第八十九話 饗宴
「――そして今は、“魔王”」
私の中で――時が止まった。
空気が震える。
蒼い灯が波紋のように揺れ、
玉座の影が――まるで生き物みたいに、ゆっくりと伸びていく。
(……嘘……でしょ?)
ごくり、と息を呑んだ瞬間、背中がひやりと冷えた。
震えているのは――自分だ。
指先がじん、と痺れ、握った杖の重さだけが現実みたいに感じられる。
(……ヴェルネが、“今の魔王”……)
あの嵐の夜の、トリスタンとの別れ。
ルクレール領主館で見た父母の幻影。
そして今――。
“魔将”として何度も姿を現していた。
けれど、本当は最初から“魔王”だった。
あの余裕。あの魔力。
まるでこちらの心を試すような態度。
死霊や死霊騎士。古の転移魔法。森でのガルヴァンの警告――。
気付ける可能性なんて、いくらでもあった。
じゃあ、どうして――?
『私たちを、あのとき葬らなかったのはなぜ?』
『どうして、これほどまでに追い詰めるの?』
『なんで武器を持たせたままなの?』
『私たちを座らせて、何がしたいの?』
『あなたの目的は……何?』
――疑問が湧いては、胸の奥で絡まって消えていく。
(息が浅い……落ち着いて……落ち着け、私……)
深呼吸しようとしてもうまくいかない。
心臓が早鐘みたいに暴れて、思考がまとまらない。
理解できない。怖い。
(――でも、知りたい……。
どうして……なの……? あなたはいったい――)
怖くて、憎くて、たまらないのに。
なのに――どうしてか、“知りたい”と思ってしまった。
――コツ、コツ。
その音に、現実へ引き戻される。
ヴェルネが、爪先で玉座を軽く叩いていた。
微笑を浮かべたまま肘掛けに手を預け、
細い脚をゆるやかに組む、その所作は威厳に満ちた魔王そのもの。
そして、その少女――魔王の微笑は、
無垢で、純粋で、美しい。
けれど、その奥底にあるのは底冷えするほどの冷たさだった。
これまで幾度も目にしてきた、“無邪気で残酷な微笑み”が胸をかすめる。
思い出した瞬間、背筋がぞくりと震えた。
あの夜の雨も、あの甘い香りも――すべてが蘇る。
――何も変わっていない。
この魔王は、間違いなくあの少女――魔将ヴェルネだ……。
その瞬間――。
灯火がふっと揺れ、広間の空気がわずかに歪む。
まるで世界が、彼女ひとりの呼吸に合わせて拍を刻んだみたいだった。
そんなはずないのに――
そうとしか思えなかった。
*
「――お前が、“今の”魔王なのか?」
絞り出すようなエリアスの声。
ヴェルネはゆっくりと彼へ目を向け、唇の端をわずかに吊り上げた。
「ええ、父――先代魔王は、まだ復活していないわ」
メルヴィスが銀の皿を差し出す。
そこには、墨みたいに黒い葡萄に似た果実が一房。
「だって、百年前の聖女の封印は強力だったもの。
復活までには……まだ千年はかかるでしょうね」
ヴェルネは視線を勇者から逸らさぬまま、そのひとつを摘み取った。
「つまり、わたくしを斃せば――
あなたたちはあと千年は安泰。
ふふ……それが叶えば――だけどね?」
果実を指先で転がすように唇へ運び、舌で絡め取るようにして――
ゆっくりと、その実は唇の奥へ消えていった。
「でもね?」
爪先で玉座を一度、軽く叩く。
「わたくしは、そんなに我慢強い方じゃないの」
ヴェルネの喉がかすかに動く。
その所作はあまりにも人間的で――だからこそ、不気味だった。
一瞬だけ覗いた白い牙が、彼女がもはや“人”ではないことを静かに示す。
次の瞬間、白い牙が果肉を裂く乾いた音が、やけに遠くで響いた。
「だから――質問は、おしまい。
ねえ、わたくしは、あなたたちと“お話”をしたいの。
そのためにお招きしたのよ?」
(人質とっておいて”お招き”――よく言うよ……)
「ずっと、戦いばかりでお腹が空いてるでしょう?
お話は、晩餐の後にいたしましょう」
その声は、水面に落ちる雫みたいに静かだった。
けれど、その一滴だけで――空気が従った。
途端に、香ばしい匂いが広間を満たした。
召使いたちが滑るように現れ、銀の皿を卓上へ並べていく。
(まさか……! 本気で?
魔族の城で、魔王と共に――晩餐!?)
喉がひとりでに鳴る。
誰もが息を潜める中、料理は次々と卓を埋めていった。
肉が焼ける音。焼きたてのパンの匂い。
暖かいスープの湯気。琥珀色の果実酒の、甘く危うい香り――。
そのすべてが、ゆるやかに戦場の記憶を遠ざけていく。
(……変だ。怖いのに、体が緩んでいく……)
喉の奥が勝手に鳴り、舌の裏に唾が溜まる。
空っぽの胃がきゅう、と縮む。
熱と匂いが、ゆっくりと感覚を侵していく。
ここが夢なのか現なのか――もう、その境すら揺らぎ始めていた。
***
目の前には、銀の皿がずらりと並んでいた。
燭台の蒼い揺らぎがグラスをそっと撫で、
琥珀色の液体が――まるで水面みたいに、ゆるく息をしている。
湯気を立てる料理の数々。
香ばしい匂いと果実の甘い香りが混ざり合い、
静寂の中では溶けきれないほど濃く、ゆっくりと漂っていた。
さらに中央には、整然と並べられたオードブルや甘味。
――どう見ても、“王宮の食卓”。
(……おかしい。だってここ、魔王城だよ……?
さっきまで殺し合いしてたんだ……。
こんなの、ありえない……)
あまりの現実味のなさに、思考がふわりと遠のく。
本当に、これは現実なのだろうか。
いや、まだメルヴィスの幻の可能性も……ある。
食卓が整い、扉が静かに閉じられた。
ヴェルネはゆるやかに脚を組み替え、衣擦れの音だけが響く。
灯火がかすかに揺れ、影がひざまずくように頭を垂れた気がした。
「どうぞ。召し上がれ」
そう言ったヴェルネは期待する子供のように、
少し体を前に傾け、にこりと微笑む。
沈黙。
(……きっと、罠だ……。
第一、魔王と食卓を囲むなんて、正気の沙汰じゃない……)
誰も動かない。
空気がひどく冷たく、
揺れる炎がワインの表面をゆらりと照らした。
ヴェルネは唇を尖らせる。
「あら……ざ~んねん。
まあ、警戒なさるのも無理はないけど」
そう言いうと、「ん~」っと唇に指を当て、首を傾げる。
その仕草が、まるで見た目相応の少女のようでぞっとした。
「けれど――それでいいのかしら?
皆さま、何かお忘れになってませんこと?」
ぱちん、と指が鳴る。
次の瞬間、重厚なカーテンがゆっくり開き、窓が姿を現した。
視線が、自然とそこへ引き寄せられる。
――外。
窓の向こう。巨人の列。
黒い影が果てしなく続き、蠢いている。
そのさらに奥――
丘に陣を敷く王国軍。
あまりに遠く、あまりに儚く見えた。
(……っ!)
息が詰まる。
(……あれが、“いただきます”の代わり?
いや違う。従う限り、約束は守るってこと?)
でも――
同時に彼らが無事でいるのがわかって、胸の奥がじん、と緩んだ。
(……食べるしかない。
でも、ただの食事なんて……そんなわけ――)
確かめなくちゃ。
私は片手に杖を握り、こっそりテーブルの下で魔法陣を描く。
『浄化』
魔法陣が淡く光る。
……けれど――何も起きない。
(え……?)
今度は四つの『浄化』の魔法陣を、みんなの前に――。
それでも、まったく反応がない。
術は確かに発動している。
指先の感覚でわかる。
つまり――これは幻でも毒でも、呪いでもない。
(……これは、間違いなくただの食事。
わざと……なの? だとしたら、なぜ?
慈悲? ヴェルネに限って絶対にない。
戯れ? そうかもしれない。
けれど――それだけじゃない気がする……)
そのとき。
手に、小さな温もりが触れた。
姉がそっと手を伸ばし、私の手を握ってくれた。
驚いて姉を見ると、姉はこちらを静かに見つめ、小さく頷いた。
(……みんな……)
五人の視線が交差する。
エリアスも、バルドもフィーネも頷く。
誰もがエリアスを見る。
炎の揺れがエリアスの横顔を照らし、
瞳に一瞬、影が走る。
(どうするの、エリアス――?)
緊張で指が痺れたように強張る。
その瞬間、姉の手が、強く握られた。
その手は温かく、指先の痺れを押し返してくれた。
それでも彼は、静かに頷いた。
「――頂こう」
その一言で、全員がわずかに息を吐く。
(……そうだよ。まだ終わってなどいない。
逃がれられないなら、前を向く。
それがわたしたち。
これまでだって、これからだって……!)




