第九十四話 プレゼント
「それが――わたくしから皆さまへの“プレゼント”」
少しだけ目を上げた。
銀の皿の上に、闇を切り取ったような黒い果実がひとつ。
「“魔果”、と申しますの」
揺れる青い炎を映して、果実の皮膚がぬらりと光った。
誰も動かない。
ただ、青い炎だけが静かに揺れていた。
その揺れが、まるでこの状況を楽しんでいるようで――
逆に、胸の奥がすうっと冷える。
メルヴィスが差し出した皿から、
ヴェルネがひと粒を摘まみ上げた。
「これは、魔物の遺骸に根を張った果樹を、
千夜の月光と、千の魂の嘆きで熟成させた果実」
青い炎が、果実の黒をより深く照らす。
私の喉がひとりでにごくり、と鳴った。
「……ああ……なんて美しい……」
ヴェルネはひらりと手首を返し、
摘まんだ果実を光に透かしてみせる。
「――わたくしが、とても大切に育てた子たち……」
その声は静かで澄んでいた。
深窓の令嬢が秘密の果樹園で育てた実を愛でるように。
「――たった一粒頬張れば――」
ドレスの裾が翻った。
ヴェルネは、漆黒の果実を掲げたままくるりと回り、
まるで祝福でも授けるように手を胸の前で合わせる。
ヴェルネは、楽しげに微笑んだ。
「――魔族に生まれ変われる――禁断の果実」
ほんの少しだけ肩が跳ねた。
隣で姉の喉がひゅっと鳴り、バルドの鎧が軋む音が続く。
ガタン。
椅子が乱暴に動いた音が、遠のいた世界にやけに鮮明に落ちた。
「……魔族になれる、だと?」
低く押し殺したエリアスの声。
それでも――私の胸には何も湧かなかった。
ただ、音だけが水底みたいな世界に響いた。
ヴェルネはなおも、甘く吐息を漏らすような声で囁く。
「そう。たった……一口。こんなふうに」
果実の表面を、ヴェルネの白い指先がするりと撫でる。
唇にそっと触れさせ、合図のように牙を覗かせて“ちいさく”噛む。
果肉がぷつりと弾けた瞬間、
甘く腐ったような香りが空気を満たした。
溢れた黒い靄が、逃げ惑う影のようにふわりと離れかける。
薄紅の舌先がそれをゆっくり絡め取り――果肉と共に喉奥へ運んだ。
紅い唇の端にだけ、うっとりと微かな笑みが浮かんだ。
「……ん……舌先に触れた時の痺れるような酸味と甘さ、
喉奥に残る濃さ――これは、最高の出来。
嘆きが深い“魔果”ほど、“より深い味わい”になるのですわ」
喉を撫でるように、指先がゆっくりと滑った。
青い炎が、濡れた舌先と――唇の端で震える黒い滴を照らす。
ヴェルネは、舌先でそれを名残惜しげに拭った。
「……ね? 簡単でしょう?」
静かで、艶やか。けれど、逃げ道を一切許さない声。
広間の隅々まで、逃げ場のない甘さがじわりと染みていく。
その粘つく気配が、私の呼吸の奥まで絡みついた。
長い沈黙。
浅い呼吸の音だけが耳にへばりつく。
「――ふふ……それと、一つだけ。
皆さんにお約束しますわ」
ヴェルネの艶やかな唇の端が吊り上がった。
「全員が拒否するなら――王国軍は、おしまい」
誰かが歯を食いしばる音、椅子をぎゅっと握る音。
「ですが……
たった一人でも、この果実を口にする者がいれば――」
ヴェルネは微笑み、指先で窓を指す。
「巨人は氷壁へ帰り、王国軍を解放しますわ。
つまり、皆さんは――自由!」
メルヴィスが両手を広げて続く。
「自由!!」
”自由”という響きが、逆に鎖の音みたいに耳に残った。
「その後はじっくりとお相手して差し上げても――
そっと見送って差し上げても――。
どちらでもわたくしはかまいませんの。
今夜のところは――ね?」
ヴェルネはちょん、と指先で自分の唇を軽く突き、
わざとらしく小首をかしげる。
(たった一人と――全員?)
凍ったままの胸の奥がひび割れていく。
そのまま、悪戯を仕掛けた子どもみたいに肩をすくめ、
「ねぇ?」と全員を挑発するように笑った。
「――とってもよいお話だと思いませんこと?」
「――そんなっ!」
姉の悲痛な叫びが、淀んだ水の底まで届いた。
涙は止まっていた。
代わりに、冷や汗が頬を伝う。
心は不思議と静かだった。
さっきまで“灯火”に縋っていた胸の奥が、今はただ”空洞”。
意識が……すう、と深い場所へ沈んでいく。
ああ――そうか。
これは、私のために用意された“道”なんだ、と。
……はは、と、声にならない乾いた笑いがこぼれた。
ぼんやりとしたままの視界の中で、
魔王はゆっくり私へと視線を向けた。
全員の視線が重なる。
魔王の言葉が堕ちた。
甘く、残酷に。
「ねえ……どうなさるの?
――“おまけ”の、セ・レ・ナ……さん?」
唇の弧を深め、こてりと首を傾げる。
青い炎がかすかに震え、
私の指先も同時に震えた。
けれどその震えの奥で、ほんのかすかに、呼吸がひとつ逆流した。
それだけで、胸のどこかがちり、と痛んだ――。
***
ヴェルネ――魔王は、私を選んだ。
顔は上げているのに、視界が狭い。
近づいてくる彼女以外、視界が塗りつぶされる。
弾むようで、それでいて引きずるような音。
その狭い世界に――
ヴェルネの影が、ゆっくりと差し込んだ。
喉が、何かを押しつぶしたみたいに詰まった。
ヴェルネの指先が私の頬のすぐ横で止まる。
赤い瞳が、深いところでかすかに震えた。
身体がどうしようもなく震える。
それでも――ヴェルネから目を逸らせない。
次の瞬間、ヴェルネは両手で自分の肩を抱きしめ、身をくねらせた。
「ふふ……ふふふ……んっ、どうしましょう……。
わたくし……嬉しくて……震えてしまいますわ……!」
甘い吐息。蜜のような声。
震える声音は、抑えきれない歓喜の色。
思わず目を見開く。
細い肩がびくびくと揺れ、青い灯火が合わせるように揺らめく。
「あなたの心……小さくて、脆くて、今にも消えそうな小さな灯り……」
ヴェルネは、恍惚とした瞳で私を見つめる。
「ああ……そして胸の奥に渦巻くもの、全部。
姉への嫉妬、仲間への羨望。
認められたい焦がれ。
愛されたい渇望。
姉への執着。
そして――失うことへの底なしの恐怖……」
そして、ヴェルネは微笑んだ。
その微笑は甘くて、冷たくて、どうしようもなく残酷だった。
「――なんて素敵なんでしょう!
あなたこそ“ふさわしい”。
わたくしが求めていたのはあなたよ、セレナ?」
喉がひくりと鳴った。
次の瞬間――時が、停止した。
心臓も息も、全てが止まった――
「――魔族になりなさい、セレナ」
――再びゆっくりと時が動き出す。
「――そうすれば、あなたはすぐに“太陽”になれる。
永遠に愛され、永遠に選ばれ、永遠に失わない存在に……」
甘い毒が、身体に回っていく。
息が浅くなっていく。
「――“姉”も失わずに済むわ」
(そっか。
そうすれば、姉さんを、もう失わない……?)
音が遠い。
誰かが叫んでる……?
何かが倒れる音。
それに――靴の音……?
けれど、もうヴェルネの心を溶かすような声以外聞こえない。
「あなたの大切なお姉さん……もう限界ですわ……。
奇跡を重ねすぎたの。
彼女の魂は薄氷みたいに、あとひと息で砕けてしまう」
ヴェルネは悲し気に眉を寄せた。
(……姉さんの魂が砕けてしまう……?)
そう思うと、ぞっとした。
(……あれ? なんで……こんな……)
けれど、その思考は次のヴェルネの言葉にすぐに搔き消えた。
「怖いでしょう?
妹を守るためなら、何でもする聖女様。
放っておけば、すぐにでもあなたのために死んでしまうわ」
(……姉さんが……死んでしまう……!?)
喉に、固いものが詰まる。
「でもね、大丈夫。あなたが選びさえすれば――
お姉さんを失う心配なんて、もうなくなるわ」
胸の奥が、ぎゅっと掴まれる。
青い炎がすうっと細くなり、世界の音が消える。
(そっか。姉さんは死なずに済むんだ……。
そのためなら――
……わたしは……)
――ほんの一瞬だけ、何かが“違う”と胸が叫んだ。
でも、その声はすぐに黒い影に呑まれていった。
「――そして、わたくしの”お友達”になるの」
(お友達に――? 今までそんなの一人も……)
視界の真ん中――ヴェルネがふわりと微笑んだ。
真っ赤な瞳に灯りが反射して宝石のように輝く。
すごく、きれい……。
「そうよ。わたくしは、あなたを待っていたの。
あなただけが、王国軍も、姉さんも、みんなを救えるのよ?
さあ、こちらにいらっしゃい」
微笑みを湛えたヴェルネはそっと目の前の皿を差し示した。
この人は、私を”友達”と言ってくれた……。
……それに、姉さんを、みんなを救えるのは、わたしだけ……!
――そのはずなのに。
次の瞬間、胸の奥がひゅ、とすぼまった。
心のどこかが叫んでいた。
(……違う……違うよ……これ……違うのに……)
頬を熱いものが伝う。
なのに、甘い毒は黒い影となって、まっすぐ私の中心へ落ちていく。
胸の奥の小さな灯火が、ちり、と音を立てて――消えたみたいだった。
(そうだ……食べなきゃ。
そうすれば、みんな……姉さんも……)
自分の思考なのに、どこか他人の声みたいで。
私は――
“気づけば”無意識に銀の皿へと手を伸ばしていた。
私の胸の奥みたいに、ぽっかり空いた闇のような黒い果実へ。
吸い寄せられるみたいに――。




