表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
93/100

第九十三話 魔果

コツ、コツ……。


ヴェルネの足音が遠ざかっていく。


石床の模様が、涙でゆらりと溶けた。

白杖を胸の前で抱えるように握りしめる。


視界が狭い。

見えるのは――震える自分の指先。

その下でかすかに揺れる、杖頭の銀の光。


すぐそばに落ちるテーブルの影が、細く伸びているだけ。


……世界の外側が、すうっと薄れていく。

音も匂いも、遠くへ追いやられていく。


押しつぶされた私の世界は、

この胸の前の小さな空間だけ――。


――頭の向こうで、誰かの息が震えた。


(エリアス……)


「僕は……お前の言う通り、“傲慢”で“欲深い”のかもしれない。

 だが、それで誰か一人でも多く幸せになるなら……それでも構わない」


声は遠い。

なのに、その言葉だけは――胸の奥に落ちてきた。


「――アリシアほど聖女に相応しい人はいない」


すぐ近く――隣で息を呑む気配。


「けれど、聖女だって、彼女だって傷つく。

 それでも、どれだけ傷ついても、決して折れなかった。

 祈りが届かなければ――何度でも、諦めずに祈る人――」


姉が布をぎゅっと掴む音がした。


「……本当は、ずっと怖かったんだ。

 選んでもらえないんじゃないかって。

 そんな弱い僕でも――いや、僕だからこそ、

 隣にいて欲しいと願うのは彼女――アリシアだ!」


それは、強がりではない――真実の叫びだった。

耳朶を通して、声の“熱”がじんわり伝わる。

その熱が、胸の空洞の縁をかすめていく。


「……エリアス……」


……姉が震えてる。

よかったね、エリアス……ちゃんと伝わってる。

エリアスなら、きっと全部叶えられるよ。


――胸の奥の、消えかけた灯火が、またほんの少しだけ揺れた。


足音が、遠くで止まる。


「あらまあ……愛の告白ですのね?

 お可愛いらしいこと」


ヴェルネの声。

ひどく甘く、ひどく残酷な響き。


胸の奥は、ちゃんとあたたかいのに――

どうしてだろう。

震えは、止まってくれなかった。



低く、かすれた声。


「……確かに俺は……。

 ここで守りたいと思う人を見つけた。

 運命に抗い、必死に生きる姉妹を――」


視界の端から、そっと手が伸びてきた。

あたたかい指が、私の手に触れる。


姉さん……。


「――だが、国も、友も、すべてを守るという誓いは嘘じゃない」


ぎり、と手甲が握られる音。


「――“憤怒”……か。

 お前の言う通りだ。俺は今、怒りで燃えている。

 俺の大切なものを踏みにじったお前だけは――

 断じて許さん!!」


ドン、とテーブルを叩く音。

石床ごしに響き、胸の奥を鈍く揺さぶった。


彼の言葉は、その空気ごと揺らす一撃みたいに強かった。


姉の指が、ぎゅっと私の手を握り締める。

その温度だけが、胸の奥まで届く。


(そっか……バルド……。

 本当に、私のことも大切に思ってくれてたんだ……)


こんな、役立たずで、いつも遅れてばかりの私でも?

正直びっくりだよ。


でも――ほんの少しだけど、胸の奥がふわっとする。

ありがと、バルド。


青い炎の影が揺れる。


「いいわ……いい! とても素敵ですわ!

 そうよ! 希望を捨てちゃいけないわ。

守るのよ? 諦めちゃダメよ?」


その声が落ちた瞬間――

空気が、すん、と細く揺れた。


直後、

“カタン”と爪先が床を叩くような、小さな音。


……ぞくり。


見えていないのに――分かった。

ヴェルネが、ゆっくりと体をくねらせながら、

こちらへ向き直ったのだと。


その動きは、獲物の感情を味わう蛇みたいに――

ひどく静かで、

ひどくゆっくりで、

ひどく嬉しそうで――。


(……これ、喜んでる……)


胸の奥に冷たいものが落ちる。


それでも――

私たちは、まだこの人の手のひらの上から逃れられない……。


逃れるための唯一の方法。

それはきっとヴェルネの“プレゼント”。


目尻の奥が熱い。

涙で光がにじみ、姉に握られた手にぽつりと落ちた。


姉の手を握った。

強く握り返してくれる。

姉さんは、いつだってこうやって私に応えてくれた。


だから――私は。


滲んだ視界の端で、テーブルの影がわずかに震えて見える。


実際には私が震えているだけなのに、

影まで揺れたように感じて――胸の奥が、ひゅっと縮んだ。



わずかな沈黙。

その静けさを、凛とした声が切り裂いた。


「――“怠惰”か……そうだったのかもしれない」


最初の一語だけ、フィーネの声が震えていた。


「でも、今は違う。私は見つけた。

 小さな灯火と、大切な仲間を」


フィーネの声は、刃のようにまっすぐで、

澄んでいるのに――胸に触れた瞬間だけ、息が詰まるほど痛かった。


あの戦場で初めて会ったときの、彼女の声がふと甦る。


『――見つけた』


あのとき。

あなたが、私を“見つけて”くれた。


そして――

“小さな灯火”。


村で料理を振る舞ったとき、フィーネが言ってくれた言葉。


胸の奥がじん、と熱を帯びる。


(――本当に嬉しかったな……)


私なんかでも、誰かの役に立てる――

あのとき、ほんとうに心から思えたんだよ?


「私はもう、過去ではなく、未来に生きると決めたのだから!」


遠くで鎧が軋む音。

その重い響きが、胸の奥にかすかに触れてくる。


――よかった。

フィーネさんは、もう大丈夫。


(……なのに、今の私は――)


胸が、きゅ、と痛む。

その痛みは、さっきヴェルネに触れられた場所と、ぴたりと重なっていた。



視界に映る床の模様が、

まるで強い光を浴びたみたいに白くにじんだ。

ただ涙で歪んだだけなのに。


小さな声。


「セレナ、大丈夫。姉さんに任せて」


私はぴくり、としたけれど、まだ顔を上げられなかった。


姉の手がぎゅっと握られ――ふっと離れる。

思わず伸ばした指先が、宙を掴んだ。


椅子がすれ、衣擦れの音。

姉が立ち上がる気配。


「あら? 聖女様?

 もしかして――あなたも何か?

 ふふふ……妹さんは、何も言えないようですけど?」


ヴェルネの声に、姉の声が重なる。


「――セレナは、妹は、おまけなんかじゃないわ!」


その瞬間、胸の奥で――

ほんの、小さな灯りが、ふっと揺れた。


姉の声が震えている。


「セレナは……この子は……

 誰よりも強く、絶対に曲がらず、決して折れない。

 あなたの戯言なんかで折れるような子じゃない!」


――優しいなあ、姉さん。

私なんかを守ろうとしてくれてる。

姉さんは……やっぱり、姉さんだ。


姉の呼吸が、ひとつ震えた。

次に落ちた声は、決意で震えていた。


「……あなたの言う通り、私は失うことが怖いわ。

 妹も、みんなも。大切な人をまた失うかもしれない。

 そんな未来が、ずっと怖かった」


胸の奥で、小さく何かが動く。


「けれど、それでも――抗うの。

 それが人の強さだから!」


(姉さんはすごいな。ちっとも折れてなんかない。

 ほんとうにすごいよ……)


「あなたも同じ。

 失うことが怖くて……だから魔に堕ちたのでしょう?」


ヴェルネが、くす、と嗤う。

姉の声には、弱さも強さも、全部あった。


けれど――。


「だからこそ、私は抗う。

 ええ、あなたの言う通り、わたしは“強欲”なの。

 セレナもエリアスもバルドも、フィーネも。王国のみんなも。

 すべてを守る。

 ――この命に代えても!」


(――っ!)


最後の言葉を聞いた瞬間――

胸の内側だけが、ひどく静かになった。


姉の言葉はあたたかいのに、心は冷えていく。


(でもね、姉さん。

 違うんだよ。わたしは……)


視界が揺れる。

膝の上、握りしめた白杖に、

ぽたり、ぽたりと雫が落ちる。


姉を失いたくない、一緒にいたい――

ずっとそれだけで戦ってきたけれど。


(わたしはね。

 姉さんに――幸せになってほしいだけ。

 ただ、それだけなんだよ……)


どれだけ雫が落ちても、胸の奥は空洞のまま。

さっき揺れた小さな灯りは――

もう、私のどこにも届かなかった。


***


気づけば、青炎の弾ける微かな音すら聞こえない。

かわりに――広間の空気を震わせる魔王の笑い声だけが届く。


「まあ……まあ! ほんとうに……素敵ですわ……!」


誰かの椅子の脚が、かすかに震えた。


「みなさま……なんて美しい心。

 どれだけ傷つけても、踏みにじっても、折れないなんて――」


笑っているのに、泣き出しそうな声だった。

喜びだけで満たされているのに、冷たくて――どこか熱い。


「ええ……これで――わたくしからの贈り物。

 最高の“プレゼント”になりますわぁ……」


「――プレゼントぉ!」


ヴェルネとメルヴィスの、楽しくて仕方のない――

そんな笑い声が、不気味に響く。


ぱちん、と指が鳴る音。


ぞわり……と背筋を冷たい影が撫でた。


空気が動き、部屋に入ってくる足音――侍女たちだ。

テーブルに、からん、と何かを置く硬い音。


誰も息を吸わない。


足音だけが遠ざかる。


***


「……これは、なんだ?」

「むう……!」

「……この果実は……!?」

「これを……どうしろと?」


みんなの声が、薄い紙を隔てたように響く。


周囲のざわめきが震えているのに、

私だけ、水の底にいるみたいだった。


「それが――わたくしから皆さまへの“プレゼント”」


少しだけ目を上げた。

銀の皿の上に、闇を切り取ったような黒い果実がひとつ。


「“魔果まか”、と言いますの」


揺れる青い炎を映して、果実の皮膚がぬらりと光った――。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ