第九十二話 灯火
「聖女アリシア……」
名を呼ぶ声は、床に甘い滴を落とすように響いた。
姉の肩がわずかに揺れ、銀髪がふるりと震える。
ヴェルネは、その震えを楽しむようにゆるく微笑んだ。
「あなた――ほんとうに失ってばかりの人生でしたわね?」
姉の膝上で結ばれた指が、ぎゅっと食い込む。
ヴェルネはその指先へ視線をすべらせ、覗き込むように屈む。
「恋人を失い、家族を失い、
守りたかった人たちは――
みんな、あなたの手の外へ」
声は軽やかなのに、落ちる場所だけが凍りつくように冷たい。
(そんな言い方、許せない……
それ全部、あなたが奪ったんじゃない……!)
ヴェルネは小さく首を傾け、
姉の耳朶ぎりぎりまで唇を寄せて囁いた。
「神は、一度たりとも……あなたの祈りに応えてくれなかった。
……違いまして?」
声音はやさしいのに、
甘く刺す毒だけはきちんと残る。
姉の瞳に影が落ちる。
その瞬間、ヴェルネの白い指先が宙を泳ぎ、涙をなぞる“真似”をしてみせた。
「……そんなこと……っ」
姉は反論しようとする。
けれど声は喉の奥でふるりとほどける。
(ひどいよ……救えなかった命の方が多いかもしれない。
それでも――姉さんは祈り続けたのに……!)
胸の奥だけがじわりと熱を持って軋む。
姉の睫毛が小さく震え――
ヴェルネはその震えに、うっとりと微笑む。
「そして今、あなたの胸に残っているのは……
唯一残った妹すら救えないかもしれない――その“恐怖”、ですわね?」
姉の呼吸が止まる。
私の胸も一緒に縮んだ。
ヴェルネは細く目を細める。
「そして……アリシア。
あなた、まだ“ひとつ”隠していらっしゃるわ」
姉がわずかに瞬く。
ヴェルネは指先で空をなぞり、
光を掬うような仕草をした。
「――さっき、髪に触れたときに“見えました”の。
心が揺れているでしょう?
勇者へも、騎士へも。
選べないのではなく――どちらの想いも“傷つけたくないから”胸に抱えたまま」
エリアスの口が引き結ばれ、バルドの拳が強く握られた。
ヴェルネはくすりと笑みを深めた。
(……どうしてそんな……それは、姉さんの優しさ――)
ヴェルネの言葉が堕ちた瞬間、私の思考が止まった。
「うふふ……なんて“可愛らしい”のかしら。
けなげで、優しくて、思いやり深くて……
それでいて――失う“恐怖”を隠すために、また命を賭けようとしている」
エリアスの呼吸が止まり、
バルドの拳がわずかに震えた。
ほんの一拍。
ヴェルネは息だけで笑う。
(――まさか……姉さん! また“神の力”を!?)
胸がずきんと痛んだ。
思わず、姉の横顔を見る。
姉は、ほんの一瞬だけ私の方へ視線を向けかけ――
すぐに、静かに伏せた。
その横顔は、
「ごめんね」と言っているようにやわらかく沈んでいるのに、
その奥に宿る光だけが、どうしようもなく揺らがない。
唇を噛んで、震える指先をそっと重ね直し――
祈る者の顔に戻っていく。
(やっぱり……そのつもりなんだ……)
あの、優しくて、弱くて、強くて、
全部抱え込もうとするときだけ見せる表情。
“迷っているふりをして、もう迷っていない”
そんな顔だった。
なのに――それなのに、私は何もできないの?
「ねえ聖女様?
国も、仲間も、妹も、二人の想いすらも……
そんなにたくさん、ひとりで抱え込んで。
“全部、自分の祈りで守ろうとする”。
それを人は――”強欲”と呼びますのよ?」
ヴェルネの声は、
姉の祈りの中心へ静かに沈んでいく。
私の胸奥に、ひやりと細い亀裂が走る。
姉の瞳が揺れる。
涙か、崩れそうな祈りか。
背筋はまっすぐなのに、指先だけが震える。
(姉さんの神の力は……フィオーレの街を救った。
そして、また命を懸けようとしてる……)
その瞬間――私は気づいた。
(じゃあ、私は……?)
胸の奥の亀裂が広がる感覚。
(……私、また姉さんに守られるだけ……?)
そのとき――
ヴェルネの細めた瞳が、愉悦とは異なる光を一瞬だけ帯びた。
ほんの刹那だけ、
私に向けた“問いかけ”のように。
(もしヴェルネの狙いが”それ”だったら……
私は……どうするの……?)
ぼんやりとした”答え”に、名前のない感情が、
胸の奥でざらりと広がった。
*
そしてヴェルネは、私の横でぴたりと足を止めた。
影が重なる。青い炎が合図みたいに、すん、と音を失う。
「――さて。最後は、セレナ。あなたよ」
全員の息が止まる音。
私は胸の前で杖を抱きしめるように握った。
「思ってるわよね?
“なんで、自分が最後?”って」
胸の奥が小さく軋み、思わずヴェルネの方へ振り向く。
その瞬間、真紅の双眸がまっすぐ私をほどく。
「支援しかできない白魔導士。
役立たず。おまけ。お荷物――“聖女の妹”」
不意打ちだった。
喉がきつく鳴り、視界の端がじわりと滲んだ。
ずっと言われてきたこと。
言われなくたって、自分が一番よくわかってる。
(――だから、何なの?)
それでも。
胸の奥には、鋭い痛みだけがはっきり残った。
ヴェルネは微笑を浮かべたまま、目元を細めた。
「あなたの胸を焦がすのは――“嫉妬”。
神に選ばれ、誰からも愛される姉への。
それでも、見捨てられたくなくて、認められたくて――
ずっと必死で頑張ってきた」
避け続けてきた“本音”が、容赦なく襲い掛かる。
(……知ってる。
知ってるよ、そんなこと。幼い頃からずっとだ。
だから――頑張ってきたんだ)
胸の奥がじわりと熱くなる。
(私だって、みんなが集まる“小さな灯り”ぐらいには――)
その刹那――優しいのに、刃を忍ばせた声。
「――小さな灯り」
(……え?)
反射的に、顔だけがヴェルネの方へ向いた。
胸がひゅっと縮む。
視線が合った瞬間――
ヴェルネの微笑が、私の動揺を“味わうように”深まり――
まるで心の奥底を掬い上げたかのように、私の逃げ道を容赦なくふさいだ。
「灯火は――どれだけ頑張っても、太陽にも、月にもなれないの。
とっくに知ってると思うけど、ね?
そう、あなたは、誰にも気づかれずに消えてしまう……儚くて、小さな灯火」
(誰にも気づかれずに――消えてしまう……?)
胸の奥で、呼吸がひっかかって止まった。
喉が、つ……と痛む。
「だから、あなたは――最後には、誰からも選ばれないの」
(……誰からも。姉さんさえも――選ばない……?)
姉のわずかな震えが空気越しに伝わり、私も唇を噛む。
胸の奥が、細い針でつつかれたみたいに軋んだ。
その瞬間――
姉の息がひゅっと詰まり、小さく震える声が漏れた。
「……いいえ、わたしは――」
ヴェルネはゆるりと振り向き、
まるで可愛い子どもを諭すように微笑んだ。
「あら?
またそうやって、全部ひとりで守ろうとするのね。
本当にあなた……“強欲”だわ」
姉の指先がぎゅっと重なり、
祈りの形に戻っていく。
魔王は微笑み、そっと甘い毒を垂らす。
「可哀想な子――
けれど、もう“嫉妬”に震えながら、頑張る必要などないの」
(――どういう意味?
それって……さっきの”問いかけ”と関係している――)
ヴェルネは、心の折れ目を撫でるように、ひどくやさしく告げた。
「もうすぐ。そう、もうすぐこの苦しみは終わるのだから」
はっきりと意味はわからない。
けれど、胸のいちばん深いところ――
ずっと守ってきた薄い膜のような場所が、ふいに、ぺり、と剝がれた。
(あ……やっぱり”プレゼント”ってそういうこと……なの?)
涙がにじむ。
視界の縁がじわりと滲み、形がほどけていく。
そして――
胸の中で支えていた“細い筋”が、ぷつりと切れた。
静かに。
音もなく。
胸の奥の灯火は――かすかに揺れた。
今にも消えそうに、細く、弱く。
それでも。
その小さな温もりだけが、
冷えきった心の底を、まだ照らしてくれていた。




