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第九十話 落日の記憶

「――さすがは勇者様。ご決断に賞賛を!」


ヴェルネはゆっくりと拍手し、メルヴィスもぱちぱちと続いた。

乾いた音が広間に響く。


私には――それは、本気で喜んでいるように見えた。


ヴェルネは満足そうに微笑むと、隣のテーブルからグラスを取り、掲げる。

メルヴィスも、高々と掲げた。

隣に立つガルヴァンは、動かない。


エリアスも、バルドも、フィーネも、姉も。

グラスには手を伸ばしたが――誰一人として掲げなかった。


私も一拍遅れて、冷たいグラスに指先をそっと添える。

触れただけで、こんなに冷たい……。


(……乾杯なんて……できるわけ――)


「――だが、忘れるな。

 食卓を囲んでも――貴様は敵だ、魔王」


エリアスの言葉。ヴェルネは無言の微笑みで返す。


「それでは――」


ヴェルネはまるで祝宴を始める女王のような微笑みを浮かべ、

広間をゆるやかに見回した。


「わたくしたちの出会いに! 乾杯!」

「かんぱーい!」


メルヴィス以外誰も応じないまま、

二人の声だけが広間に長く尾を引いた。


けれどヴェルネは――まるでそれこそが望みだったかのように微笑んだ。



静寂の中、食器の音だけが響いていた。

金と銀が擦れる乾いた音が、灯火の下で糸を引くように反響する。


ヴェルネは肘掛けに肘を当て、頬に手を添えたまま、ずっとこちらを眺めている。

時折口にするのは、あの黒い果実だけ。

まるで、舞台の幕が下りる瞬間を待つ観客のように――。


やがて、食器の音がひとつ、またひとつと消えていった。


「いかがでしたかしら?

 エルシオン宮廷料理のお味は?

 千年前も、今も――美味しいものは美味しいのではなくて?」


エリアスの声が、張り詰めた空気を裂いた。


「――なぜもてなす? 目的は、なんだ?」


ヴェルネは白い腿を覗かせ足を組み直し、裾をそっと正す。


「また質問ですの?

 わたくしは、“お話”をしたいのに」


ヴェルネはグラスを傾け、一口だけ口に含んだ。

白い喉がかすかに動きグラスを置く。


そして、微笑みを崩さぬまま、首をかしげた。


「ふふ……あなたの国では客人をもてなすのに――

 いちいち理由が要るんですの?」


微笑みながらも、その瞳の奥では、冷えた光がわずかに瞬いた。


「空腹では会話を楽しめませんもの。

 ――それだけですわ。ね?」


ヴェルネが目を合わせると、メルヴィスも頷いた。


「うん。でも満ちるって感覚はもう忘れちゃったな。

 けれど、僕たちもちゃんと味は分かるんだ。

 こんなふうにね」


そう言いながら、メルヴィスも黒い果実をひとつ摘まみ、口に放り込む。


「“お話”とはなんだ?」


エリアスが鋭く言う。

ヴェルネの唇が弧を描いた。


「あら、勇者様はせっかちですのね?」


そう囁くと、ヴェルネは細い指でグラスの縁をゆるくなぞった。


キィン――と透明な音が広間に溶けた。

まるで彼女の漆黒の爪先ひとつで、

この空間の温度がひとつ変わったようだった。


ゆらりと揺れた青い灯が、

彼女の横顔を淡く照らす。


ヴェルネはそのまま指先を唇に寄せ、微笑んだ。


「……いいわ。そろそろ、お話しましょうか」


次の瞬間、壁際に控えていた侍女たちが静かに動き出す。

皿を下げ、グラスを下げ、音もなく消えていく。


その気配が消えると同時に、フィーネが息を噛んだ。


「お前たちと話すことなどない」


ヴェルネはやさしく笑い、名を呼ぶ。


「まあ……フィーネ姫ったら。

 昔からそんなふうに頑固な子だったのかしら。

 ねえ、ガルヴァン?」


名を呼ばれた黒騎士は沈黙を守ったまま、

黒甲冑に映る蒼い灯だけが、わずかに揺れた。


そして、また沈黙。


けれど、次の瞬間、ヴェルネの言葉が冷たく落ちた。


「――だめよ。今度は、わたくしが満足する番」


青い炎が揺れ、フィーネの頬へ落ちる影が震える。

だがその影の裏で、ヴェルネの表情だけは、なぜかひどく穏やかだった。


「――昔話をひとつ、いたしましょう」


***


ヴェルネの声が、青い炎に溶けていく。

まるで、千年の昔から語りかけるように――。


ゆるやかに玉座を降り、

裾を引きながら、中央のテーブルに沿って歩み出す。


青い燭光が金糸の髪を撫で、

その影が床を滑り、長く、長く伸びていった。


『千年前――王国の版図は大陸のすべてを覆い、

 父は神を敬い、民を愛し、

 わたくしたち姉弟も穏やかに育ちましたわ。

 この城は王都。豊かで、温かく……誰もが幸せでした』


その声は、広間に滲み、直接心に語り掛けるようだった。


語りながら彼女は、卓上の銀の杯に指先で触れた。

カラン――と、澄んだ音が広間を渡る。

その響きに、誰もが息を止めた。


私は彼女から目を離せない。

息を呑み、その姿を目で追った。


ヴェルネは、エリアスの横のテーブルに軽く腰掛けると、

金の髪をひと束すくい上げ、耳の後ろへそっと流した。


『けれど……結局、豊かさで醜く肥え太った人々の、

 底なしに膨れ上がった欲望によって――破綻したのですわ』


エリアスの肩にそっと指先を置く。

そのまま彼の頬に唇を寄せ、囁くように言った。


「ふふ……勇者エリアス。あなたの欲望は――なにかしら?」


姉の瞳が揺れた。

唇を引き結んだまま眉一つ動かさないエリアスをそのままに、

ヴェルネはテーブルから腰を下ろす。


姉の方に視線を流しながら、バルドの背後に回ると、大盾の縁を指でなぞった。

冷たい金属がわずかに鳴り、青い光が反射する。


『父に忠誠を誓った家臣も騎士も……

 ついには友までも裏切りましたの。

 国は、飾り物のように崩れ落ちました』


ヴェルネの指先が――そのままバルドの肩から握られた拳へと滑った。


「騎士バルド――あなたの“忠誠”は、誰のためかしら?」


バルドの喉が、かすかに鳴った。


ドレスの裾を引く音だけが響き、ヴェルネはフィーネの背後で足を止めた。


テーブルに背を向け、窓の外の荒野を見つめる。

青い炎がその横顔を照らし、その姿はまるで石像のように静かだった。


『街は焼かれ、民は散り、跡形もなく――。

 速やかに、容赦なく……ええ、みじめに蹂躙されました』


ヴェルネはそっとフィーネの背に手を添えた。

その瞬間、フィーネの肩がわずかに跳ねる。


「フィーネ姫――思い出していいのよ?

 あの日のことも、想い人のことも」


フィーネの睫毛が震え、ガルヴァンの視線がわずかに揺れた。

その刹那、窓の外の景色までもが、かすかに歪んだ気がした。


ヴェルネは歩を進め、私の背後に立つ。


『反乱軍が城を呑み込み、忠臣は倒れ、母は絶望に焼かれ身を投げ……

 そして、この広間で。

 父とわたくしたちは最後の望みにすがりました。


 ――神に。愚かにも。


 どうか、どうかお救いください……とね』


私の肩にそっと冷たい手が触れる。


ぞくり、として体が震えた。

体温が吸い取られ、代わりに冷たい指先から、何かが流れ込んだ。


それは――怒り。喪失。憎悪。絶望。悲嘆。諦念。空虚。

あらゆる負の感情と、滅びの記憶。裏切りの痛み。祈りの残滓。


それは、私の胸の奥にある痛みの記憶に重なり――

胸の奥で誰かが泣いていた。


(……どうして。こんなに恐ろしいのに……胸の奥が、痛いの……?)


耳元で衣擦れがかすかに鳴り、心臓が跳ねた。

肩越しに寄せられたヴェルネの横顔の冷気が頬を刺し、ぴりぴりと痺れる。

甘い香りにすえた匂いが混じり、思わず息を止めた。


「“聖女の妹”セレナ――あなたの望み。

 神は聞き届けるかしら?」


胸の奥で、何かが静かに割れた。


私の――望み。


誰かが見てる気がして、思わず目を伏せた。

胸の奥がきゅっと熱くなり、いたたまれなくなる。


ヴェルネはそのまま二歩、三歩と姉の後ろに進む。

一房すくった姉の銀髪をはらりと落とし、真紅の瞳で姉を見下ろす。


『……神は、沈黙した』


その言葉とともに、青い炎がひとつ、ふたつと消えた。


「聖女――アリシア。

 神はあなたを傷つけ、祈りを奪い続ける。

 あなたの願いは……きっともう届かない」


姉は震える手を膝の上で結び、

唇をきつく噛んでいた。


誰もが動けなかった。

沈黙が、祈りよりも重く広間を満たしていく。


やがてヴェルネは玉座の前に戻ると、テーブルの端で足を止める。

そして、ゆるやかに振り返った。


誰もが息を止めた。

ヴェルネは手をそっと重ね、瞳を閉じ、金の睫毛が揺れた。


その顔は魔王でも魔族でもない――

まるで千年前の少女の顔。


『――その祈りに応えたのは、神ではなく、“魔”でした』


その刹那、青い炎が一斉に揺れ、金糸の髪が舞い上がる。

彼女の影が静かに私たちの足元を覆う。


『そして、父は“魔”に抱かれ、魔王となり、

 わたくしたち姉弟も、この場所で――。

 ええ、“魔族”となり永遠の命を授かったのです』


一瞬、空気が止まった。

そのとき、ただその声だけが、世界のすべてだった。


影が震え、瞼が開く。

現れたのは真紅の双眸。


疑いようもない。

その顔はもう、魔王――ヴェルネ。


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