一度、“自分”を取り戻したんだ。
姉が私を見つめている。
眉を寄せ、唇を震わせて。
姉さんはどうして、そんな顔を――。
でも――その瞳に灯るのは、優しい光だった。
姉の頬をひと粒の涙が伝う。
それは、ただの“姉”としての涙。
胸の奥が、あたたかく震えた。
目尻が熱い。とめどなく熱いものが零れだす。
手から果実がぽろりと落ち、フィーネの手が離れた。
私は――嗚咽と共に大好きな姉に縋りついた。
「……お姉ちゃん――!」
あったかい。
姉の手が優しく髪を撫でてくれる。
私は思った。
――ああ、やっぱり。
姉さんは、私の姉さんだ――。
*
その瞬間、空気が――ふっと、冷えた。
「……あらまあ……」
甘い声が、ほんの半拍だけ止まる。
「……素敵な姉妹愛ですこと……。
けれど――困りましたわね。
セレナさんなら、わたくしの“お友達”になってくださると思いましたのに……」
一瞬の沈黙。
ヴェルネの笑みが、ふっと消える。
長いまつ毛が、一度だけ、ふるりと揺れた。
青炎がゆらりと揺れ、気配の密度がわずかに変わる。
――世界から、あの甘い毒はもう消えていた。
それでも、胸の奥にわずかな残り香が漂っていた。
けれど――。
(でも……私は、いてもいなくても大して変わらない。
私が食べるのが、一番のはず……)
そんなふうに思いかけた、そのとき――。
「セレナは、僕たちの“要”だ!」
「俺も支えられてばかりだ……礼も言わず、すまん」
エリアス!? それにバルドまで!?
(……そんな言葉、向けられたこと、一度だって――)
思わず息を呑む。喉の奥が焼けるように熱い。
胸の奥で、つま先をひゅっと引き上げられるみたいに、何かが動く。
――エリアスの指示は、いつも簡潔だった。
『セレナ、適切な支援を』――それだけ。
私は“ついで”みたいな存在だと思っていた。
バルドだって、私にどんな支援をしてほしいかなんて、
一度も言わなかったし――。
……でも、待って。
私が何か言うと、みんな黙って動いてた。
それって――。
(みんな、最初から私の指示を“前提”に動いていた……?)
そんなはず、ない。
だって私は、いつも姉さんの横にいて、ただの“支援職”で――。
いてもいなくても、大して変わらないって、ずっとそう思い込んでいたのに……。
胸の奥で、きゅう、と細い線が震え、そこから小さな熱が滲み出した。
涙で滲む視界の中、ふと見上げると――
姉も、フィーネも、静かに頷いてくれていた。
(……わたし、ちゃんと……役に立ってたんだ……)
胸の奥に、あたたかい息がふっと流れ込んだ気がした。
その瞬間。
私の中で、小さな灯りが――
力強く、確かに、灯った。
青い炎――蒼灯の揺らめきとなり、その光を包むように広がっていく。
それはもう誰のものでもない――。
“私自身の光”として。
――そして、胸の奥で静かに思う。
(私は、ここにいる。
ちゃんと、みんなと一緒に――)
***
広間に、けだるげな声が響いた。
熱が――一瞬にして消えた。
「――興ざめだわ」
その言葉が、氷を沈めたように静かに落ちた。
空気がひやりと震え、青炎がわずかに明滅する。
思わずヴェルネの姿を探す。
――一瞬のことだった。
気づけば、玉座にいた。
白い脚を組み、片肘に頬を預ける。
さっきまで目の前にいたはずなのに、まるで最初からそこにいたかのように。
青い炎が彼女の輪郭を滲ませる。
グラスを軽く傾け、真紅の液体を喉奥へ流し込む。
グラスの底を見つめたまま、ゆるやかに唇を歪めた。
「――それで?」
冷ややかな笑みが広間をなぞる。
「誰が――“食べますの”?」
その言葉が落ちた瞬間、空気が石のように固まった。
沈黙が、地に沈んだ。
広間全体が棺のように静まり返る。
蒼灯だけが、まるで息づくように揺れていた。
椅子がきしむ音。
エリアスは剣の柄に手をかけ、腰を浮かす。
バルドは大盾をわずかに寄せ、身をかがめた。
椅子に戻った姉も聖杖を握り締め、フィーネも僅かに半身になる。
――一触即発。
「――ねえ、動いちゃだめだよ?
巨人さんたちのこと、忘れちゃったのかな?」
メルヴィスが、楽しげに指をひらひら。
紅い瞳に青い火が映る。
「ねえ、姉さん?
僕、もう飽きちゃったよ。
“ぷちぷち”しちゃってもいい?」
(そんな! “ぷちぷち”なんて――!)
「だーめ」
ヴェルネは甘い声で制した。
「まだ“プレゼント”の最中ですもの。幻はそのままにして」
横顔だけで弟をたしなめ、細い指先で空気をそっと撫でる。
「……ねえ、皆さま?
このまま誰も“魔果”を口にしないと――
『子どもを人質に取られている』と思い込んでる巨人さんたちが可哀そうですわ。
メルヴィスの幻でも抑えきれないかもしれませんわよ?」
メルヴィスが肩をすくめ、ヴェルネは艶やかに微笑む。
「条件は変わらないわ。
けれど――もう待てませんの」
エリアスの喉が鳴り、バルドの盾がわずかに床を擦る。
姉の袖口がかすかに震えた。
次の瞬間、フィーネがすっと立ち上がった。
その横顔には、迷いがひとつもない。
「……私が、適任だろう」
心臓がびくりと跳ねる。
空気が薄くなったみたいに、声が出ない。
「フィーネ!」
「弓使い殿!」
「フィーネさん!?」
「……えっ!?」
四人の声が重なった。
思わず見上げた私に、フィーネは言った。
「セレナ、気にするな。
私は――百年前、死ぬべきだった者だ」
静かで、強い声だった。
「だめ! だって……これからは、一緒に未来を見るって……!」
フィーネは前を向いたまま、ただ小さく笑う。
だめだよ……そんな顔、しないで――。
「君たちの未来こそが、私の未来だ」
そのとき、ガルヴァンがかすかに歯を噛みしめ、口を開いた。
「フィーネ……だめだ。俺はもう……」
「……ガルヴァン……」
声が震えていた。
けれど、彼女の口から出た言葉は――。
「決して――あなたのためじゃない」
フィーネの唇がかすかに震えた。
ふたりは、すれ違ってる――。
本当は、フィーネさんは、彼のことを今でも……。
その瞬間――直感だった。
鍵はきっとこの二人……。
どうすれば……二人の想いが通じるの?
その時、たった一つ、方法を思いついた。
それしかない。一か八かだけど――。
ヴェルネは目の前で指を広げ、爪を眺める。
「フィーネ姫? 決まったのならさっさと食べてくださる?」
今、やるしかない!
気づかれませんように!
私は黙したまま指先で魔法陣を描く。
出来るだけ小さく……目立たないように。
青炎のちらつきに紛れて、指先だけで……。
指先が震え、光陣が血の鼓動に合わせて瞬く。
心臓の音が、魔力と一緒に高鳴っていく。
それは祈りでも、攻撃でもない。
ただ“想い”を届けるための魔法。
『感覚強化』――!
フィーネとガルヴァンと私の足元に、淡い光陣が現れる。
空気が、わずかに震えた。
よし! ヴェルネもメルヴィスも気付いてない。
次の瞬間、音と光と香り――あらゆる五感の洪水が襲い掛かった。
ガルヴァンの眉が寄り、フィーネの瞳が揺れる。
一瞬だけ、二人の視線が私に向く。
私は、小さく頷いた。
(よしっ!)
――そのとき。
ヴェルネが、あくびを噛み殺すように、つまらなそうな声を落とした。
「――もう、退屈。早くしてくださらないかしら?
メルヴィス――。王国軍を半分、潰していいわよ?」
「魔王! 貴様、約束を破る気が!?」
エリアスが叫ぶ。
「約束? ええ、解放するとは申しましたけど……。
うふふ……ひとりでも“生かせば”――約束は守れますわよ?」
片眉を上げ、当然のように言うヴェルネ。
「くっ!」
まずい……時間がない!
私は小さく呟く。
『お願い、ガルヴァン、フィーネ。
ちゃんとお互いの気持ちを伝えなきゃ!』
祈るように、指先から魔法陣へ力を注ぐ。
二人の感覚に意識を集中する。
光陣がふっと脈打つ。
――届いて……!




