第九十一話 暴かれる心
魔王――ヴェルネは玉座に腰を下ろし、
いたずらを企む子猫のように、ゆるく微笑む。
燭台の炎がぱちと弾け、
金糸の髪の先で火の粉が反射して、頬の輪郭をふわりと縁取った。
「――そして百年前、聖女。大司祭によって、父は封印されましたの」
胸元へ指先を添え、しとやかに俯く。
悲劇を語りながら――どこか芝居めいて軽やか。
「こうしてわたくしたち姉弟は魔族になり、
わたくしが、魔王になりました……とさ? ふふ……」
首を傾げる仕草は少女じみて愛らしい。
ただ、その奥で揺れる赤い瞳だけが、
“底の見えない愉悦”を宿していた。
――ここからが“本番”とでも言うように。
「勇者パーティのみなさまとは、何度かお会いしましたでしょう?
そのたびに胸がきゅんきゅんしちゃって……」
甘い声。
その甘さは砂糖ではなく、喉に絡むようなねっとりした蜜。
フィーネの肩がわずかに強張り、
姉の唇はきゅっと噛みしめられた。
「なんでかしらって、ずっと考えていましたの。
だから、こうして“お客人”としてお迎えして……
もっと、じっくり“お話”したいと思いましたのよ?」
ゆるく椅子から立ち上がる。
黒いドレスの裾が、音もなく床を撫でた。
まるで新しい玩具を値踏みする子どものように、
ヴェルネはひとりずつ順番に、じっくりと視線を這わせる。
エリアスの眉が、ひくり。
その一瞬で、広間の温度がわずかに下がった。
ヴェルネは両手を重ね、淑女の礼を真似て微笑む。
「ずっと考えていましたの。
どんな“プレゼント”が、一番“素敵”かしらって」
青い灯火がふっと静まり、広間の音が消える。
「先ほど――皆さんと“お話”しましたでしょう?
触れたとき、心の形が伝わってきましたわ。
ああ……本当に素敵でした」
頬を指先でなぞり、恍惚の笑み。
(お話……? いつ――)
気づく。
――あの瞬間。
肩に触れられ、胸の奥へ流れ込んできた感情。
あれが、“お話”。
望んでいたのは対話ではない。
心を暴き、揺らし、壊すための――観察。
これが、“魔王”の“お話”。
元人間だったなんて、もう関係ない。
今の彼女は――完全に“魔族”。
その異質さに、背筋が一気に冷えた。
そして。
「素敵ね。絆で結ばれた仲間。でもね、いけませんわ――」
青炎が細く伸び、針がつんと刺さるような音を立てる。
「みなさま、それぞれ“秘密”を抱えていらっしゃるでしょう?」
甘い声。
だが、その奥に潜むものはただひとつ。
――純粋で、残酷な愉悦。
ヴェルネは首をゆるく傾け、
玉座からまっすぐエリアスを射抜いた。
細い踵がコツ、と床を叩くたび、
燭火の影が波紋のように揺れ広がる。
「エリアス。ヴァルミエール王国の第二王子にして、勇者。
たしかに――あなたは仲間を、民を等しく大切に思っている。
誇り高く、高潔。
――けれど、一番“欲望”にまみれているのはあなた」
エリアスの眉がかすかに震える。
その揺らぎへ、青い火がコソコソと笑った。
「あなたの国は“腐敗”していますのね。
はびこる傲慢、憤怒、怠惰、強欲、嫉妬……。
だから、それを自らの手で正したい――
それが、一つ目の“欲望”」
否定はない。
沈黙そのものが、肯定として静かに落ちた。
「そして――もう一つ。
そのとき、隣に立っていてほしいと願うのは――」
白い手が、舞台女優のように弧を描く。
「聖女様――あなたよ」
エリアスが唇を噛み、
姉は小さく目を逸らした。
ヴェルネは、その一瞬を逃さない。
ぱん、と白い手を軽く叩いた。
「さあ――今ですわ」
青い灯火がひりつく。
「今、言えばよろしくてよ?
ほら、“聖女が欲しい”って」
エリアスが息を呑む。
喉がわずかに震える。
ヴェルネは唇の端だけで笑い、
玩具を試す子どものように囁く。
「言えないの?
まあ……かわいらしい“勇者”ですこと」
そして、人差し指をそっと唇へ。
「ふふ……まだ“自覚”が足りませんのね?」
(ひどい……! なんで、そんな……)
アリシアの肩が震え、
エリアスは言葉を失う。
「でも――王にも、夫にも。
“自分こそがふさわしい”とお思いなんて。
それこそ欲望にまみれた“傲慢”ですわね?」
エリアスの瞳に宿る揺らぎは、怒りではない。
もっと痛く、もっと深い――“傷ついた光”だった。
*
黒い裾がさらり。ヴェルネはバルドの前へすべる。
「王国最強とうたわれる騎士――剛盾バルド」
その名を甘く呼ぶだけで、広間の空気がぴん、と張る。
「あなたの“忠義”は、誰のためかしら?」
返事を待たず、窓外へすっと白い手。
外の荒野で巨人の影がうねり、青白い稲光が遠くで瞬く。
「御覧なさい?」
巨人の軍勢。
その手前で震えるように並ぶ、ちっぽけな王国軍。
「あなたの国の兵たち。
そして――勇者パーティ」
バルドの眉が、かすかに震えた。
ヴェルネは横顔を覗き込み、耳へ甘い息をかける。
「どちらかしら?」
沈黙。――もう“答え”は形になっている。
「――大丈夫。もう知ってますの。
あなたの心が一番傾いているのはここ」
胸に手を当て、うっとり笑う。
「“聖女アリシア”。
ああ、いけない子ですわ。
国の騎士なのに、国以外へ“忠誠”を捧げるなんて」
姉が息を呑み、バルドの肩がきしむ。
それでも刃は、さらに深く落ちていく。
「でもね?」
声が一段、低く甘く落ちる。蝋が静かに滴る音。
「大切な人。もう一人、いるわね?」
(――やめて)
姉の睫毛がふるえ、エリアスが息をのむ。
私は、胸の奥で何かがきしむ音を聞いた。
動けないのは――バルドだけ。
ヴェルネは「しー」と唇へ指を立て、
そのまま耳元へ影を寄せた。
「セレナ」
心が止まる。拳は震えていない。
でも――震え“そうだった”。
「まだ“守りたいだけ”かもしれない。
けれど、想いは――ある。
ふふ……でも、どちらにもあなたの想いは届かないわ」
バルドは身じろぎもせず、ただ目だけでヴェルネを射抜いた。
「あら? その目の奥に燃える炎――それは“憤怒”かしら?」
青い灯りが一斉に揺れて、壁の影がほどけた。
*
ヴェルネは満足げに唇の端だけで笑い、フィーネの隣へ。
歩くたび、黒い裾が石床をさらりと撫で、その音だけが細く伸びていく。
「フィーネ姫……あなたは、とても“シンプル”」
フィーネの呼吸が、わずかに揺れたように見えた。
「だって――あなたには、失うものなどもう何もないから」
否定する気配はどこにもなく、フィーネの横顔に古い影が差す。
「国を失い、家族を失い、森も未来も……全部壊れた。
そして百年、“怠惰”に――昏い森をただ彷徨ってきた」
フィーネの睫毛が、小さく震える。
ヴェルネは肩先へそっと影を寄せ、声を低く甘く落とした。
「もう……いいのよ?」
救いの衣をまとった、やさしい毒。
「思い出して?」
青の光の中、指が蝶のようにふわりと舞う。
「幼き日の“憧憬”を」
フィーネが息を呑む気配。
指先の示す先――
「そこにいるわ」
漆黒の騎士――ガルヴァン。
フィーネの肩がわずかに跳ね、その後わずかな沈黙が続いた。
「けれど――彼は魔族。
このままでは、どう足掻いても届きませんわね?」
フィーネの肩が、すっと沈んだように見えた。
ヴェルネは、まるでその沈みを待っていたかのように
指先をひらりと揺らす。
「どうしたらいいか――。
あなたなら……もう、わかっているのではなくて?」
(どうしたらって……何のことを言ってるの?)
フィーネの指先が、ほんのわずか震えた気がした。
*
真紅の瞳が向けた先を、私は自然と追った。
視線の軌道の先にいるのは、あと二人。
背骨が、ひやりと鳴る。
(……次は、私)
喉の奥で呼吸がつかえ、胸が細く震えた。
ヴェルネの影が、ゆっくりこちらへ――。
足音が、迷いなく“自分”へと近づいてくる。
(来る……来る……)
――すっ、と空気がずれた。
擦れた裾が足首を撫で、
気配が、私のすぐ背後を“抜けた”。
(……え?)
思考が一瞬で凍りつく。
胸の奥に、ぽっかりと穴のような“空白”が開いた。
振り返るより早く――
視界の端、姉の背の後ろにヴェルネが立っていた。
(……ヴェルネ……。
どうして、私を通り過ぎたの……?)




