第九話 誓い
「君を当家に迎えたい――
十六になってからで構わぬ……考えておいてくれまいか」
そう言って、公爵はためらうことなく深々と頭を下げた。
その瞬間、空気が震えるほどの衝撃が走った。
誰もが息を呑み、あの老執事でさえ眉をわずかに上げる。
――王国三大公爵家の一角、その当主が。
貴族の中の貴族と呼ばれる男が。
一人の娘に対して、みずから頭を垂れたのだ。
それは子を想う父の姿であり、
死した友の娘を想う親友の姿であり、
そして一人の少女に未来を託そうとする男の姿だった。
その威厳はいささかも揺らがず、
むしろ気高さを増すほどに――。
公爵が頭を下げた――その意味を理解できないほど、私は幼くはない。
この申し出は――もう断れない。
ぐいと歯を食いしばった。
けれど――。
そのときふと気づく。
違う。これは姉の幸せが約束される申し出……。
そもそも断るべきなんかじゃない──。
シスターたちは感極まったように手を取り合い、子供たちは憧れの瞳を姉に向けている。
マルグリット司祭も「神のご加護がありますように」と低く祈りを捧げた。
客間には、喜びと祝福の気配が満ちていた。
そして目の前には、あの剛盾バルドの父――カステルモン公爵閣下。
姉は一瞬、考え込むようにまぶたを伏せ――
やがて静かに微笑み、澄んだ声で応えた。
「……身に余るお申し出に、感謝の言葉もございません。
ただ……少しだけ、気持ちを整理するお時間を頂ければ幸いです」
その言葉を肯定と受け取った公爵は満足げに頷き、場を和ませるように微笑んだ。
シスターや子供たちの視線は一斉に姉へと注がれ、再び祝福の色に満ちる。
(……これでいい。姉さんが幸せになれるなら……)
私は噛み締めるように俯いていた。
ふと、目を上げると、公爵は私に目を留めた。
「姉妹と聞いていたが――君がそうか?」
突然の声掛けに、胸が跳ねた。
「は、はい。セレナ・ルクレールと申します」
私も、姉ほどではないが、体に染みついたカーテシーで応える。
私が摘まんだ裾を下すと、公爵は目を細める。
「君は……光属性の魔法は?」
「は、はい。少しだけなら……」
「うむ、そうか。姉を支え、良き淑女となるのだぞ」
その父のような大きな掌が、私の頭に軽く触れた。
……優しいはずなのに、嬉しいはずなのに。
なぜか跳ねた心臓は急速に冷え、奥がずきりと痛んだ。
私はこんなふうに――
遠くへと引き寄せられていく姉の背を見ていることしかできない。
――その光は眩しく、けれどそれだけに。
私はますます光が届かぬ影の中に取り残されていくように感じた。
*
その晩のこと。
サン・クレール孤児院の寝室は、子供たちのおだやかな寝息で静まり返っていた。
石壁にかけられた小さなランプが揺れ、二段ベッドの下段で私は毛布をかぶっていた。
上段から、かすかな声。
「……セレナ、起きてる?」
「……うん」
私は身を起こし、軋む音を立てないように上段をのぞき込む。
月明かりに照らされた姉の顔は、まだどこか蒼ざめていた。
「さっきのこと、考えてたの」
「剛盾バルド様の……?」
姉は小さく頷いた。
その瞳は揺れていたけれど、同時に決意の光も宿していた。
「……わたし、このまま嫁入りなんてできない」
「……姉さん……」
「まだ何も成していないし……それに」
姉は胸元をぎゅっと押さえた。
トリスタン様の面影が、まだそこに残っているのだと私は気づいた。
でも、姉の瞳にある光はそれだけじゃなかった。
「あなたを置いて、わたしだけ幸せになるなんて……できない」
その声はかすかに震えていた。
でも、そのとき私は気づいてしまった。
(姉さんを縛りつけているのは、本当は私なんじゃ――)
少しの沈黙ののち、姉はふっと息をつき、私の手を握った。
「……冒険者になりましょう、セレナ」
姉から唐突に落ちた言葉に、思考がついていかない。
「え……冒険者?」
「王都の冒険者養成学校なら、十三歳から入学できる。
費用もかからないし、学んだことは必ずあなたの力になる。
そうすれば、誰かに庇護されるだけでなく、自分で道を選べる」
姉の真剣な声音に、胸が熱くなった。
姉は私を守るために提案している。――それ以上に、姉自身が道を切り開こうとしているのだ。
(やっぱり、姉さんはすごい)
けれど、私は躊躇した。
「……姉さん、冒険者って危険なんだよね?
あの剛盾バルド様のお嫁さんになれば……」
姉は私とは違う。
見た目も気品もあって、危険な道を選ばなくても生きていけるはずだ。
「……やだ」
驚いた。耳を疑う一言だった。
思わず体が揺れてベッドの縁に手をつく。
「え……?」
「セレナがいないところには絶対行かない」
姉の目に涙が溜まり、今にも零れそうだった。
(――トリスタン様を失ったから、私が妹だからってだけじゃなかった。
私と同じ……二人で一緒にいたいって思ってくれてるんだ――)
そう思った瞬間、目頭が熱くなり、涙が溢れてくる。
それに――。
私は思い出す。
そう、私はあの日、姉を絶対に一人にはしないと。
――あの星空に、トリスタン様に誓ったんだ。
私は――もう迷わない。
「うん……行こう、姉さん」
私の返事に、姉は安堵に満ちた、それでも泣きそうな笑顔を浮かべた。
「ありがとう、セレナ。……二人なら、大丈夫」
「うん……二人なら」
私はぎゅっと姉の手を握り返し、布団に戻った。
上から姉の小さな嗚咽が聞こえ、目頭の熱さと胸の鼓動はしばらく止まらなかった。
(お姉ちゃん。ずっと一緒にいよう……ね?)
胸の奥で、私はそう呟き――目を閉じた。




